海外ミステリの書評をしているからといって、翻訳家と知り合う機会が多くなるとは限らない。いやほかの方はいざ知らず、わたしの場合は、会った途端に唾を吐きかけられたり、殴りかかられたりする可能性もあるので、パーティーなどに出席することはあまりなく、むしろその機会を自ら減らしているといったほうが正しいかもしれないが。
しかしまあ、そうはいっても翻訳家さんとの思い出が皆無というわけではない。たとえば、ヒュー・フリートウッド『ローマの白い午後』(早川書房)という、わたしが偏愛する心理スリラーがある。
小太りで、いつも口をぽかんと開け、歯列矯正器をつけて、読み書きもままならない、知的障害の“少女”をめぐる話なのだが、物語にさして起伏があるわけではないから退屈される向きもあるやもしれない。しかしこれがおよそ尋常ではない形で、お話が少しずつズレていくから面白い。まず少女といっても実際は二十歳を超えている。この少女が周囲の人間をいつの間にか取り込んでいくのである。現実と妄想のはざまが揺れるというやつだ。圧巻は浴槽へおびただしい数の生卵を割り入れ、その中へ母親の頭を突っ込んで窒息死させてしまう場面。でもって、語り手の家庭教師に向かって「これは先生へのクリスマス・プレゼントよ、先生も知ってたくせに」とにっこり笑って言う場面。これは気色悪かったなあ。さらには死体を浴槽から外へ運び出すときの、身体をつかもうとしては手がすべり、ぬるぬるして、うまくいかないといった描写が、それこそ皮膚感覚で伝わってきて持ち悪かった。だけれども、そこでこの物語のテーマである知的障害の少女がそんなことを本当にできるのか? との疑惑がふつふつと湧いてくるのだ。
そもそもこの少女は「正常」ではないのか? と。
ともあれ、この小説が好きであちこち書評を書いたわけです。で、それから数年が過ぎたあるとき、訳者の小沢瑞穂さんとお会いした。小沢さんのあの独特のたたずまいと声なのである。私は要するに、ご当人を前にしてすっかり舞い上がってしまったのだった。しかも「いつもありがとう」なんて言葉を目の前で言われて(あー、当方は囁かれてと感じたものでしたが)、ますます心ここにあらずの状態に。
ところが、ここからがさすがに本当の大人は違うと思った。ポーッとなっているわたしに追い打ちをかけるように(と以下おおむね大意です。正確な言葉ではありません)、
「でもあなた、あれしか褒めて下さらないのよね」
まるで、ふっとため息でもつくような調子でつぶやかれたのである。
いやあ、ドキっとしましたね。というよりも、完全に一瞬パニック状態になったことを覚えている。どんな風に対応したらいいのか、まったくわからなくなったのだ。がその一方で、こういう翻弄のされ方なら構わないかな、と頭の片隅で感じていたのも確かだったが……。
しかし、と今になって思うと、エイミ・タンの『ジョイ・ラック・クラブ』(角川文庫)のような世界的ベストセラーも訳しておられながら、わたしが好きだった小沢さんのミステリ関連の訳書はベス・グッチョン『坊やが帰ってこない』(早川書房)だとか、ケイ・N・スミス『ボリスは来なかった』(新潮文庫)のような、とってもとってもいい作品であるにもかかわらず、ちょっとマイナーな位置を占めるものが多かったような気がするのはなぜだろう。
ああ、だがそれにしても、ヒュー・フリートウッドってめっちゃ面白そうな作家なのに(ジョン・ファウルズにも似たなんて評価もあったみたい)、今では完全に忘れ去られた人となってしまったようで、それが残念でならない。
翻訳家さんのなかで、こちらから連絡を入れてわざわざ会ってもらった数少ないうちのひとりが山田順子さんである。1981年のことだから、もう30年も前になる。そのときのことを今でも鮮明に覚えているのは、のちに山田さんからお酒の席などで何度もからかわれる羽目になったからだ。
話は実に単純。初めて電話をしたときに、普通なら「翻訳家の山田順子先生ですか」とか何とか切り出しそうなものなのに、あろうことかわたしときたら、
「ウルフェンの山田さんですか?」
とやっちまったのである。前日読んだばかりの本だった。でも山田さんはえらかったです。一瞬、ン? という空白はあったけれど、すぐに「ああ、はいはい」と丁寧に応答してくれたのだった。感謝してます。ですが、その後、お酒が入るたびに、
「私ゃ狼か」
と、古傷に塩をなすりつけるがごとく、ねちねちとわたしを可愛がり続けてくれたんである。ホント失敗しました。いえ、嬉しかった。しかし、言わせてもらえば、つまりはそれほどホイットリー・ストリーパーの『ウルフェン』(ハヤカワ文庫NV)が素晴らしい出来で、めちゃくちゃ面白くって、印象深かったわけなんである(今さらの言い訳)。
あんまり面白すぎて編集者も興奮したのか、文庫解説目録(手元にあるのは1989年9月版)でも、冒頭発見される惨殺死体についていた歯形のことを「太のものでも、狼のものでもない」と書いてしまう始末だった。太のものって誰だよ。
ま、そんなことを言えば山田さんの「私ゃ狼か」の言葉も、実は正しくはないのだけれど、そんなことを口にしたらどうなるか想像するだに恐ろしい。
この作品の良さは計算されたものとはまったく対極に位置する、偶然が生んだごった煮感覚にある。下手な譬えでいうと男の料理で、材料も調味料もほとんど目分量、こんなもんでどうだ、これなら美味くなるかといった具合にあれやこれやをぶち込んだ結果、奇跡のような作品ができあがっちゃったのだ。具体的にはSFとパニック小説とホラーと活劇の要素等々だが、そうした要素がそれぞれみんな自分を主張しながら、ぎりぎりのところでバランスを保っている。その要となっているのが事件を追う男女ふたりの刑事で、彼らの恐怖……最初は犯人を追う側であったにもかかわらず、いつのまにか狩られる側になっていたというこのそくそくとした恐怖の描写が通奏底音となって、全体の味をまとめあげているのだった。一歩間違えば、これって駄作だと思う。それをこんなにも緊張感のある傑作に仕立て上げるなんて見事というか何というか偶然? てな感じで、でもこんなどこかしら危なっかしい作品って、とってもとっても心に残るのである。
いや現実に、その後に訳されたストリーパーの作品を見てみると、この人ってどうもトンデモ系の本が多いように思う。それゆえ、やっぱり『ウルフェン』だけはどうやら特別だったような気がしてならない。そう、奇跡の作品だったのである。
わたしと山田順子先生のおつきあいは、これを期に現在も続いておりますが、彼女の偉大な訳業をあげていくとキリがありませんので、ここではあとひとつだけわたしが大好きなJ・G・バラード『殺す』(東京創元社)の名前をだけでも挙げておきたい。いやこれって凄いと思うんだけど、ここまで描いても現在では古くなっちゃうの?
山田さんの次に、というか個人的に怖くて素敵だなあ、と思っているのは佐々田雅子さんなんだが、ああもう寝る時間になった。次回がまたあれば……。
関口苑生