87分署シリーズ攻略作戦、第十回『キングの身代金』です。マクベイン作品の中でも傑作として名高い作品ですが、その小説としての評価に間違いはないという点を確認できました。疵も少ないし。ただ、「警察捜査」小説としては若干物足りない部分も……。

グレンジャー製靴会社の重役であるキングに、息子をさらったという脅迫電話がかかってきた。しかし、実際に誘拐されたのは、キングの運転手の息子だった。このことを伝えても誘拐犯は、間違い誘拐でも構わないからとにかく身代金を払うことだという要求を繰り返す。キングは、少年の命と、そして今後の人生を買うために生涯を掛けて積み上げてきた「命金」の果たしてどちらを選ぶのか。

 既存の作品の中ででマクベインが書こうとしてきた「登場人物の人間性を深く掘り下げる小説」の集大成と言ってよい作品です。同時に、これまでで初めて、警察官以外を主人公とした作品でもあり、その意味ではかなりの異色作でもあります。そう、本作の主人公は、八十七分署の刑事の誰でもなく、紛れもなくキングなのです。

 身代金を要求されたキングは、「自分の金が大事」という俗物では決してありません。彼は工場の下働きから叩き上げ、会社の重役になった「セルフメイド」の男であり、また、自社の製品に誇りを持ち、安いけれど質は悪い商品を叩き売る、儲け主義の現状を憂える理想主義者でもあります。つまりはアメリカン・ドリームの体現者ですね。

 彼が身代金として要求されたのは、会社の全権を握るために用意した金でした。たとえ、一人の子供の命がかかっているとはいえ、軽々に投げ捨てることのできる金額ではありません。しかし、もし子供を見捨てれば、たとえ会社を手に入れることができても、彼の名には「金のために子供を見捨てた男」という烙印が押されることでしょう。キングが追い込まれたのは、このような二律背反の状況でした。

 板挟みになったキングが身代金を払うのか、という点が本作の焦点のひとつですが、これに対するコントラストとして配されているのが、キャレラの存在です。捜査側の一員である以上に、まだ生まれたばかりの双子の父親として、彼はキングの煮えきらない態度に激高し、身代金を支払うべきだと主張します。この態度は、冷静であることが求められる捜査官としては逸脱しているかもしれません。しかし、彼が妻との間に築いてきた愛情や、子供を求めながらも踏み切れずにいた彼の心情を知る読者からすれば、納得できる部分と言えるかもしれません。

 もう一つ、マクベインが配しているのが誘拐犯側のサブストーリーです。ここでは、悪びれない職業的犯罪者と切実に現金を必要としている若い恋人たちという三人組が誘拐計画を遂行していきます。しかし、シリアスで感情的にも納得できる本筋と比較すると、理解に苦しむ形にまとめざるを得なくなっていて、成功しているとは言えません。

 上で述べたように、本作はほぼ捜査側の動きを描くことを放棄し、キングの精神的苦悩を描出することに終始しています。幾分不必要と思われる部分はあるものの、結果としては、マクベインのやりたいことはかなりやりきった感があります。

 しかし、その上を行くのが『キングの身代金』の舞台を横浜の山の手に移した黒澤明監督作品『天国と地獄』です。黒澤明は、『キングの身代金』ではほとんど描かれることのなかった捜査側のパートをじっくりと描きこみ、あの手この手の捜査の末に少しずつ犯人の住居を絞り込んでいくサスペンスを演出しました。また(原作でのキングに当たる)権藤金吾の、気も狂わんばかりに苦悩して身代金を支払いながらも、結局莫大な借金を背負い破滅していく姿を演じる三船敏郎の凄まじさは相当のもの。有名な身代金受け渡し方法まで含めて、全編見事に作りこまれています。私は今回初めて観ましたが、かなり長丁場の作品でありながらだれることもなく一気に最後まで観てしまいました。

 と、途中で『キングの身代金』そのものの話からはそれてしまいましたが、これまでの作品の中では一番面白く読むことが出来ました。また単独で読むよりも、読後に『天国と地獄』を観て黒澤明の凄みも感じることが出来るというまさに二度楽しい作品です。ぜひお試しあれ。

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 三門優祐

えり好みなしの気まぐれ読者。読みたい本を読みたい時に。

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