みなさま、カリメーラ(こんにちは)!
おかげさまでこのエッセイも五十回目を迎えることができました。マイナーな分野ですが、覗いていただいた方々には、ただただ感謝です。また、連載を認めてくださった翻訳ミステリー大賞シンジケート様、毎回丁寧に編集をしてくださる事務局スタッフにも感謝申し上げます。
まだまだご紹介したいネタはありますので、今後ともごひいきに、どうぞよろしく!
さて、二十世紀現代ギリシャの歴史といえば、大きなトピックの連続ですが、そのひとつが《小アジアの大破局》です。
第一次大戦末期に連合国側に参戦し戦勝国となったギリシャは、かつての大帝国を夢見て(いわゆる《
当時記者として取材に来ていたヘミングウェイはこの時のパニックを「スミルナの埠頭にて」という短文にまとめ、『われらの時代』の序として挿入しています。戦火を逃れようと桟橋に殺到した住民の悲惨な様子を連合国軍艦の士官が淡々と語ります。
また、ギリシャ系の米国人作家ジェフリー・ユージェニデス『ミドルセックス』(2002年。翌年ピューリッツァー賞フィクション部門受賞) の第一章ではトルコ在住の主人公の祖父母がトルコ軍に追われ、ギリシャ経由でアメリカまで逃れていきます。駆逐するトルコ部隊のスミルナ入城、大火、埠頭で救いを求める人々の姿は強烈な緊迫感に満ちます。
ミステリ方面でいえば、ローレンス・ブロックが《マット・スカダー》や《泥棒バーニイ》を発表する以前のシリーズもの第一作『怪盗タナーは眠らない』(1966年)で《大破局》に触れています。普段は学生の論文代作(!)で日々の糧を稼ぐ大怪盗が世界中にあるコネを使って、アイルランドから南欧へと逃亡し、ユーゴ、ブルガリア経由でトルコに侵入して世紀のお宝を狙うという、ルパンのようなお話ですが、第一次大戦時のトルコ軍によるギリシャ人、アルメニア人迫害の証言が少し出てきます。
われらの時代・男だけの世界: ヘミングウェイ全短編 (新潮文庫)アーネスト ヘミングウェイ(著),高見 浩(翻訳) 出版社:新潮社 |
【初版は1924年ですが、1930年版ではスミルナ大火のスケッチが「序」として追加され、「スミルナの埠頭にて」のタイトルが付されたそうです。】
ミドルセックス (新潮文庫)ジェフリー・ユージェニデス(著), 佐々田雅子(翻訳) 出版社:早川書房 |
【アメリカへ移民した一家の物語がメインですが、第一章でトルコ内陸部での生活、スミルナの陥落、ピレアス港を出て新天地に向かう難民たちといった情景が続きます。船内に漂う匂いで民族の出身がわかる、というのが感覚的で生々しい。ギリシャ人の場合は「ニンニクとヨーグルト」】
『怪盗タナーは眠らない』(創元推理文庫)ローレンス ブロック(著), 阿部里美(翻訳) 出版社:東京創元社 |
【朝鮮戦争で受けた脳の損傷で、睡眠が不要となった怪盗の大活躍。設定は奇抜ですが、あまりに超人すぎて後年のマット・スカダーのような人間味がちょっと不足】
翌23年にはギリシャとトルコ間で結ばれた協定によって住民交換が行われ、紀元前から続く小アジア(トルコ)のギリシャ人居住区はほぼ消滅してしまいました。
◆大破局を描く歴史ミステリの絵巻物◆
今回はこの《小アジアの大破局》 を正面から取り入れたミステリをご紹介しましょう。
エレフセリア・メタクサ『スミルナの宝物』(Ελευθερία Μεταξά, Ο θησαυρός της Σμύρνης, 2022) です。
![]() エレフセリア・メタクサ『スミルナの宝物』 ミノアス出版社、2022年。 |
メタクサはすでに『神の手』(Το χέρι του Θεού, 2021) で本エッセイに登場しています(第32回)。初老のヴァルサミス警部と女性心理学者グリヌがコンビを組んで異様な事件を捜査するお話で、ホラーとフーダニットの間を揺らぐ不思議な作品でした
探偵二人のこれまでの活躍を先に書いておきます。グリヌは初登場の『烏木のごとき黒髪』(Μαύρα σαν τον έβενο μαλλιά, 2013) で家族がいきなり最悪の不幸に巻き込まれ、絶望の淵に沈みながらも事件に挑みます。遅れてヴァルサミス警部が『ヘカテの三つの顔』(Τα τρία πρόσωπα της Εκάτης, 2019) で登場(「ヘカテ」はギリシャ神話の冥界と魔術の女神)。二人は『罪なき罪人たち』(Αθώοι ένοχοι, 2020) で共演することになります。その後、『神の手』、『スミルナの宝物』と続き、近作の『鏡の傷痕』(Ίχνος στον καθρέφτη, 2023)、『収穫の時』(Καιρός του θερίζειν, 2025) でも二人が協働しているようです。
![]() エレフセリア・メタクサ『鏡の傷痕』 ミノアス出版社、2023年。 |
![]() エレフセリア・メタクサ『収穫の時』 ミノアス出版社、2025年。 |
今回の『スミルナの宝物』は600頁を超える長編です。2025年現在のアテネの殺人事件と、百年前のスミルナの歴史物語という二つの部分から成り、その分読み応えのある大部な作品になっています。
アテネ警察本部のヴァルサミス警部はすでに定年退職しています。顔なじみのカフェニオに入り浸り、向かいの本部のオフィスを見上げては、事件を追ってアテネを駆け回った若きあの日々よ~と嘆息しながら、第二の人生に馴染めずにいます。相棒のグリヌ博士もまた、養女がテサロニキ大学法学部に入学して一息ついたところのようで、久々にヴァルサミスを訪れて、思い出話に花を咲かせています。
平穏で少々退屈な暮らしの中、旧知の大富豪ラギオグルが亡くなったとの知らせがヴァルサミスにもとに飛びこみます。九十九歳の高齢で大往生だろうと誰もが思いますが、実はやつは殺害されたんだよ、とヴァルサミスのつぶやき。というのも亡くなる数日前ラギオグル老から突然の電話があり、わしゃ誰かに命を狙われとる、証拠もあるしの……と明かされていたらしい。
かくしてヴァルサミス元警部&グリヌ博士のコンビは、アテネ郊外キフィシアのラギオグル邸へ弔問に向かいます。家族医は心臓麻痺だと断言しますが、青年秘書は以前に送り付けられたという脅迫状を見せます。ただし、警察本部の殺人課主任(つまりヴァルサミスの後任者)に訴えてもまじめに取り合ってくれなかったようです。さらに家政婦もご主人様は毒殺されたんです、とヴァルサミスに耳打ち。ただ、この秘書といい、家政婦といい、腹に一物を持つ怪しげな人物に見えて油断できません。
不可解なのはこれだけにとどまらず、十年前にはラグオグル老の愛する孫娘が殺害されているのです。警察の懸命な捜査にもかかわらず、今なお犯人は不明(ヴァルサミス警部はこの事件捜査を通じてラギオグル老と知り合ったようです)。さらには、大富豪の息子夫婦までもがスパルタ旅行中に謎の交通事故死を遂げています。
横溝正史ミステリか? と思うほど、一族は何かの呪いに取り憑かれているよう。
グリヌの調査によれば、故ラギオグルは1922年スミルナの生まれ。大破局と戦火の中を避難する際に母と姉は溺死し、父の友人でレストラン経営者のイタリア人に赤子は救われたことがわかってきます。「事件のカギはスミルナにさかのぼるのでは?」グリヌは予感します。
もう一つの軸になるのが過去のスミルナの物語。
プロローグからして、桟橋で助けを求める群集やらお宝の箱を掘り出す男の姿がチラリと出てきます。その後もラギオルグ事件の途中で、スミルナのエピソードが何度も挿入され、過去と現在が次第に繋がっていきます。
トルコ軍がすぐ近くまで迫ったという噂が広まり、ギリシャ人やアルメニア人たちは桟橋に殺到します。スミルナ府主教は殺害され、ギリシャ人総督はさっさと逃亡。染織工房を営むアリストスはギリシャへの避難を決意しますが、妻は呆けたように豪邸の内部を見詰めたまま足が動きません。避難船は翌日昼に出航予定。アリストスはお宝を入れたケースだけは持って行くつもりのようですが……
アテネ物語では事件が進展しています。というより、謎が紛糾しています。グリヌも老ラギオグル、孫娘、息子夫婦の怪死を再調査するうち、元警部が執着するラギオルグ他殺説に傾いていきます。そんなにラギオグルの孫を名乗る若者が主なき豪邸に姿を現します。本物? それとも遺産狙いの偽者? ますます犬神家の一族っぽくなっていきますが、この若者、どうも財産はたんまり持っているようで、狙いがよくわかりません。
ミステリとして魅かれるのは(分量からいっても)アテネ物語で、猟奇的な雰囲気の中で登場人物たちの死が犯罪か、事故か、あるいは……と徐々に解かれていく過程が興奮ものです。ただ、スミルナ物語のほうも息詰まる歴史冒険ものとして最後まで読むのが止められません(『恐怖の谷』のようなこういう因縁譚、私大好きです)。
染織工の家族は無事に炎の町を脱出できるのか? 彼が手放さないお宝とはいったい何なのか? 難民のボートが荒波で転覆するシーンや、お宝を抱えて虐殺の街を逃げ惑い、残虐な武装ゲリラから逃れるために死体を積んだ荷車に潜り込んでの脱出など、地獄絵のような圧巻の描写が続きます。
巻末におびただしい参考文献が挙がっています。作者メタクサはこれらを渉猟して、大破局当時の姿を細密に再現しています。
リアルだなと感じるのは、陥落時のスミルナの惨事だけではなく、その後船でギリシャの島々へ、さらには港町ピレアスへと逃れた難民の姿です。最初は同情的に受け入れられた土地でも、次第に住民との軋轢が強まり、政府はこれを避けようと難民をさらに別の場所へ強制移住させていきます。(そんな場所の一つとして登場するのがヒオス島の異様な廃墟の町アナヴァトスです。見る者の想像を刺激する町で、数学ミステリのミハイリディスも舞台に使用していました。エッセイ第26回)。
百年を隔てる二つの時代の陰惨な出来事がどうリンクするのか? 絵巻物のような歴史ミステリ、たっぷりと愉しませてもらいました。
◆お久しぶりのヤニス・マリス◆
久しく手に取っていないと、そろそろまた読みたくなる懐かしのシリーズってありますね。私の場合、例えばメグレ警視、フレンチ警視、ネロ・ウルフのシリーズです(ネロ・ウルフは今でも新訳が出版されて嬉しい限り。ファンが待ち望んでいた《悪党ゼック三部作》も最近完訳されました)。
ギリシャでいえば、これはどうしてもヤニス・マリスの《べカス警部》ものになります。1950年代半ばに新聞連載小説としてお目見えし、読者も作家たちも熱中した大人気シリーズです。本エッセイ第1回のテーマもマリスのベカス警部でした。
ありがたいことに、アグラ社から新版が続々と刊行されています。
![]() ヤニス・マリスのデビュー作『コロナキの犯罪』 アグラ出版社、2023年(初版1953年)。 |
![]() ヤニス・マリス『楽屋の犯罪』 アグラ出版社、2025年(初版1954年)。 めずらしや、密室殺人が登場。捜査で難航するベカス警部「犯人は殺人光線で殺したんだろ」が笑える。 |
さて、久々に読んだのは『赤い壺』(Το κόκκινο βάζο, 1956) です。
1950年代は作者もとりわけノッてる時期で、この56年は6作も発表しています(傑作のひとつに数えられる『殺人者はタキシードを着ていた』Ο δολοφόνος φορούσε σμόκινもこの年)。他のマリス作品同様、『赤い壺』も最初は新聞連載され(《アポイェヴマティニ》紙)、その直後に《アトランディス》社から書籍出版されます。
![]() ヤニス・マリス『赤い壺』 アグラ出版社、2023年(初版1956年)。 |
ヤニス・マリス『殺人者はタキシードを着ていた』アグラ出版社、2022年(初版1956年)。 タキシードの男が列車から女性(死体?)を投げ捨てるのを、映画撮影所の若い技師が目撃。ヒッチコックかクリスティーの味わいです。途中から登場するベカス警部が慈愛深いおやじの雰囲気でホッとさせてくれます。 |
アテネ北部のプシヒコ区ではコロネロスの豪邸が威容を誇っています。
ある夜、若きレーナ夫人の寝室に何者かが侵入。気配を察して怯えるレーナは小間使いを呼びますが、部屋には誰もいません。夫コロネロスも顔をのぞかせますが、夢でも見たんだろと冷笑的です。
レーナはもともとカイロ在住の富豪一族の娘で、第二次大戦中パーティーで海軍士官コロネロスと出会い、恋に落ちて電撃結婚。ところが夫は結婚直後から態度が豹変し、冷淡なふるまい。その過去は一切不明、極東で密輸に勤しんでいたらしいなどと黒いうわさが絶えません。
翌朝コロネロスはテサロニキへ主張で出かけますが、ひとりで不安だというレーナに万一のため、ブローニング銃を渡します。
その夜ふたたび何者かが侵入。レーナはパニックになった挙句発砲してしまいます。(読者の期待通り)床には夫の死体が転がり、飾られていた赤い壺が割れて破片が散乱しています。夫を射殺したショックでレーナは雨の中を中庭に走り出ます。ほどなく庭師や料理人たちに連れ戻されますが、死体も拳銃もなく、壺も割れずに暖炉の上に置かれたまま。庭師たちからは疑惑の目で見られ、レーナは半狂乱の状態です。
何とも懐かしい、定番のサスペンスですね。どう見ても犯人はバレバレ。ある意味安心できます。
憔悴して高熱にうなされるレーナはコロナキ区の友人邸に引き取られ、静養させてもらいます。が、そんな彼女に追い打ちをかける電話が。墓の中から響いてくるような声で「
ところが、この後事件はうねり始めます。さすがマリス・ミステリ、単純には行きません。
コロネロスは行方が知れぬままでしたが、やがてその水死体が出張先のテサロニキの港湾で発見されるのです。しかし、本当に本人なのか? 裏で糸を引く人物がいる? たいして複雑な事件じゃないよなと思っていた読者も、あわててページをめくり続けてしまいます。最後に二人の人物が繰り広げる、ブラフを交えた緊迫の対決も読みどころです。
本作にはベカス警部は登場しません。
では誰が謎を解くのかというと……レーナはかつて恋人だった熱血青年シガノスと再会し、事件の謎を解いてほしいと頼みます(マリス・ミステリでは定番の恋愛関係)。で、このシガノスが探偵か?と思いきや、自分だけでは荷が重いと感じたのか、旧友マヴリディスに相談。マヴリディスは新聞社《イメラ》の記者で、シガノスとは対照的にマイペースののらくら者ですが、赤い壺の出所調査に没頭します(《イメラ》社といえば、ベリャーエフ『地球の狂った日』のメタクサス君と同じ新聞社! 架空の会社ですが……エッセイ第45回)。ところが、マヴリディスもさらなる確証を得ようと友人のヨルダモグル警部のもとへ。第三の探偵登場です。この警部、小柄で小太り、近所の
結局真打ち探偵は誰なのか、予想しながら読むのも愉しみです。
マリス・ミステリは社会風俗、流行を作品に取り入れるのが常で、読みながら1950年代のアテネの雰囲気に浸れます。
今作では、レーナ夫人が友人たちとルネ・クレールの映画を見に行きます。題名は書かれていませんが、年代からして「夜の騎士道」(Les Grandes Manœuvres, 1955年)? 当時のギリシャ人読者にはすぐに分かったのでしょう。 かと思えば、ラジオからはジュリエット・グレコやナット・キング・コールの歌が聞こえます(これもタイトルは不明ですが、「パリの空の下」や「スマイル」を勝手に脳内で流しておきましょう)。
もひとつ、おっと思ったのがヒオス島への言及です。コロネロスの薄暗い過去の秘密はヒオス島にある可能性が浮上し、ヨルダモグル警部は調査を依頼します。
メタクサ『スミルナの宝物』で出てきたのもこのヒオス島。ギリシャ人にとっても、エキセントリックな香りを放ち作品に登場させたい島なんでしょうかね。幻想的な壁装飾の町ピルギ、世界遺産のネア・モニ修道院、山腹の廃墟の町アナヴァトスなど観光名所は多いです。ピレアス港からフェリーで8時間ほど。
マリス・ミステリは全部で五十作を超えます。曖昧ないい方ですが、実は当時新聞に連載されたあと書籍化されていない作品がかなりあり、全貌がつかめていません。ただ、フィリプとアポストリディス(六歌仙No. 3とNo. 5)の粘り強い発掘作業によって近年新版の出版が続いています。
私にはまだまだ未読の作品があるので、今後の愉しみは尽きません。
なお、『赤い壺』は「疑惑」(Αμφιβολίες, 1964) として映画化されています。監督グリゴリス・グリゴリウ、主演はイケメン俳優ニコス・クルクロス。上の『赤い壺』のカヴァー写真はこの映画の一シーンです。
レーナ、コロネロスなど主要人物や、赤い壺、気味悪い電話といった道具立てはだいたい同じです。それだけにタイトルはこの凡庸なのより、「赤い壺」か「今夜おまえは死ぬ」のままでよかったのに……。
三人いた探偵役では、記者マヴリディスが
それ以上に驚いたのはミステリの一番のポイントが変更されていることです。つまり犯人が別人になっています(当然その動機も)。脚本は原作者マリスではなく、グリゴリウ監督自身が手掛けています。これに関して笑えるエピソードが残っていて、マリスが試写を見た後、監督にひとこと「すばらしい映画だね。私の作品とは関係なさそうだけど」。
◆ミニ・ニュース◆
わが国のカザンザキス翻訳・研究をリードする福田耕佑氏が2024年に本格的な評論『ニコス・カザンザキス研究』(松籟社)を上梓されました。カザンザキスをここまで詳細に論じた研究書は日本で初めてです。
『ニコス・カザンザキス研究: ギリシア・ナショナリズムの構造と処方箋としての文学・哲学 』福田耕佑(著) 出版社:松籟社、2024年。 |
これを機に昨秋「人文学の正午研究会」がカザンザキスをテーマとするシンポジウムを開催しました。この会は奈良や京都の若手研究者を中心に発足した、人文学の総合的な研究会だそうです。
私も少しお話しをしてきました。といっても研究発表などではなくて、カザンザキスは思想的著作というだけではなく、小説として読んでも面白いんですよ、という読者目線の感想です(ギリシャのエンタメ作品についてもちゃっかりおしゃべりさせてもらいました)。
『人文学の正午第14号』に収録されて、ネットで無料公開されています。お手すきの折りにでも覗いてだければ嬉しいです。
![]() https://hiroshima.repo.nii.ac.jp/records/2014590 橘孝司「小説家カザンザキスの評価と読み方 ――さらに広く読まれるために――」 |
◆ 欧米ミステリ中のギリシャ人(43)―― 《世界名探偵倶楽部》のギリシャ人――◆
子供のころ読んだ西村京太郎『名探偵なんか怖くない』(1971年)は名高い世界の探偵たちが日本に集まって、推理を戦わせながら盗難事件を追う愉しい作品でした。時代差など簡単に乗り越えてエラリー・クィーン、ポワロ、メグレ元警視(すでに退職)、明智小五郎の四人が集結。通訳を交えて(たぶん)、推理を戦わせます。
探偵たちが一堂に会して推理合戦をくり広げるとくれば、古典『毒入りチョコレート事件』(1929年)、パロディ映画なら「名探偵登場」(1976年)などが思い浮かびますが、前者バークリー作に登場する探偵は当然みんな英国人、後者ではポアロとミス・マープル、ハメットのサム・スペードと『影なき男』のニック&ノラ夫妻、ピーター・セラーズ怪演のチャーリー張をモデルにした探偵たちということで、英米人ばかりでした。
半世紀を超えると、世界はますます狭くなって探偵たちの国籍ももっと多様になるでしょう。今回取り上げる(タイトルも豪華な)パブロ・デ・サンティス『世界名探偵倶楽部』(2007年)は珍しい、アルゼンチン発のミステリ長編です(原題はもう少し抑えた『パリの秘密』El enigma de París)。ボルヘス&カサーレス『ドン・イシドロ・パロディの6つの難事件』風なのでしょうか?
1889年のパリ万国博覧会を機に国際的な《十二人の名探偵》が会合を開きます。参加するのは作家の故郷アルゼンチン、地元フランス。あとはアメリカ、イギリス、ドイツ、オランダ、イタリア、スペイン、ポルトガル、ポーランド。ここまでは分かるとして、残り二人は何と日本とギリシャからです(この二国が加えられたのは嬉しい限りですが、やっぱり欧米が中心ですね。これが例えば、主役がキルギス人探偵、倶楽部会長がベリーズ人、副会長ツバル人とかだと先の読めない謎の話になりそうで、さらに惹かれますが)。
世界名探偵倶楽部 (ハヤカワ・ミステリ文庫 テ 12-1)パブロ・デ・サンティス(著), 宮﨑真紀(翻訳) 出版社:早川書房 |
お話は地元アルゼンチンで幕を開けます。
ブエノスアイレスの靴職人(ジェノヴァからの移民)の息子《ぼく》は名探偵クライグに憧れて弟子入り、探偵術を教わります。折から胡散臭い奇術師の周囲で惨殺事件が続き、こりゃいい実習機会だぞとばかりに、弟子たちは捜査に投入されます。ところがわけあって、切れ者で美形の一番弟子が、続いてクライグ先生自身も悲惨なことになって表舞台から姿を消してしまいます。
そんなときにパリから届くのが《十二人の名探偵倶楽部》初会合への招待状。任が重いなあとため息をつきつつ、《ぼく》は先生の代理で花の都へ向かいます(カッレ君か少年探偵エミールくらいの少年のイメージですが、実際はもう少し歳上のようです)。
ようやく本筋の始まりです。が、ここまでで一章も割いてるアルゼンチン・パートは何か伏線となるのでしょうか?
十九世紀終わりのパリでは科学技術が飛躍的に発展し、フランス革命百周年記念として企画されたエッフェル塔建築はまさにその象徴です。精緻な建築現場の風景や変わりゆくパリの街並みの描写に思わず惹かれます。
そうこうするうちに(期待どおり)十二人のうちの一人が塔から墜落死を遂げてしまい、待ちかまえたように名探偵たちの捜査と推理合戦が始まります。
とはいっても、十二人というのはちょっと多すぎて、名前を覚えきれません。しかも、それぞれが助手を連れてきているので、人数は倍です(ほとんどの助手が登場人物表に名前なし……)。
ただし、読むうちにどうも『毒入りチョコレート事件』のような名探偵の推理合戦ではなさそうだと分かってきます。
《ぼく》は到着の夜さっそくイタリア人探偵の助手(短気ですぐにナイフが飛び出る)と知り合い、翌日には助手の面々に引き合わされます。探偵たちが出て来る前から、なんと一人ずつ助手の紹介です。自身の上司を揶揄されたところから助手間で乱闘騒ぎが持ち上がったりして、なかなか推理合戦になりません。おまけに姿を現さない謎の助手までいるし。「助手はなにがあっても絶対に探偵にはなれないんだ」とか、会議で「師の特別な許可がない限り発言は許されない」とか、立場の弱い助手の方にスポットが当たっているような感じです。
一方で、探偵に対しては「探偵は謎を解体するばかり。神秘性を浮き彫りにして謎を完全にしようとはしない」だの、あるいは「探偵にとって、人生は自己の伝説を維持するために絶え間なく動かし続けなければならない調節弁だ」などとその存在意義が皮肉られていて、反ミステリのような観さえ呈します。さながら《名助手群像》か《嘲る名探偵の座》といったところでしょうか。
とはいえ、ご安心を。複数起きる殺害事件の謎解きという主軸はしっかりしています。《ぼく》の境遇も伏線に活かされているし、『天使と悪魔』みたいな四元素の見立て殺人説が飛び出したり、隠されていた倶楽部の会則が思わぬリンクになったりと、ミステリならではのワクワク感にはこと欠きません(『ドン・イシドロ…』よりはずっとミステリっぽい)。
さて、問題のギリシャ人探偵です。その名もマドラキス(たぶんΜανδράκης?)。他のメジャーな探偵たちがヴィクトル・アルザキー、ルイ・ダルボン、ケイレブ・ローソンなどとフルネームで紹介されるのに比べ、
残念ながらマドラキス探偵の出番は多くはありません(まして引き連れる助手ガルガヌスはほとんど名前だけ)。ただし、《ぼく》は「ごくたまにしか誌上に登場しないが、マドラキスがいちばん気に入っている」と高評価。その理由は「特定の犯人から人間という種全体に敷衍して考えを巡らせ、事件を解決」するからだそうです。
よくわかりませんが、具体的な証拠から帰納的に推理を組み立てていくということでしょうか? それとも具体的な事件を通して人間性なるものを思索する、といった哲学的なことを指しているのか?
一方、クライグ先生の説くところでは「探偵は理想主義のプラトン派か現実主義のアリストテレス派のどちらかに分類される。マドラキスはみずからをプラトン派だと考えているが、実際にはアリストテレス派だ。ポーランド人探偵アルザキーはその逆」なんだそうです(アルザキーは俱楽部を仕切る主要キャラの一人)。
これまた意味不明ですが、マドラキスとアルザキーの証明の進め方は帰納法vs演繹法で、真逆だということ? ということは、恩師クライグの見立てではマドラキスはあくまで個々の細々した事実にこだわるタイプだけれど、《ぼく》やマドラキス自身の評価では種、類、普遍的なものを志向している??
地味なマドラキスですが、スポットライトが当たる場面が二度あります。
一つ目は、探偵たちが過去の事件を語り聞かせるシーン。
ドイツ人探偵やオランダ人探偵が密室の謎やら奇妙な手がかりの怪事件やらを誇らしげに語るのに対して、マドラキス探偵は(まずはワインをいただけませんか、とボケながら)アテネのホテル殺人を回想します。遠い過去の小さな怨恨がフラッシュバックして起きた事件で、クリスティーお得意の《過去の罪は長い影をひく》風にも見えますが、面白いのは、これが騙しの趣向としてではなく、誰もが現実にかかえる暗い心理の流れに触れていることです。
小説上では、動機など犯罪の構成は論理的に組み立てて読者を説得しなければならないし、法廷なら隙のない論証をしてみせる必要があるでしょう。ただ、現実には因果関係があまりに脆弱で、犯人自身にすら説明できないことがあります。心の中を探してみて、ああ、あれが引き金になったのか、とようやく気づくような、あるいは、探し当てられなくて、「太陽のせいで」などとむりやり自分で理屈づけるような犯罪……ギリシャ人探偵が描いてみせる事件は、ドイツ人やオランダ人の、最後にはカチッとピースが嵌って腑に落ちる王道ミステリからははみ出しています。『自分を失った男』ヴァシリス・ダネリスなら《実存ミステリ》と呼ぶところでしょう(エッセイ第43回)。
マドラキスの見せ場はもう一つあって、ポーランド人探偵アルザキーとの推理対決です。
世紀末の名探偵たちが、今は《密室殺人》だけじゃ世の関心は薄い、《連続殺人》も難事件に加えようぜと盛り上がるうちに、しからば《連続殺人》とは何ぞや、の解釈になってきます。
ここちょっと面白いです。連続する凶悪犯罪の底には真犯人のシナリオが隠されている(『そして誰もいなくなった』の見立て殺人みたいな)と想定するアルザキー探偵に対して、マドラキスは、そんなプラトン風の余裕のこける犯罪者は現実にはいないでしょ、探偵が複数の犯罪を無理やりこじつけることはあるかもしれませんがね、みたいなことをいっています。さらに付け加えて、犯人自身は最初意図していなかったのに周囲の解釈に影響されて、連続殺人の構想にしちまうことさえあるんじゃないかって、あたしゃ思うんですけどねぇ……こうなると「さすがのアルザキーもギリシャ人探偵の勢いにたじたじの様子」です。
読んでる方はこのやり取りもあって、結局今回の事件の真相はいったい? と惑わされてしまいます。マドラキス探偵、なかなか重要な役をもらってますね。
あともう一つ。小ネタですが、探偵たちは事件に関連した品を万博展示会用のグッズとして持参します。マドラキスが持ってきたのは《スパルタ暗号事件》の、秘密メッセージが書かれた紐を巻きつけた短い棒でした(棒に巻かないと正しく読み取れない暗号文。最近読んだエレナ・フスニの政治ミステリ『Fスケール』(Έλενα Χουσνή, Κλίμακα F, 2019) にも古代スパルタで使われていたこの暗号が出てきました。この作品はいつかご紹介予定)。
![]() エレナ・フスニ『Fスケール』 キファンダ出版社、2019年。 |
作者パブロ・デ・サンティスは訳者宮崎真紀氏の解説によると、「幼少時代からヒッチコックやアルジェントのサスペンス映画やポオ、ドイル、クリスティーの小説に傾倒した。児童書や一般向けの小説を十数冊刊行していたが、2007年の『世界名探偵倶楽部』で改めて脚光を浴びる。この作品は中南米 のスペイン語文学を世界に普及させるために創設されたプラネタ・カサメリカ賞(Premio Planeta-Casa de América)第一回の受賞作となった」とのことです。猟奇の『サイコ』や極彩色ホラー『サスペリア』に酔いながらストーリーを練っていたんでしょうかね。
| 橘 孝司(たちばな たかし) | ||
|---|---|---|
広島在住のギリシャ・ミステリ愛好家。この分野をもっともっと紹介するのがライフワーク。現代ギリシャの幻想文学・純文学も好きです。
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恐怖の谷 【新訳版】 (創元推理文庫)アーサー・コナン・ドイル(著), 深町眞理子(翻訳) 出版社:東京創元社 |
新版 名探偵なんか怖くない西村 京太郎 (著) 出版社:講談社 |
影なき男 (ハヤカワ・ミステリ文庫)ダシール ハメット(著), 小鷹信光(翻訳) 出版社:早川書房 |
毒入りチョコレート事件【新訳版】 (創元推理文庫Mハ3-1)アントニイ・バークリー (著), 藤村 裕美 (翻訳) 出版社:東京創元社 |
ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件 (白水Uブックス/永遠の本棚)ホルヘ・ルイス・ボルヘス(著), アドルフォ・ビオイ=カサーレス(著), 木村榮一(翻訳) 出版社:東京創元社 |
天使と悪魔(上中下合本版) (角川文庫)ダン・ブラウン(著), 越前敏弥(翻訳) 出版社:KADOKAWA |
そして誰もいなくなった〔改訳新版〕 (クリスティー文庫)アガサ・クリスティー(著), 青木久惠(翻訳) 出版社:早川書房 |


























