みなさんこんばんは。第20回のミステリアス・シネマ・クラブです。このコラムではいわゆる「探偵映画」「犯罪映画」だけではなく「秘密」や「謎」の要素があるすべての映画をミステリ(アスな)映画と位置付けてご案内しております。

 新しい年になりました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。2018年、皆さまは良い物語に出会えましたでしょうか?そして2019年も良い物語に出会えそうでしょうか?
 
 さて先月のコラムで〈今のところ私の今年のベスト1映画は劇場未公開の『デンジャラス・プリズン―牢獄の処刑人―』、ベスト1ドラマは『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』〉と書きましたが、結局年明けまでこの2本は揺らぐことがありませんでしたので、本日ご紹介するのはこれらの作品といたしましょう。まったく違うタイプの映像作品ですが、共通するのは鑑賞者を特殊な世界に連れていく手際が実に論理的であること。大男の極端な暴力映画とある家族にまつわる悲しきゴースト・ストーリーというまったく違うジャンルではあるのですが、何がどうなっていて、何故そうなるしかなかったのか、何故このように描かれているのか、そのすべてがはっきり見渡せる見事な構成はミステリアス・シネマの愛好者として最高に心地よいものでした。

■『デンジャラス・プリズン―牢獄の処刑人――』Brawl in Cell Block 99) [2017.米] ■


■【予告編#1】デンジャラス・プリズン -牢獄の処刑人- (2017) ■

あらすじ:元ボクサーのブラッドリーは仕事をクビになり、妻との関係にも苦しんでいた。ああ、本当にどうしようもない、金がほしい、もう一度やり直すために。悪事に手を染めたくはないが、背に腹は代えられない、どうしようもない。その身体と力を武器に、昔の伝手で麻薬の運び屋として働き始めた。しかしあるとき取引現場で警察との銃撃戦に遭遇してしまい、逮捕されることに。密告はしないとなれば監獄行きはどうしようもない。さらに収監された刑務所にギャング側から使いがやってきて、取引の失敗の代償として刑務所内で敵組織の人間を暗殺することを求められる。断ることのできない状態にされてはどうしようもない。ということで……

 
 この連載でも以前取り上げた傑作荒野劇『トマホーク ガンマンVS食人族』のS.クレイグ・ザラー監督の2作目も残念ながら日本では劇場未公開。しかしながら今作もまた現代における暴力映画の記念碑となるような凄い映画ですので、本サイトの読者の方には是非見ていただきたい作品です。異様に丹念な空間設計! 圧倒的な身体感覚! 真摯な人体破壊! 最高に勤勉な暴力映画の誕生! なんて帯文(小説じゃないですけど)を書きたくなってしまうような暴力の収支の明朗会計ぶりには痺れずにいられませんでした。
 こうした切羽詰まった犯罪劇も地獄の刑務所ものも、割と「定番」のジャンル映画といえるでしょう。70年代風バイオレンス・アクション映画の再生産という点では『グラインドハウス』を思い出すような部分もあります(特に人体破壊のエフェクトはそのあたりのチープさをあえて模していると思しいところも)。しかし今作の場合、ジャンルそのものの再現に重きが置かれているわけではありません。S.クレイグ・ザラーは今回も「ありふれた話」から「ありふれてないもの」を取り出してしまうのです。
 
「こういう話」は知っているはずなのに、見たことがない表現が頻出する映画です。徹底してロジカルな話法に貫かれた作品で、無駄に見えることの全てが無駄ではなく、語られていることに意味がないところがない! 徹底的に「必要なことを必要なだけ」を極めると、「論理上こうなるしかない」無情な世界が主人公に待っているだけ――ありえないほどじっくりと時間をかけて描かれた刑務所内の構造と人物を示すオリエンテーションに顕著なのですが、淡々と積み重ねられる時間の流れはそのまま物語の血肉となってゆき、「どうしようもない状態」なので「それ以外の行動は起こしようがない」ということが見ているだけでわかってしまう。この機能美としかいいようがない徹底的な論理の組み立てによってもたらされる、終盤の究極の暴力と究極の詩情という離れ業!
 
 ヴィンス・ヴォーン演じる主人公が素手で車を解体してしまう序盤から全部のシーンがおそろしく丁寧に撮られ、その身体運動には生々しい重みがあり、あらゆるシーンが映画という絵空事のお約束にできない現実性をもたらしてくるのがもう、なんともいえず凄いのです。何よりも威力が高いのがその身体の捉え方。のっそりと歩くだけで物騒な気配を漂わせるその首筋、強く見せるためではなく強くあるための筋肉、破れた皮膚程度のことは気にも留めない拳に滲む血。物理的に身体がデカくて硬そうで得体のしれなさがある人が動くだけでもたらす緊張感の使い方が絶妙で、思わぬタイミングで地味かつ強烈な暴力が来る瞬間のドスッとくる重みや何かが破壊されるシーンにおいての「尋常ならざるものを見ている……」感のなんと強烈なこと!
 
 そして面白いのが主人公はゴツい見た目から判断されるような「無口で不器用で力だけは強い」というタイプではなく必要なことはきちんと言い、明晰な思考を保ち続けていて、判断ミスや感情の混乱が原因になったトラブルは全くない点なんですね。何故こうなったのかと嘆くのは最小限で、「最悪の事態の中ではまだいちばんマシな結果になるように」という判断基準で動き続けます。にもかかわらず日の光から遠ざかり続けていってしまう、ただただ不運で始まった「自分にはどうしようもないこと」ゆえに(この不運(不条理)VS論理の闘いで「論理」がどこまで行けるのかというテーマには前作の『トマホーク』と重なる部分もあるように思います)。そんな「自分の不運も含めて何もかもが見渡せてしまう」主人公がそこにあることをひとつひとつ勤勉に片付けていく行為、その行動のすべてが必然。そしてその最終地点には……
 
 相変わらず鋭いユーモアをたたえた台詞のセンス、眩しい陽光も底なしの闇も禍々しく強烈な暴力も小さな平和の瞬間も全部同じ低体温低湿度で捉える撮影、70’sソウル風でありながら「実際には70年代には存在していないオリジナル音楽」を使う捻り具合……と注目ポイントも色々。是非この不思議な暴力映画の面白さを一人でも多くの方にご覧になって体感していただけたらと思います。


■よろしければ、こちらも/『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』

(https://www.netflix.com/title/80189221)

 シャーリイ・ジャクスンの『山荘綺談(丘の屋敷)』をベースとしたNetflixオリジナルのドラマシリーズ『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』も「私は今、未来の古典を見ている!」と痺れっぱなしの驚異の全10話でした。25年前の夏、家族で暮らした「ヒルハウス」といういわくつきの館。あの場所で、5人の兄弟姉妹たちと両親にいったい何が起きたのか? そして今、再びその呪いが彼らに襲い掛かるとき……という物語はこれ以上を説明すると無粋になると思うのですが、とにかく水も漏らさぬかたちで「時間」と「空間」を設計したドラマだということだけはお伝えしておきましょう。
 
 全話とも監督は以前このコラムでご紹介した『オキュラス 怨霊鏡』『サイレンス』を撮ったマイク・フラナガン。(スティーヴン・キングの大ファン。なお今作はキング先生も絶賛し、監督も大喜びしてました。良かったですね監督……!)この人は基本的に映画畑の人でドラマシリーズのクリエイターとしては未知数だったと思うのですが、「10回で1つの物語を完成させる」ドラマというフォーマットを使うということを最大限に生かしたこの構成力と編集の巧みさは超ハイレベル。特に第5話~6話と最終話で彼らの行動や言葉の背景にあるものを解き明かし「そういうことだったのか」を伝えていくストーリーテリングの妙はミステリ好きの方々を唸らせるのではないかと思います。恐怖とは「わからなさ」のバリエーションで、そのわからなさはとても悲しいもので、悲しみの本質とは不可逆性で、その最たるものとして死が存在している、だから私たちは死者の姿を見るのです、ということがep2段階で既に完璧に伝えられてしまうような手際の良さにも驚くばかり。なお全てのエピソードを見終えて今作がお気に召した方は、展開を知ったうえで再度冒頭から2周目を見直すことをおすすめいたします。私は画面内に「理由があって映っていたもの」がこんなにあったのか、と衝撃を受けましたよ!
 
 ミステリアス・シネマ・クラブ、それでは今宵はこのあたりで。また次回のミステリアス・シネマ・クラブでお会いしましょう。今年も皆さんとミステリアス・シネマとの良き出会いがありますように!

今野芙実(こんの ふみ)
 webマガジン「花園Magazine」編集スタッフ&ライター。2017年4月から東京を離れ、鹿児島で観たり聴いたり読んだり書いたりしています。映画と小説と日々の暮らしについてつぶやくのが好きなインターネットの人。
 twitterアカウントは vertigo(@vertigonote)です。



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