前回は震災の影響でお休みしてごめんなさい。計画停電や原発事故など、落ち着かない日々が続きますが、そんな時こそ翻訳ミステリを語らうことで英気を養おうではありませんか?というわけでふみ〜、これからもよろしくお願いします。

 さてさて、今回は第十作『裁きのJ』。シリーズもいよいよ二桁台に突入だ。

 キンジーはかつての自分の雇い主であるカリフォルニア信用保険会社から、ウェンデル・ジャフィという男の行方を捜すように依頼される。ウェンデルは不動産詐欺の容疑がかかっていた人物で、その発覚を恐れて五年前に入水自殺したと思われていた。しかし遺族に保険金を支払った直後、生きている彼を目撃したという証言が現れたのだ。キンジーはウェンデルの居所を突き止めるために彼の家族や元同業者などを探り始める。が調査中、彼女は偶然にも自身の出自にまつわる「ある秘密」を知ってしまい、大きなショックを受ける。

 「おひとりさま」の孤独、男性関係のすったもんだなど、これまでもプライヴェートにおける悩みを散々披露してきたキンジーであるが、これほど職業人としての彼女と私人としての彼女の相貌が著しく乖離している作品はなかっただろう。

本作のキンジーは雲のように掴みどころのないウェンデルを執拗なまでに追跡し、彼の息子ブライアンの刑務所脱走にも冷静に対処して事件の突破口を掴む。『A』から『D』までの初期作品にあった、事件関係者、あるいは犯人に対して感情移入しすぎてしまう職業人としての弱さが本書にはない。ドライかつプロフェッショナルに真実を追うのが、本書でのキンジーの探偵としての姿だ。

しかしその一方で、彼女は自分自身の出自についての秘密を知り、しかも彼女の祖母に当たる人物が生きていたという信じがたい話を聞かされると、探偵としての彼女とはまるで別人のように頭を抱えてしまう。シリーズ初期のキンジーにも似たような「弱さ」はあったが、初期作品では探偵としての活動がもたらす心の動揺が個人としての彼女に影響を与える(あるいはその逆)という相互作用があって、物語全編にそうした心の揺れ動きが常にあったことがシリーズの魅力であった。しかし本作においては両者が乖離しているのである。両者はまるで別世界の出来事のように描かれているのだ。

 探偵としての姿と、私人のとしての姿を、作者グラフトンがはっきりと書き分けた理由は、何だろうか。それはキンジーが「見知らぬ自己」を発見する物語をグラフトンが描きたかったからではないか、と私は思う。探偵の仕事をこなす中で、キンジーは自分が良家の血を引く子供だったという、今まで知ることのなかった自己と出会う。そうした未知の自分との出会いに戸惑い、悩む様子をクローズアップさせるために、職業人としてのキンジーと、私人としてのキンジーを意図的に分けて描いたに違いない。

 と、ここまで書いて、はたと気付いた。私はこれまでキンジー・ミルホーンシリーズを、読者にありそうもない世界についての代理体験を提供するヒーロー小説とばかり思っていた。例えばイアン・フレミングの007シリーズは、現実では到底叶うことのない男性の欲望を、ジェームズ・ボンドというキャラクターを通して追体験させてくれる物語として支持された。同じようにキンジーミルホーン物も、「女探偵」という、ちょっと普通の生活とは異なる世界に浸れることが、読者の人気を勝ち得た理由とばかり思っていたのだ。

 ところが『裁きのJ』は違う。『J』は未知の自分を発見するキンジーの姿を通して、「まだ自分も知らない自己がどこかに隠れているかもしれない」という可能性を読者に提供する。「あり得ない自分」への欲望ではなく、見知らぬ自分をいつかどこかで見つけることが出来るかもしれないという期待を読者に持たせる小説なのだ、『裁きのJ』は。その意味では、『J』はヒーロー小説ではなく、アイデンティティの在処を問う青春小説のように読めるのではないだろうか。

 ただ、肝心のキンジー出生の秘密に関して本作では決着がつかず、何となく中途半端に『J』は幕を閉じてしまう。キンジーの「自分探し」はまだまだ続くってことですかい、グラフトン先生?

 挟名紅治(はざな・くれはる)

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ミステリー愛好家。「ミステリマガジン」で作品解題などをたまに書いています。つい昨日まで英国クラシックばかりを読んでいたかと思えば、北欧の警察小説シリーズをいきなり追っかけ始めるなど、読書傾向が気まぐれに変化します。本サイトの企画が初めての連載。どうぞお手柔らかにお願いします。

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