「十か月前に私の娘を殺した人間を探し出して。」深夜にキンジーの事務所を訪れたジャニス・ケプラーは、キンジーに娘のローナを殺害した犯人を突き止めるよう、調査を依頼する。ローナの死は真相が究明されないまま、不審死として処理されていた。ところが、つい最近ジャニスの元に、なんとローナが出演するポルノヴィデオが送られてきたのだという。娘の死にきっと何か関係があるはずだ、と訴えるジャニスの願いを聞き入れ、調査を開始するキンジー。「美人でものわかりのいい子」だと母親が思い続けてきたローナの真の姿が、キンジーの手によって暴かれていく。
前作『裁きのJ』は、キンジーのプライベートな問題と、彼女が探偵として抱える事件とが著しく乖離した作品であった。本作では『J』で中途半端に描かれた家族の問題について言及されず、ヘンリーなどお馴染のメンバーとの絡みもほとんどない。私人としてのキンジーの姿がなく、探偵としての彼女の活動のみが描かれているといってよい。
さて、前作のレビューで私はキンジーの探偵活動を「ドライかつプロフェッショナル」と形容したが、『K』においてもそれは当てはまる。事件を調査する過程で被害者ローナの裏の顔が明らかになり、娘を理解していると思っていたはずのジャニスが、実は娘のことを何もわかっていなかったことにショックを受ける。グラフトンはこれまでも親子の断絶を繰り返しテーマにしてきたが、そこではキンジーは親と子が再び理解し合うための橋渡し役として機能していたはずだ。
しかし、本作のキンジーは違う。事実を冷静に見極める「観察者」として、ローナの本当の姿をジャニスへ告げるのである。家庭という閉じられた関係性の中で起こる悲劇を見届ける「観察者」としての役割。これはまさにロス・マクドナルドがリュウ・アーチャーに課した役目だ。グラフトンは親子の悲劇を描く作家として、ロス・マクを先達として崇め、ロス・マクのような作品を書くことを目指していたのではないか。
唯一ラストにおいて、キンジーは傍観者の役割を自ら放棄し、ある人物に働きかけた行動によって、彼女は事件の当事者になってしまう。傍観者としてのキンジーを書く一方で、プロの探偵として「観察者」に徹しきれない弱さが彼女にまだ残っている事を、グラフトンは描きたかったのだろう。グラフトンはシリーズを通して、あらゆる形でキンジーの弱さ、脆さに拘り続けるつもりなのだろうか。それでもなお、『K』はロスマク型傍観者スタイルの作品として強い印象を残すのである。
……と書いてみたものの、私は独り身の寂しさに耐えられずマックを自棄食いしたり、ボディガードにすぐ惚れちゃったりと、私生活の喜怒哀楽がストレートを表現し、しかもそうした感情の起伏が探偵活動にも左右しちゃうようなキンジーの方が好みである。もっと言うならば、キンジー・ミルホーンシリーズを支えてきた読者って、そこに魅力を感じていたんじゃないの、と思ってシリーズ11作を読んできたわけなんだが、違うのだろうか。
家庭の悲劇を描くハードボイルドなら、それこそ元祖たるロス・マクみたいな、もっと複雑なプロットで読者を惹きつける技量のある作家はいっぱいいる。キンジー・ミルホーンシリーズは、探偵が私生活で抱える悩みに対して、読者が自分と重ね合わせて「あー、あるある!」と共感したり、逆に「ねーよ!」とツッコミを入れたりしながら愉しむ作品であると私は思う。前作のレビューでも書いたとおり、キンジーは理想の偶像ではなく、どんな読者でも自己を投影できる身近な存在として求められていたのではないだろうか。
実はここ最近、そのことで頭を痛めています。自己投影の対象として読者はキンジーを欲していた、というのは私の勝手な思い込みだったのか?いや、そもそもなぜ自分はキンジー・ミルホーンシリーズ、ひいては3F作品を「ライフスタイル的に読まれる」か否かで評価しようとしたのだろう? まだまだ問題提起の段階に留まっていますが、今後シリーズを考察する上での一番の課題となりそうです。
挟名紅治(はざな・くれはる)
ミステリー愛好家。「ミステリマガジン」で作品解題などをたまに書いています。つい昨日まで英国クラシックばかりを読んでいたかと思えば、北欧の警察小説シリーズをいきなり追っかけ始めるなど、読書傾向が気まぐれに変化します。本サイトの企画が初めての連載。どうぞお手柔らかにお願いします。