Pedigree, Presses de la Cité, 1948/10/15 [原題:血統書]
執筆:〔第1部〕フォントネー゠ル゠コント(ヴァンデ県), 1941/12/17, 〔第2部〕ラ・フォット゠シュル゠メールLa Faute-sur-Mer(同県), 1942/4, 〔第3部〕サン゠メマン゠ル・ヴューSaint-Mesmin-le Vieux(同県), 1943/1/27
初出:〔第1部〕« Le Face à Main » 1946/10/5号(第22巻第40号)‐1947/5/10号(第23巻第19号)(全32回), 〔第2部〕同誌1948/10/2号(第24巻第40号)‐1949/4/2号(第25年第14号)(全27回), 〔第3部〕同誌1949/4/9号(第25巻第15号)‐1949/10/22号(同第43号)(全29回)
第2版発行:1952/12/10
第3版発行:1958(現在の流布版)
Pedigree, translated by Robert Baldick, Hamish Hamilton, 1962[英]
Pedigree, translated by Robert Baldick, introduction by Luc Sante, New York Review Books, 2010[米]
Le Roman de Simenon Pedigree: entre réalité et fiction, Centre d’étudies Georges Simenon de l’université de Liège sous la direction de Jean-Louis Dumorties, La Renaissance du Livre, 2003/2* [シムノンの小説 血統書:現実とフィクションの間] 評論集
Œuvres Comprètes t.18-19, Éditions Rencontre, 1968 Tout Simenon t.2, 2002 Les romans durs 1947-1949 t.7, 2013, 2023 Simenon Pedigree et autres romans, Bibliothèque de la Pléiade, Gallimard, 2009

 牛乳売りがまだ通り過ぎていない、ある朝の八時、エリーズはデジレに頼んだ。
「ロジェを学校まで連れて行ってもらえない?」
 それだけで新しい儀式が生まれるには充分だった。というのも同じ動作の繰り返しは、デジレの身体においては一種の習慣的性格となり、パイプオルガンの音のもとで調和する司祭の所作のように、美しい一日の行動として連なってゆくからだ。
 子どもの方が父へ手を差し伸べるのか、あるいは父が息子の手を握るのかは、どちらともいえない。毎朝、同じ時刻に、法律通りが始まる端のところで、小さな指がデジレの手のなかで丸く収まり、幼い息子の足は静かな巨人の一歩ごとの歩調に合わせて、三歩ごとの急ぎ足になる。(瀬名の試訳)

 シムノン畢生の自伝的大作、『血統書』(1948)の第二部を読む。作者シムノンの筆致は泰然として、時の流れを忘れることだけを目的に文章を綴っているかのようだ。第一部ではシムノンと同じ誕生日にリエージュでロジェという男の子が生まれ、デジレとエリーズのマムラン夫妻は互いの大家族とつき合いながら、しかし妻エリーズの独立心を叶えるかたちで法律通り(ロワ通り)に引っ越し、外国人大学生向けの下宿を始めようとするところで終わっていた。第二部はまさに下宿の案内を玄関先に出した矢先、ロシア系の女学生が部屋を求めて上がり込んでくるところから始まる。
 ノンフィクション版の『私は憶えている…』(1961)でも個性溢れる下宿人たちとの共同生活は作品後半の読みどころとなっていたが、やはり小説の体裁に置き換えられた本作でも下宿人たちとマムラン夫妻のやりとりは、第二部全般を通して繰り返される豊かなくだりだ。最初の下宿人となるオデッサ出身のフリーダ・スターヴィーツカヤのキャラクターが、やはりいっとう秀でている。彼女は上がり込むなり各部屋を一瞥し、勝手に自分の部屋を決め込み、バタンと扉を閉めてしまう。エリーズは下宿人をとるのは初めてなので気を遣い、もっと陽当たりのいい部屋があるとか、食事をいっしょに食べるかなどとあれこれ声をかけるのだが、フリーダ嬢はそっけなく「いらない!」「不要です!」と部屋から声を挙げるばかり。しかもエリーズが当初目論んでいた部屋代50フランを拒否し、35フランでないと払えないといって、それを押し通してしまう。いつも無表情で、なんとも扱いづらい女学生なのである。心配を募らせるエリーズに代わって、彼女の留守中に夫のデジレがそっと室内に入り、様子を窺うのだが、持ちものはごく少なく、女性らしさも見受けられない。このことはすぐさまフリーダにばれて、勝手に入らないでと激怒されることになる。だが彼女は祖国への想いを確かに胸の内に秘めた女性でもあるのだ。
 とはいえシビアな部分もある。実はこのフリーダは国家保安局の監視対象であり、ロシアのスパイであることを疑われる身であったのだ。後に入居する、やはりロシア人のチェヘロフスキー氏も同じく監視対象となっており、エリーズは極めて身近なところに国家規模の陰謀や監視体制といったものが張り巡らされているのだと知ることになる。第二部ではこのように法律通りに暮らすごく平凡な若いマムラン一家が、あるところで不意にベルギー国家の運命といったものと交差する場面が何度か登場する。
 シムノンはごく初期のころから小説を書くと原稿を黄色い封筒に入れて保管する習慣があったらしい。そしてその黄色い封筒に、しばしば最初の構想や登場人物名を書き込んでおくことがあり、シムノン研究家の間ではこれら「黄色い封筒」は貴重な一次資料として言及されている。『血統書』の封筒の記述に拠ると第二部第2章の構想メモに「子どもを授かる?」という記述が残っているらしく、ひょっとするとこれはシムノンの実の弟、クリスティアンの誕生を意味していたのかもしれない。だが本作『血統書』で現実ともっとも大きく異なることのひとつは、シムノン家の次男クリスティアンの存在が完全に消されていることだ。主人公の少年ロジェはずっとマムラン家のひとり息子なのである。このことは事実を知ると驚きを覚えるが、作家が自伝的な作品を書くとき、しばしばこういうことは起こり得るものだ、と了解するほかないだろう。
 作品におけるサブプロットの役割も、第二部までの段階ではよくわからない。エリーズの家系、ペーテルス一族の長兄であるレーオーポルトが逃亡を手助けし、第一部でパリに潜伏していた若い無政府主義者フェリックス・マレットは、フェリシアン・ミエットと名前を変えて、ヌヴェールの地方紙の記者として働き始める。この偽名工作を手伝うのがやはりレーオーポルトである。ミエットは恋人のイザベルと密かに逢瀬を続けるのだが、今後どのようにマムラン家の物語と絡んでゆくのか判然としない。プレイヤッド叢書の解説を眺めると、このマレット(=ミエット)という青年は、ロジェが成長したときの姿を反映させたキャラクターだといったようなことが書いてあるのだが、現状でその説明はわかるようでわからない。シムノンが無政府集義者に対して一種の共感を覚えていたのではないか、ということは、ときおりフランスのシムノン論で示されており、シムノンの理想とした「裸の人間」、すなわち文明や政治的信条などに縛られず、あたかも未開の地に暮らす人々のように、一箇の人間として自由に生きる、そうした姿が、シムノンにとっては無政府主義者と一部重なって見えていたのかもしれない。
 第一部でマレットが潜伏したアジトの近くにゴム印鑑店があり、その中年亭主がフェリシアン・ミエットという名前だったはずだが、マレット青年はこの店主の名を借りて自らの偽名にしたのだろうか。また彼の恋人イザベル・ヴェテュも第一部では印鑑職人の娘として登場するのだが、第二部だと父親は文具店主になっている。たぶん第一部のイザベルと第二部のイザベルは同一人物で、作者シムノンの軽い間違いなのだろうが、読者としては少々混乱させられる。彼を含めたその周辺の立地点がはっきりしないのである。
 ただ、第二部まで読んで、作者であったシムノンが、作中のマレット青年と下宿人のフリーダに、何らかのメッセージを仮託しようとしていたことは、おそらく確かだったと思われる。この後本作では戦争の気配が強まり、フリーダも祖国への思いから下宿を離れることを余儀なくされるのだが、彼女もまた何か重要なことを読者に示そうとしながらそれをきっちりと果たすことなく消えてゆく。作者はもっとフリーダのことを書きたかったのではないかと思わせるのだが、ロジェ・マムランという幼児を主人公とする本作ではそれが叶わないというもどかしさも感じるのだ。
 このあたりが本作『血統書』を読む上で、やはり重要な焦点のひとつとなるらしい。リエージュ大学のジョルジュ・シムノン研究センターが発行した『シムノンの小説 血統書:現実とフィクションの間』(2003、未訳)という研究書があり(その通り、『血統書』だけを扱った一冊の研究書がベルギーでは出ているのだ!)、そちらも読んでみたのだが、複数の研究家が本作の向こうに透けて見える当時の政治的状況や国家間の関係などを詳しく論じている。シムノンはジッドに認められる〝偉大な作家〟になることを目指して本作を書いたのだから、そうしたより大きな物語に自分の自伝的要素を組み込もうと、いったんは構想したかもしれない。たんなる一作家の伝記的長篇ではなく、当時の社会そのものを包含するような、文学史に残る作品にしようと考えたりもしたのかもしれない。しかし当時のシムノンには、あるいはどんな時代のシムノンであっても、その野心は達成できなかったのだろう。シムノンはそもそもそういう〝偉大な〟作品が書ける資質ではなかったのだ。しかしいっときそこを目指そうとして、しかしとても手に負えないと諦めた──その残骸がマレット青年や下宿人フリーダの中途半端な扱いとして読者に残された、と考えるのが、やはり妥当なのではないかと思われる。上記のリエージュ大学の本にはよい指摘がたくさんあるので、最後まで本作を読み終わってからぜひいくつか紹介したい。
 
 第二部の冒頭で、ロジェは5歳ほどに成長し、父親のデジレに手を引かれてフレール学院:17世紀以降、フランスでカトリック修道士たちが、近所の貧しい子供たちに読み書きを教えたことから始まった学校の総称]に行く様子が示される。この第二部を通して若きマムラン一家が暮らすのは法律通りだ。法律通りの向かいに学院はあり、敷地内では研究所が併設されていて、マムラン家の目の前に位置する赤い扉は印象的である。
 第二部ではさらに多くの人物が登場する。丁寧にもひとりひとりにきちんと名前がつけられており、名無しの権兵衛はほとんどいない【『血統書』第二部登場人物表参照】。学院の校長や修道女、何人もの下宿人、近隣に暮らす人々、いくらか人見知りの強いロジェの初めての友人や、彼を離れてつくった新しい友人、そしてお馴染みのレーオーポルトはこの新居にも出入りを始める。特異な記憶力を持つ作者シムノンの特徴がよく顕れている。
 物語が進むにつれて、舞台となる範囲は少しずつ大きくなってゆく。たとえば第2章でレーオーポルトはタングルのルウイという新しい登場人物のもとへ、金を無心するために赴く。彼はペーテルス一家の兄弟のひとりで、森林の化学肥料を製造する事業家として成功し、リエージュ郊外のタングルというところに住んでいる。物語はリエージュから一歩広がったわけだ。またマムラン一家は夏になるとリエージュ南郊のエンブールという村に避暑休暇で出かける習慣がある。そこにはマムラン一家を受け入れるロード夫妻や、裕福なドサン夫妻が暮らしており、こうした恒例行事も少しずつロジェの記憶に刻まれてゆく。エンブールでの夏のひとときを描いた第4章はとりわけ色彩感豊かで、父親のデジレがロジェのために草原で凧を揚げようと必死に走り回るものの、なかなか上がらずロジェは目を細めて様子を見る。夕方は丘の上から打ち上げ花火を見物し、炎や閃光が空の星と混じり合い、どちらが本物の星かわからなくなる。諸聖人の日にはデジレ家の墓と、そこから離れた場所にあるペーテルス家の墓の両方を訪ねる。両親に行き着くふたつの血筋というものがここで強調され、またロジェは母エリーズの姉であったフェリーシーが、精神病院で亡くなったことも知らされる。このように少しずつ少年ロジェの地図は広がり、地図の四方の尖端にはこうして新たな記憶がひとつひとつ置かれてゆく。そのことはロジェが着実に成長し、その視野を拡大させていっていることと呼応している。そしてその広がりつつける地図の向こうには、まだ確実に見えはしないが国境線があり、他国があって、戦争というものがいずれ始まることを示唆している。
 だが、その話はまだ早い。それより前にロジェはいくつか、幼い彼にとって衝撃的な〝世間〟と出会う。先ほど述べたようにロジェが最初の友人アルベール・パンから離れたのは、彼の母が金髪のとても優しい女性で、あるときアルベールが海に行くから遊べないと断ってきたからだった。友だちのアルベールがきれいな母親と旅行に出かけることにショックを受けて、ロジェは二度と遊ばないと相手を拒絶してしまうのだ。また同時期、ロジェは数軒先の窓越しに、同じ年ごろのレーモンド・ルソーという美しい金髪少女が、いつも家で家庭教師から勉強を習っている姿を覗いていた。ルソー家は金持ちなので学院の世話にならず家庭教師を雇えるのだ。ロジェは彼女の気を惹こうと試みるが無視されてしまう。法律通りを少し左右へ進むことが、このころのロジェにとっては大きな冒険であり、新たな世界への第一歩だったことがわかる。そして彼自身も気づいてはいなかったのだろうが、思春期の芽生えはその結果として友だちを失う、友だちになれない、といった人間関係の苦悩を伴うのだということを、彼は学び始めていたわけだ。さらに彼にとってショッキングだったのは、アルベールの父親であるパン氏が、かつて女優を射殺した罪で軍人の地位を奪われたとの噂を聞いたことだ。ごく数軒隣の家に、人を殺した人間が住んでいる──死という現実、殺人犯罪という行為が、一気に幼子の身近に迫った瞬間である。この衝撃は後の作家シムノンにとって大きなテーマとなったのではないかと思われる。さらに向かいに住むオーズレ氏はいつも軒先で日向ぼっこをしているのだが、ロジェは彼がコンゴ帰りの睡眠病患者で、他人に支えられながらでないと動けないことを知る。少年ロジェはここでおそらく初めてアフリカという遠い地に想いを馳せたことだろう。
 一方で外国はあるとき不意に向こう側からやって来る。そのときマムラン一家の下宿に国家第二保安局:テロ事件やスパイ容疑などを主に扱う部局]のシャルル氏と名乗る男がやって来る。彼はロシア人や東欧人の監視が任務なのだという。そしてロシア関係の下宿人情報を聞き出し、フリーダと対面すると、おまえはサンクトペテルブルクの暗殺事件に関与したニヒリスト集団の周辺人物だと指摘したのである。こうした出来事もまたロジェの精神形成に影響を与えたであろうし、このとき以来フリーダはベルギーから出てゆくことを切迫した問題として考えなくてはいけなくなる。
 宗教的な場面も何度か差し挟まれる。四旬節:イースター前の40日間の準備期間]に向けて母親エリーズはロジェを礼拝堂に連れてゆき、自ら長い告解をおこなう。またロジェは初聖体拝領の年齢となり、学院で「三位一体」について習ったりするが、その内容そのものよりも、成績優秀のクラスメイトがどうやら自分とは違う方法でこれを憶えているようだと気づいて、そのことに関心を寄せたりする。四旬節に入るとエリーズは家全体の大掃除に取りかかる。つまりエリーズは告解と大掃除で自分自身を清めよう、浄化させようとしているのだ。それで大掃除が終わればエリーズは充実感と満足感を覚える。作者シムノンにとって彼の母親は、いつもケチで、しかも罪の意識を抱いていた人物として映っていたのだから、これらはエリーズの内面的特徴や性格をよく示す場面である。
 時は1911年へと進む。この時期はいちばん下宿が賑やかだったころで、いつも食卓には多くの外国人が集まったが、不幸や戦争の影が忍び足で迫っても来ていた。ある夜、突然向かいの木工所が炎を上げる。消防隊が駆けつけて消火作業にあたるのだが、エリーズを始め火事の様子をうかがいに駆けつけてきた近隣の人々でごった返し、しかも下宿人のひとりが「革命が来た!」と叫び出したのでその場に強い緊張が走る。
 第10章の序盤、4月に近隣のフランソワーズ・ダーニュが死去し、家まで彼女の弔問に行ったエリーズは、実姉のフェリーシーが死んだときよりも激しいショックを受ける。このフランソワーズという女性はエリーズの義妹にあたる人物で、これまでたくさん登場してきたというわけではないが、遺体となった彼女の眼は瞼を下げつつも、静寂した怖れを浮かべたままで、子供のことを考えて死んでいったことは明らかだった。
 もうひとつ第10章で奇妙な印象を残すのは、夏になってロジェが父デジレとムーズ川の水浴場に行ったとき、ロジェと同年代の少年が溺れかかり、どうやらロジェは彼を助けたらしいということである。「どうやら」「らしい」と曖昧な言葉を使ったのは、なぜかそのことを直接示す文章表現が、ここでは出てこないからなのだ。シムノンは謙遜して記述を控えたのか。そうとは思えない。何か作者シムノンも本作の主人公ロジェも、溺れる少年を助けたその瞬間と前後の数分間は、まるきり記憶が飛んでしまっていたかのように書かれるのだ。
 ひとつ、またひとつ、死に関する逸話が積み重なってゆく。第10章の終わりには父親デジレが心臓の病気を気にして、生命保険に入った方がいいだろうかと考える場面も登場する。
 1914年、第二部の最終章となる第11章で、ロジェはフレール学院の6年生(最終学年)となり、不意に全校生徒が集まる式で校長から溺れかけた子をロジェが救ったと賛辞を受ける。救出の瞬間を校長自身が目撃していたらしいのだが、ロジェ自身さえ校長の言葉が真実と思えず、心はふらふらと飛んでいる。まったくよくわからないエピソードだが、第二部の終わりが間近に迫っていることを象徴するかのようなシーンだ。
 そして8月の終わり、不意に下宿人のひとり、医学生の若いベルナール氏が、いつもより早く帰宅して階段を駆け上がり、こう叫んだのだ。「戦争だ、マムラン夫人! ドイツ軍がベルギーに侵攻した! ヴィゼのあたりで戦闘が始まっている」
 たちまちその場は騒然となる。ヴィゼといえばオランダとの国境に接している町で、ときおり日曜日に姉のロウイーザたちと家族で出かけ、ワッフルを食べたりもする場所だ。下宿人たちは報せを聞きつけ、次々とベルギーを出る準備を始める。最後に父デジレが会社から戻ってきて、息子にキスした。父親はごく簡潔に妻へ告げた。「戦争だよ」
 デジレはこれから地元の市民警備隊に招集され、町の記念碑が壊されたりしないか、暴徒が強盗に走ったりしないかどうか巡回監視し、責任ある大人の役目を果たさなくてはならない。だが第二部の終わりは静かで穏やかである。下宿人が出ていった後、マムラン家ではロジェがおはじきでひとり遊びに興じ、エリーズも台所に座り込み、全身の力は抜けている。だがそれはあたかも一日中洗濯にかかりきりになった後の虚脱状態にも似ているのだ。光と影と、それぞれの場所に根づく匂い。それらを過剰なほどに描いて第二部は終わる。

【↑図1】

 本作が戦後のベルギーの週刊誌《柄つき鼻眼鏡Le Face à Main》で連載されたことは前回記したが、その初回号である1946年10月5日号【図1】には一面にわたって詳しい論説、「GEORGES SIMENON: le plus grand romancier contemporain(ジョルジュ・シムノン:現代最高の小説家)」が掲載されていた。筆者名は「DORINGEドーリンジュ」で、かなりよくまとまった作家論だ。たぶんジャーナリストや映画評論家として活躍したアンリエット・ブロの筆名だろう。シムノンへのインタビューもおこなった人物である。また『血統書』の連載ページ脇にも編集者と思しき「Jean DEPAYE」の署名で、本作に対する的確な紹介文が載っている。本作第三部の終わりに主人公が16歳を迎えることも示されているので、編集部は原稿のすべてを読んで掲載を決めたことが窺える。まずドーリンジュによって書かれた紹介文の冒頭部をここに示そう。彼は以前からシムノンの友人であったらしく、記事の中盤では次々とシムノンの既刊作品の名を挙げて、モーリアックの作品にも劣らないと力説している。

 彼自身の才能の犠牲者ともいえるシムノンは、現代作家のなかでもっとも多才で、おそらくもっとも多作な作家のひとりであるにもかかわらず、多くの人にとって「メグレ警視の生みの親」という存在でしかない。かつて《Les Viellées des Chaumières(茅葺き小屋の夜話)》:1877年に創刊された読みもの雑誌。タイトルはかつて農村で人々が暖炉に集まり語り合った昔話を指す]を読んだ人が、「探偵小説を書く小説家、それだけのことじゃないか!メグレ警視がなかったら、彼はいったいどうなっていただろう?」と、ひそかに満足げに語るのを何度聞いたことか。しかしながら、メグレ警視の存在はシムノンのおかげであり、その逆ではないことを忘れてはならない。彼の存在、そして彼を人間たらしめる忘れがたい個性。それは、黒いスーツと白い胸当てを身に着けたマネキンのように精密な機械仕掛けで動く存在ではなく、生身の人間、息づく人物として描かれている。彼自身の体格、体重、密度、歩き方、そして思考の働き方を持つ人間。共鳴も微生物も温度も味覚もない虚無ではなく、彼自身の雰囲気、温もり、匂いのなかで成長する人間。(後略)

 さらに連載1ページ目に付された紹介文の冒頭は次の通り。編集側の大いなる賞賛と期待のもとで本作『血統書』は読者に届けられていたことがわかる。

 ジョルジュ・シムノンはリエージュ出身で、他の多くの作家とは異なり、名声を追い求めるあまり故郷や祖国を捨てることは決してなかった。1931年には早くも月刊刊行を宣言したこの探偵小説の巨匠は、その約束を守り抜いただけでなく、文学界における「犯罪」の第一人者という地位を自ら放棄した。数々の魅惑的な雰囲気を持つ作品を発表した後、彼はある日、自らの真価を証明するべく、ラ・ロシェルの船主一族の年代記である、壮大な社会的一大絵巻『ドナデュの遺書』を執筆した。
 今回出版する『血統書』は、この傑作をも凌駕する作品である。ここに、生まれながらの小説家のあらゆる才能が確証される。人を惹きつける巧みな物語の語り口、鋭いバランス感覚を持つ熟練職人の才能、そして戸籍簿に匹敵するほどの豊かな想像力。シムノン自身が目にした無数の登場人物を、読者にも見させ、そして聞かせる。彼は彼らをそれぞれの環境に溶け込ませ、身振り、服装、声、香り、そして個性を吹き込む。それぞれの人物は独自のスタイルを持ち、それはまさに彼自身そのものである。シムノンはこう言った。「私は小説の木になりたい」。

【↑図2】

【↑図3】

 さて、余談といえば余談であるが、本作には1948年発行の初版以外に、1952年の第2版、そして現在も流布している1958年発行の第3版があることを前回の連載で示した。初版(見本版)と第2版の原著が入手できたので、問題の第2版の一部を写真撮影してここに紹介しよう。【図2】の195ページをご覧いただきたい。右側のページ上部に大きな空白が認められる。といってもまったくの空白ではなく、ところどころに印刷ミスや汚れのような点や棒線が見えるだろう。続いて【図3】の310ページと311ページを見ていただくことで、これらの空白がたんなるミスではなく、意図的に削除された文章の亡骸であることがようやくおわかりいただけるはずだ。「,(ヴィアグル)」や「.(ポワン)」があえて残されているのがかえって凄まじい皮肉となっており、出版社やシムノン側の反発ぶりが痛々しいほど伝わってくる。この第2版にはシムノン自身の警告文も冒頭に掲載されているが、やはり信じがたいほどの喧嘩腰だ。

警告
 本書には、空白行や空白後が多数含まれています。
 この点についてお詫び申し上げます。これは私の意図したものではありません。
 これらの箇所は、リエージュとヴェルヴィエ(ベルギー)の裁判所の命令によって削除されました。両都市の市民のなかに、私の小説の登場人物へ共感を抱く(se reconnaître)人々がいたためです。

          ジョルジュ・シムノン
コネチカット州レイクヴィル、1952年8月21日

 Se reconnaîtreとは自分を認める、自分を識別する、という意味だから、作中の人物に自分自身を見出した人がいた、といっているわけだ。
 これらの削除部分はほとんどが今回読んだ第二部に集中している。こうした異様な経過を見たことでいっそうの波瀾を予感させつつ(?)、畢生の大作『血統書』は最後の第三部へと続くのである。

ジョルジュ・シムノン 『血統書(Pedigree)』登場人物表
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【ジョルジュ・シムノン情報】
・2026年6月、国書刊行会から《スタニスワフ・レム・コレクション 13》として『レムかく語りき』が刊行された。レムのエッセイやインタビュー記事をまとめたもの。ジョルジュ・シムノンに対する言及が2か所にある。
 
・シムノン原作、クロード・シャブロル監督の映画『帽子屋の幻影』(1982)が、2026年8月7日に新文芸坐で上映された。「クロード・シャブロル特集 Part7: 闇の奥へ」の一環であり、スクリーン上映はこれが本邦初だったと思われる。

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瀬名秀明 (著)
出版社:講談社
瀬名秀明解説全集+α (e-NOVELS)
瀬名秀明 (著)
出版社:e-NOVELS
ゴッサマー・スカイ (e-NOVELS)
瀬名秀明 (著)
出版社:e-NOVELS

 

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