最近買った中国ミステリー小説が2冊とも女性懸疑(女性サスペンス)を扱っていました。しかも両方とも「她」(彼女、Sheという意味)という言葉が入っているという偶然。このコーナーではこれまで何度も中国の女性サスペンスについて取り上げてきたので、今回はこの2冊を紹介します。

 

『她与她与她』(彼女と彼女と彼女)(著:競天澤/2026年)

 

 2018年12月、薬品漬けの毒ナマコ養殖業者のスクープを追っていた新聞記者の楊思凡が農薬を飲んで死んだ。現場の状況から警察は自殺と判断するも、彼女の後輩である周篠は遺書の内容に疑問を持ち、楊思凡の先輩の元新聞記者・蒋立に会いに行く。実は蒋立は楊思凡とともに2008年6月17日に起きた殺人事件(六一七大案)の真相を追っていたが、理不尽なクレームを受けてマスコミ業界にいられなくなったという過去を持っていた。蒋立もまた楊思凡の遺書の違和感を指摘し、六一七大案で協力した元刑事の高冉と連絡を取る。一人の記者の死により、複数の事件の時間が再び動き出す。

 

 

・女性が主役の『検察官の遺言』

 タイトルのとおり、本作の中心人物の大半は女性です。楊思凡も周篠も蒋立も高冉も女性だし、六一七大案をスピード解決した刑事の黄青蘭も女性。そんな所属も立場も異なる彼女たちが事件の真相を明らかにするという一点で協力し、組織犯罪と戦うのが本作の本筋であり、見どころでもあります。そして一般人が巨悪と戦うには、なりふり構っていられないということが正直に書かれています。

本作で最も存在感を示しているのが元新聞記者の蒋立です。自他ともに厳しい業界人という印象ですが、頑固で冷徹、目的のためなら手段を選ばないという危うい性質も持つ人物でもあります。物語の冒頭に、彼女の危うさを象徴するエピソードが挙げられています。彼女はもともと江莉という名前だったのですが、六一七大案に関する誤報で悪名が広まり、マスコミ業界にいられなくなったため、蒋立という名前に改名したという過去を持っています。しかし江莉も蒋立も、発音こそ違えど、読みは同じ「ジャンリー」です。名前の候補ならいくらでもあるのに、わざわざもとの名前と同じ発音にする(中村さんが仲邑さんに改名するという感じか)ところに、彼女の意地の強さがうかがえます。

 物語の後半には、そんな冷酷で手段を選ばない彼女だからこそできた捨て身のトリックが明らかになります。簡潔に言うと、楊思凡の死後、警察が到着する前に自殺ではなく殺人事件っぽく現場を改ざんして偽物の遺書を置くことで、世間や警察の注目を集めようとしたのです。この偽装工作は蒋立すら思いもよらない形で効力を発揮するわけですが、かわいい後輩の遺体を利用する非情な決断は、紫金陳の『検察官の遺言』(訳:大久保洋子)を彷彿とさせます。

 

 

 10年前の事件を軸に複数の事件と複数の人間が絡み合う群像劇である本作の中で、最も複雑な立場にいるのが、刑事の黄青蘭です。彼女は被害者の身元さえ判明していないのに容疑者が特定できた六一七大案をスピード解決に導いた立役者であり、それを冤罪と疑った楊思凡や蒋立たちと対立する陣営にいます。では彼女が出世欲が強く無能だったから無理な逮捕に踏み切ったのかというとそうでもなく、彼女もまた六一七大案の数々の違和感に気付いていました。しかし当時の状況が彼女に事件解決から逃げることを許さなかった。何のことはない、彼女もまた何者かに導かれていただけだったわけですね。

 間違った選択をしたと心の片隅で後悔しながらも、敏腕刑事として周囲の期待に応えるために立ち回る黄青蘭の姿が終始痛々しい。スクープを「誤報」にされてキャリアを棒に振った蒋立と同様、彼女もまた事件に人生を振り回されてきた人間として描かれています。そして物語後半、蒋立による楊思凡他殺偽装トリックで追い詰められた彼女はついに蒋立たち側に立つことを余儀なくされます。このとき彼女へ向けられる言葉が、個人的にひどく身につまされてしまいました。「彼女(黄青蘭)は間違った状況の中で正しいことをやろうとした結果、ますます間違いを犯すだけだった」とか「六一七大案がなかったとしても、正しい道を歩んでいさえすれば、あなた(黄青蘭)の頭脳と手腕ならとっくに望み通りの地位に就いていたのではないか?」とか、間違った成功は将来の禍根にしかならないということを黄青蘭の人生を通して読者に教えています。

 

 著者の競天澤も社会部の元記者で、10年にわたる記者人生で見聞きした実際の事件を作品に盛り込んだとか。本作では大きな代価を払って最終的に正義を成し遂げられたわけですが、現実では「彼女と彼女と彼女」のように同じ目的のために連帯することができるのかと考えてしまいました。

 

 

『她的契約』(彼女の契約)(著:蔡駿/2026年

 

 中国のヒットメーカー蔡駿の新作です。『幽霊ホテルからの手紙』(訳:舩山むつみ)や『忘却の河』(訳:高野優、坂田雪子)といった邦訳もあるので、日本でも知名度がある作家でしょう。調べると本作はすでに映像化も決まっているとかで、やはり蔡駿は他の著名な中国ミステリー・サスペンス小説家より頭が一つ飛び抜けているなと思いました。

 

 2024年4月、編集者の王小童は異国で亡くなった父・王権の唯一の遺産である上海市のブダペストマンション504号室に夫の丁科生とともに移り住む。20年前に母・翁童が亡くなったこの部屋は、彼女にとって良い思い出のあるところではなかった。部屋には父が昔使っていただろうIBMの古いパソコンがそのまま置かれていた。ある日、丁科生が何気なくIBMを起動させると、画面に勝手に文章が表示され、こちら側からも文章を入力したところ、このパソコンを介して2004年の王権と会話できることに気付いた。王権が20年前に書いた小説は当時、出版社から門前払いを受けたのだが、20年後のいまこそ大ウケすると確信した丁科生は正体を隠し、王権の書いた小説を受け取る代わりに絶対に上がる株の銘柄を教えるという契約を交わす。時空を超えた錬金術で二人は大金持ちになっていくが、彼らの精神は蝕まれていき、マンション内で血なまぐさい事件が相次いで発生する。

 

・時空を超えた「男同士の約束」

 築100年近いブダペストマンションの魔力に当てられた丁科生と王権が徐々に変貌していくため、本作をスティーブン・キングの『シャイニング』のオマージュと評価する声もあります。ちなみに蔡駿は「中国のスティーブン・キング」と呼ばれているという話ですが、この異名は中国でそこまで使われていないというのが個人的感想です。蔡駿はもはや蔡駿で、いまさらスティーブン・キングの名前を使って大きく見せる必要もない、ということですね。

 物語は50章以上に分かれ、各章ごとに異なる視点で進み、舞台が現代になることもあれば20年前にもなり、もっと前に遡ることもありますが、場所がだいたいブダペストマンションで固定されているので、読んでいて混乱することはなかったです。また、ほとんどの章にその視点の人物の自己紹介――例えば「私は王小童。私は王権と翁童の娘。私は丁科生の妻」――が入るのも可読性を向上させています。物語が進み登場人物が増えると交友関係も複雑になっていきますが、「私は王小童の父親の浮気相手。私は王小童の『隣のお姉さん』。私は翁童の友達で恋敵」などの説明を差し込むことで、関係者の数や深さがひと目でわかるようになっていて、読者の混乱を避けるための工夫がうかがえます。

『彼女の契約』というタイトルとは裏腹に、契約したのは丁科生と王権で、王小童も翁童もそんな契約どころか、夫が大金を稼いでいることすら知り得ない立場にあります。

 作中でも言われていますが、人類は大昔から数多の契約を取り交わし、結婚に仕事に居住にと契約から逃れられない人生を送ってきました。そして契約の中には、したくなかったものや渋々受け入れたもの、いつの間にか契約条項に自分まで盛り込まれていたものもあります。働き盛りの王小童が、コンドームをつけていない丁科生とセックスして妊娠し母になるというのも、本心から望んだわけではないが受け入れた契約の一つでしょう。それでは、不利益を被る契約も守るべきでしょうか?

 契約によって株で荒稼ぎする王権と小説の版権を売って儲ける丁科生との間に共犯関係が生まれる中で、互いに王小童に危害を加えようと考えます。丁科生と王権との間で交わされた契約は、王小童にとって害でしかありませんでした。そんな不平等な契約から逃げるに当たり、彼女は選択を迫られます。つまり、自分は誰の何なのかということです。

 各章で繰り返される「自分はどういう名前で、誰々の何々である」という立場の表明には、れっきとした順番が存在しています。「私はAの妻であり、Bの娘である」という表現なら、より大切な肩書きは「Aの妻」です。今まで作中で何度も「私は王権と翁童の娘。私は丁科生の妻」などと言っていた王小童にとって、一番大切な肩書きはなんなのか。彼女は娘であることを選ぶのか、それとも妻であることか、それとも……

 

 

 2冊とも「她」(彼女)という文字が入っているけど、書いているのは「她」ではなく「他」(彼)というのがいまの中国ミステリー小説の現状であり、中国SF小説との距離かなと感じました。中国SFだと、女性作家の作品のみが収録された『她』という短編集が出ていますし、日本でも『走る赤‐中国女性SF作家アンソロジー』があります。でも女性作家だけの中国ミステリー小説短篇集って見たことないですので。『她与她与她』は女性の登場人物を男性に変えても成立する話ですし、『她的契約』はいまではふさわしくないノンデリ描写が多いですし、もっと「她」の視点で書かれた女性サスペンスが増えればいいですね。

 

 

 

 中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。

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現代華文推理系列 第三集●
(藍霄「自殺する死体」、陳嘉振「血染めの傀儡」、江成「飄血祝融」の合本版)


現代華文推理系列 第二集●
(冷言「風に吹かれた死体」、鶏丁「憎悪の鎚」、江離「愚者たちの盛宴」、陳浩基「見えないX」の合本版)

現代華文推理系列 第一集●
(御手洗熊猫「人体博物館殺人事件」、水天一色「おれみたいな奴が」、林斯諺「バドミントンコートの亡霊」、寵物先生「犯罪の赤い糸」の合本版)


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