ロバート・ディーツの紹介で請け負った仕事の依頼人に会うべく、キンジーはカリフォルニア州のノタ・レークという町を訪れる。保安官事務所の刑事、トム・ニュークイストの死について、彼の未亡人が調査をして欲しいというのだ。トムの死因は心臓発作であり、これといった不審な点はなかった。が、生前トムは何か深刻な悩みを抱えていた様子があり、その悩みの原因をキンジーに突き止めてほしいという。

 やがてキンジーはトムの手帳が紛失していることに気づく。さらにトムのデスクには「縛り首」を表していると思しき謎のイラストが描かれていた。一体トムを苦しめていたものは何だったのか。事件の鍵を握る手帳の行方を探すキンジーだったが、突然正体不明の男の襲撃を受けて負傷してしまう。

 前作で再会したディーツとも物語冒頭でふたたびお別れし、馴染のサンタ・テレサからちょっと離れて、ノタ・レークという土地で探偵活動を行うキンジー。生活圏から離れたせいか、キンジーのプライベートな場面が少ない。ウィリアムとロージーの結婚や従兄のターシャとの関わり、恋人ディーツの帰還など、『L』『M』ではキンジーの私生活の描写がてんこ盛りだったのに比べると、『N』は比較的「ミステリ」としての骨格にウエイトを置いた作品だと言える。

 さて、今回キンジーの捜査の妨げとなるものに、ノタ・レークという架空の町が持つ閉鎖性や住民達の排他的な意識がある。三方を山に取り囲まれ、美しい自然の景観に恵まれた場所であるにも関わらず、その絶景にそぐわぬ不寛容を、ノタ・レークの住民たちは余所者に対して露わにする。「キンジー・ミルホーン」シリーズはこうした閉じられた田舎のような土地を舞台にすることがしばしばある。

 ノタ・レークに限らず、そもそもキンジーのホームグラウンドであるサンタ・テレサという町も、有閑階級が多く住居を構えながら、どこか洗練されていない雑多な空間のイメージがある。しかも、そこに住む金持ちたちは皆攻撃性に溢れ、どことなく品がない。一体グラフトンはなぜこのような土地を小説の舞台に選び、キンジーを活躍させようとするのか。

 その答えのヒントになるものが、映画評論家の町山智浩氏の著書『トラウマ映画館』(集英社)にあった。

 同書で町山氏はグラフトンが原作・脚本をつとめた映画「ロリ・マドンナ戦争」を取り上げている。原作の『ロリ・マドンナ戦争』についてはこの連載で後々書くことになる(はず)が、町山氏は「ロリ・マドンナ戦争」に登場する、残虐非道を繰り返す一家たちを「ヒルビリー」と呼んでいる。「ヒルビリー」とは、アメリカ東部に南北に延びるアパラチア山地と、ミズーリからアーカンソーにかけて東西に広がるオザーク高原に住む貧しい白人たちのことである。彼らはアイルランド北部に入植したスコットランド人の子孫で、「反骨の庶民」としてTVドラマなどで描かれる一方、「凶暴な蛮族」として映画で表現されることもあったという。

 グラフトンはケンタッキー州ルイヴィル生まれ。「ヒルビリー」の故郷アパラチアで育った彼女は、そうした余所者に対して排他的に行動する「ヒルビリー」の姿を、単身事件に挑む女探偵を妨害する者たちに投影させたのではないだろうか。

 キンジー・ミルホーンシリーズ全体を通して感じる、小説舞台の洗練されていない田舎っぽさの根底には、「ヒルビリー」が存在している気が私はするのです。

 ローレンス・ブロックの「マット・スカダー」シリーズにおけるニューヨーク、デニス・レヘインの「パトリック&アンジー」シリーズのボストンなど、作者自身が過ごした土地の風俗が主人公の性格設定や小説のテーマに直結していることは多いけれど、サンタ・テレサという架空の町を舞台にしたキンジー・ミルホーンシリーズも、作者グラフトンの生い立ちを探ればその例に洩れなかった、ということでしょうか。主人公のライフスタイルを追うと同時に、主人公(もしくは作者が)生活を営む土地についての知識を参照しながら読むことも重要かな、と地理と世界史に弱い私は自戒を込めながら思うのでした。

 挟名紅治(はざな・くれはる)

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ミステリー愛好家。「ミステリマガジン」で作品解題などをたまに書いています。つい昨日まで英国クラシックばかりを読んでいたかと思えば、北欧の警察小説シリーズをいきなり追っかけ始めるなど、読書傾向が気まぐれに変化します。本サイトの企画が初めての連載。どうぞお手柔らかにお願いします。

過去の「ふみ〜、不思議な小説を読んで頭が、ふ、沸騰しそうだよ〜 略して3F」はこちら

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