「ベイカー街221B」は、シャーロック・ホームズが住んでいた下宿の住所ですが、ホームズが活躍していた時期にはこの住所は存在していませんでした。ワトスンが、この存在しない住所を公表したのは、本当の住所を特定されないよう偽装するのが目的だったと言われていますが、依頼人はおろかモリアーティなどのライバルたちもこの下宿を訪れているのだから、じゃあなんのための偽装だったのかという気がしないでもありません。ただ、世界中からホームズに宛てた手紙がこの住所に届いているという話を聞くと、偽装の意味はこんなところにあったのかと感じ入る次第です(ホームズが本当に存在していたらの話ですが)。
ホームズが活躍していたころには存在しなかった「221」という番地は、その後区画整理などにより、一九三〇年には実在する番地となります。このとき、「221」に該当する場所に存在したのがAbbey Road Building Society(アビー・ロード住宅金融組合)であり、以後ホームズ宛ての手紙はすべてこの組合に届けられることになります。組合では、これらの手紙を無下に扱わず、返事を送るなどの後処理について「ホームズ担当秘書」なる役割を設けて対応することにしました。
というのは、いわゆるシャーロッキアンじゃない私でさえ、ウィキペディアやいくつかのウェブサイトを調べたら、ほんの数分でたどり着ける事実です。が、ホリー・ヘップバーンはこの事実から想像を膨らまし、とても魅力ある物語を生み出しました。それが今回取り上げる『シャーロック・ホームズは引退しました』(廣瀬麻微訳 創元推理文庫)です。
『シャーロック・ホームズは引退しました』 ホリー・ヘップバーン (著), 廣瀬 麻微 (翻訳) 出版社 : 東京創元社 |
主人公はハリエット(ハリー)・ホワイトという女性です。独立心の強い良家の令嬢で、アビー・ロード住宅金融組合で副支店長の個人秘書として勤めていました。しかし、副支店長の誘い(というか明らかなセクハラですが)を蹴った結果、個人秘書の仕事から外され、建物の地下にある郵便室へと配置替えになります。そこで与えられたのは、この住所にひっきりなしに送られてくるホームズへの依頼に対して、ひとつずつ返信を書き送るという一風変わった仕事だったのです。無数の、しかもひとつずつ内容の異なる依頼に対して、ハリーが打つ文面はいつも同じでした。すなわち「ホームズはすでに引退していて新規の仕事を引き受けていない」というものです。傍目から見ればまったくおもしろみのない単調な仕事ですが、独立心が強いうえに好奇心旺盛なハリーにとってはそうではありませんでした。あるときハリーは、ロンドンでメイドとして働き始めた姉が行方不明になっているという手紙を読み、その内容に強く惹きつけられ、なんとかしたいという思いが高まり、とうとう自ら「ホームズの秘書」を名乗って捜査に乗り出すことになるのです。とはいえ、探偵でもないハリーに捜査の仕方などわかるはずもありません。調べれば調べるほど深まっていく謎に戸惑うばかり。探偵のまねごとなどするべきではなかったと落ち込みながらも、なんとか事件を解決しようと奮闘する姿が生き生きと描かれています。
「ホームズ宛に届く手紙」に着想を得ているとはいえ、本作はいわゆるパスティーシュと呼べるものではないと思います。しかしながら、変装、新聞への広告、追跡劇、そして暗号など、ホームズ物語を彷彿とさせるものがちりばめられていて、とても楽しい読書となるでしょう。北原尚彦さんの解説も必読。冬ごろには第二作も読めるようです。
続いては本当に久しぶりのスティーヴ・キャヴァナー『キル・フォー・ミー キル・フォー・ユー』(吉野弘人訳 小学館文庫)です。私は『弁護士の血』(二〇一五年 ハヤカワ・ミステリ文庫)が本当に好きだったんですが、続きが出る気配もまったくないし、もうキャヴァナーの新刊は読めないのかなあと思っていたところに登場したのが本作です。ノンシリーズの本作も思いっきりツイストの効いた読み応えのある作品になっています。
![]() 『キル・フォー・ミー キル・フォー・ユー』 スティーヴ・キャヴァナー (著), 吉野弘人 (翻訳)出版社 : 小学館 |
物語は、アマンダ・ホワイトという女性が拳銃を手に、ある男を殺害しようとするシーンから始まります。夫が目を離したすきに娘を攫われて殺されるというだけでもつらいうえに、その夫が自責の念に駆られて自殺してしまうという二重の苦しみを味わっているアマンダは、容疑者として名前が挙がりながら警察が逮捕まで持ち込めなかった男を、自らの手で葬ることを決意します。男を徹底的にマークし続け、いよいよ殺害を決行しようという直前で男に気づかれ、こうささやかれるのでした。「おれはおまえの娘を殺しちゃいない」
アマンダは男への接近禁止命令を受け、家族を亡くした人が集まる自助グループへの参加も義務づけられるのですが、このグループでアマンダはナオミという女性と出会います。アマンダと意気投合したナオミは、自分と同じ境遇にあるアマンダに対してある提案を持ちかけるのでした。
一方、不動産エージェントとして働いているルースは、夫の留守中、自宅に侵入した何者かによってめった刺にされ、瀕死の状態に追いやられます。なんとか一命は取り留めたものの、ルースが見たという犯人の特徴も「青い瞳」であるということしかわからず、捜査は難航していました。
と、あらすじとしてお話しできるのはこのくらいでしょうか。ここから先はぜひ直接手に取って読んでいただきたいと思います。アマンダとナオミ、家族を奪われた二人の復讐譚に、瀕死の状態に陥れられたルースがどのように絡むのか、というのがストーリーのメインになるわけですが、ここからキャヴァナーは何度も何度もひねりを加えてきて読者を驚かせます。ナオミがアマンダに持ちかけた提案というのは、帯にもヒッチコックへのオマージュとあるのですぐにピンとくる方は多いでしょう。が、キャヴァナーはこれを単なるオマージュにとどまらず、私たちの想像を遙かに超える狂気の沙汰に変えてしまうのです。いやいや恐れ入りました。
あともう一つ付け加えておくと、本作の締めくくり方についてはおそらくさまざまな意見があることでしょう。このラストを是とするか非とするか、ぜひ最後まで読んで考えてみていただきたいと思います。私ですか? うーんどうだろう、ナシよりのアリかなあ。読書会で議論してみてもいいかもしれません。
ここからは告知です。全国翻訳ミステリー読書会では、フリーダ・マクファデン『ハウスメイド3 最後の秘密』刊行直前の七月四日(土)二十一時より、「『ハウスメイド』シリーズ 超ネタバレ読書会」を開催します。これは二部構成になっておりまして、今回は前半戦で、これまでの二作を取り上げることになっています。タイトルにもあるとおり、ネタばれアリのイベントなので、ぜひ『ハウスメイド』そして『ハウスメイド2 死を招く秘密』をお読みいただいてからご覧いただきたいと思います。そして『ハウスメイド3 最後の秘密』を取り上げる後半戦も近日中に開催する予定です(こちらはネタばれなしになります)。
イベントの詳細については、読書会サイトの記事をご覧ください。
全国翻訳ミステリー読書会では、これからもさまざまな企画を考えていきますので、ぜひこちらの動向にもご注目ください!
| 大木雄一郎(おおき ゆういちろう) |
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これから秋にかけて、各社傑作が出揃う時期になりますね。遅れを取らないようしっかり読んで、紹介していきたいと思いますのでどうぞよろしくお願いいたします。 |


これから秋にかけて、各社傑作が出揃う時期になりますね。遅れを取らないようしっかり読んで、紹介していきたいと思いますのでどうぞよろしくお願いいたします。