華文ミステリー『掃鼠嶺 廃駅を喰らう火群』(上下)が7月30日に二見書房から刊行されました。原作『掃鼠嶺』は中国で2020年に出版された社会派ミステリー小説。著者と同名の名探偵・呼延雲が活躍するシリーズの8作目として中国でも人気で、現在映像化の話が進行中です。
原作自体が分厚いため、邦訳版は上下巻となりました。日本ではほぼ無名の中国ミステリー小説家の作品であることに加え、書籍価格の高騰が続く昨今、購入をためらっている人もいると思います。
本作を翻訳した筆者は著者と同じ北京在住で、著者とは顔見知りです。著者のサイン会があれば読者の一人としてできる限り顔を出すということをもう10年以上続けています。著者もサイン会では読者に分け隔てなく笑顔で接し、筆者の姿を見かけると駆け寄って固い握手を交わしてくれます。思い入れと思い出がある作品と著者のためにも、本作が日本の多くの読者に読まれてほしいというのが翻訳者としての本心です。
北京で行われた新刊トークショーの様子。左が呼延雲
そこで今回はこの場を借りて、本書のあらすじや本シリーズの紹介、そして内容に対する自分なりの解釈を書くことで、本書をまだ手に取っていない方はもちろん、すでに読んだ方も楽しめるような「翻訳者まえがき」を皆さんに届けたいと思います。
10年前、某市で女性を狙った連続殺人事件が発生し、女性警察官までもが犠牲になる中、警察上層部は中国警官大学の優秀な学生・林香茗を捜査本部に派遣する。先進的な捜査知識と技術を持つ彼は独自の視点で捜査を進め、ベテラン刑事の見解とは異なる犯人像をプロファイリングする。彼と同じ警官大学の学生・劉思緲は現場の割れた水槽の破片から犯人のメガネの破片を発見し、林の友人の大学生・呼延雲は、その証拠隠滅の手法が日本の某ミステリー漫画に酷似していることから、犯人はその漫画を購入した可能性が高いと推理する。そんな中、街の治安主任が殺され、その娘が襲われたことで、その少女のクラスメイトで高校3年生の周立平が捕まる。直接的な証拠こそ見つからなかったものの、アリバイがない、ミステリー漫画を購入していた、学校で女子生徒にわいせつ行為を働いていた等の間接証拠から、周こそ女性連続殺人事件の犯人だと断定される。だが林が現場の刑事の反対に遭いながら孤軍奮闘して周をかばったことで、周は治安主任殺しの懲役10年が求刑されるだけだった。
それから10年後、掃鼠嶺という廃駅の換気塔から火の手が上がり、中から子ども3人と大人1人の焼死体が見つかる。現場付近の防犯カメラに映っていたのは、2年前に出所した周立平だった。状況的に怪しすぎる彼はまたもや捕まり、今度こそ死刑にしてやると警察も躍起になる。周立平は連続殺人鬼ではないとかばった当時の林香茗の判断は間違いだったのか。劉思緲は友人で記者の郭小芬に周立平の生い立ちを調査するよう依頼する。一方、当時の自身の推理によって逮捕に結び付いたはずなのに林香茗が犯人をかばったことに納得がいかない呼延雲は、10年前に相棒の女性警官を殺され周立平に恨みを燃やす元刑事の李志勇とともに周立平の交友関係を洗う。また、子どもたちの遺体の虐待痕から児童養護施設に捜査が及び、杜撰で非人道的な実態が明らかになるものの、バックにいる組織のせいで警察もうかつに手が出せない。子どもたちを殺したのは周立平なのか、児童養護施設は事件と何の関係があるのか、呼延雲たちは人間の善性と悪性に対峙する。
・歓迎されない探偵の役割
本書は2009年の第1作『嬗変』から2025年の『鬼笑石』まで現在計10作が出版されている呼延雲シリーズの第8作目に当たります。本書のまえがきで著者も触れている通り、各作品はほぼ独立しているため、8作目から読んでも特に問題ありません。なのでここで各作品のあらすじを説明したり、各登場人物を紹介したりはしません(著者のあとがきに主要人物紹介あり)。
ここでは、主人公の肩書でもある「探偵」(作中では「推理者」とも呼ばれる)が本シリーズでどのような役割を果たし、どのように描かれてきたのかを解説したいと思います。それというのも、本シリーズの前期と中期以降で、探偵の扱いや描かれ方が大きく異なるからです。
本シリーズを前期と中期以降に分ける目印の一つに、「四大推理機関」の存在が上げられます。シリーズ前期において、この物語世界には警察に公然と協力する四つの探偵組織の存在が明示されていました。公安部に所属する「課一組」を除き、無錫の「渓香舎」、重慶の「九十九」、中国警官大学の「名茗館」の三つはほぼ民間団体で、最後の「名茗館」に至っては大学のサークルです。しかしそんな民間団体が警察と対等な権力と発言力を有し、その卓越した組織力と推理力で数々の事件を解決に導いてきたという功績を持っています。中でも個性的なのが、名茗館トップの愛新覚羅・凝です。彼女は優秀な探偵ですが、愛憎を優先する人間として描かれ、中国一の探偵である呼延雲や恋敵である劉思緲らメインキャラを妨害するといった、探偵としてはあるまじき行為を繰り返していました。名茗館などの探偵組織は呼延雲の噛ませ犬という損な役回りを押し付けられていましたが、作劇上の重要な役割も担っていました。その役割とは、民間の探偵組織のメンバーが警察官と共に捜査を行っているのだから、名探偵の呼延雲が事件現場にいても違和感がないという世界観づくりです。警察に認められている探偵組織は、個人の探偵の存在を守る天幕にもなっていました。
ただ、「四大推理機関」は中国の読者の間でも「中二病」っぽいと揶揄され、シリーズ5作目『烏盆記』を最後に物語から消えます。そのせいで多くの伏線や設定もなかったことになりましたが、以降、シリーズ中で探偵として扱われるのは呼延雲のみとなり、探偵と警察の関わり方も変化します。呼延雲と警察関係者の「なあなあの関係」が徐々に成立しなくなるのです。6作目の『父親的復仇』では冒頭、呼延雲は公安局局長から非公式の依頼を受けて捜査に協力し、その後、有力者の後ろ盾を得ることで捜査に首を突っ込んでも警察に妨害されない立場になります。最新作10作目の『鬼笑石』では、警察と一定の距離を保ち、自身が関心のある事件を独自に調査するという自由行動を取ります。
「小説家すら『四大ミステリー研究会』について触れないこんな時代に、まだ名探偵コナン気取りでいるつもりですか?」
これは、勝手に調査を進める呼延雲を快く思わないベテラン刑事が本書で発したセリフです。ここから本シリーズで探偵と警察が決別したことが読み取れます。作中世界においても、名茗館などの「四大推理機関」はフィクションであり、そんな組織を登場させるミステリー小説もなくなり、中国警察は探偵に公式に協力を依頼したことなど一度もないという歴史がここでつくられました。
本書を読む上でこういう設定や世界観を知る必要はありませんが、探偵が必要とされない世界で名探偵と呼ばれる呼延雲に果たして何ができるのかは是非とも本書で確認してもらいたいです。
・抜け出せない谷底
本書では、劣悪な環境に子どもたちを収容する児童養護施設や汚職で私腹を肥やす悪人たちが出てきます。その実態や手口は警察官すら閉口するもので、そのあまりの酷さに罵るのを忘れて呆れ果てるシーンもあります。
「国が空前の反腐敗運動を行っているのに、彼らは怖くないんですか?」
「怖いでしょうよ。死ぬほど怖いはずです。しかし(以下略)……」
本書には上記のような会話が何度も出てきて、汚職や組織犯罪について国が本腰を上げて対策していることが繰り返し強調されます。こういったやり取りは単に登場人物の口を借りて国の政策を持ち上げているわけではなく、作品世界の背景説明にも一役買っていて、現実同様、犯罪や悪人が駆逐されて社会がますます良くなるに違いないというポジティブな世論が作中でも形成されているのがわかります。しかし社会の安定化に疑心を持たず期待を寄せる人々を描く一方で、前向きな変化についてこられない人々に冷静な目を向けているのも本書の特徴でもあります。
作中後半、ある人物が自身の境遇を廃駅の換気塔下で黒焦げと化していた3人の子どもと照らし合わせるシーンがあります。彼もまた社会風紀の改善の恩恵を受けた一人であり、悩みのタネがようやく解消されたことに喜ぶべきなのですが、もはやどう頑張っても幸せな人生を取り戻せないと、解決してしまったことで改めて気付いたわけです。
社会がこれからV字回復するとして、谷間にいる人間がみな好調の波に乗れるとは限りません。相棒を亡くし復讐に燃える日々を過ごすだけの元刑事の李志勇、裁判で認定されなかった連続殺人鬼のイメージが世間に流布し出所後も肩身の狭い生活を送る元受刑者の周立平、劣悪な環境で生きることを強いられる子どもたちなど……著者はさまざまな理由で絶望の谷底に落ちた人々に思いを乗せながら、そこから這い上がる難しさと、そして這い上がったところで谷底に落ちた事実は消せないということを突き放すように描き切ります。
そして地下で黒焦げになった3人の子どもが谷底の象徴だとすれば、汚職で豊かな暮らしを送る悪人たちは絶頂の象徴です。では谷底から救い、絶頂から蹴落とす者は誰なのか。社会が果たす役割なのは間違いありませんが……
本書は取り立てて刺激的な内容でもなければ、「こんな作品が中国で出版されたなんて!」と驚くような話でもありません。紙でも電子でも普通に読めます。では翻訳者として本書の魅力を一つ上げるとすれば、呼延雲や劉思緲、周立平ら登場人物のときに愚直な思考から下される決定に対し、「自分ならどうするべきか」と考える機会を得られるところだと思います。個人から社会の規模まで幅広い問題が相次いで提示される本書に、完璧な正解はほぼ出てきません。正解だと思ってやった行為が誰かを傷つけることになるかもしれないし、誰からも支持されないかもしれません。彼・彼女らが下した選択は正しかったのか、自分にその選択はできるのか、そういったことを中国の読者と同じように悩んでほしいです。
書店で『掃鼠嶺 廃駅を喰らう火群』を見かけたらぜひ手に取ってみてください。呼延雲シリーズを読んだ日本人読者と早く語り合いたいです。
| 阿井幸作(あい こうさく) |
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・ブログ http://yominuku.blog.shinobi.jp/ |
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中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。