前回は好きが高じて十代でミステリー評論書を買い込むに至った三津田さんのマニア読者ぶりについてお聞きしました。しかしそこで浮上してくる疑問が、そうした読書体験が現在のホラー愛とどうリンクしてくるのかということ。偏愛するミステリー作品についてお聞きするうちに、意外な言葉が……・

(承前)

——本格ミステリーファンになっていった過程はよく判りました。まるで鏡写しの自分を見ているようです(笑)。そんな三津田信三さんに答えづらい質問かもしれませんがお聞きしたいのは、いちばん好きな翻訳ミステリーは何か、ということなのですが。

三津田 難しいご質問です。ジャンルやテーマや時代を絞らないと、なかなか「この一冊」とは決められませんから……。それでもすぐに浮かぶのは、クリスチアナ・ブランドの『ジェゼベルの死』でしょうか。

——お、これは嬉しいタイトルが。私も大好きな作品です。今絶版で手に入らないのが非常に残念。お好きな理由というのをうかがってもよろしいでしょうか。

三津田 はい。本書は学生時代に(夏でしたね)読んだのですが、受けた衝撃は『黄色い部屋の謎』に匹敵しました。というのは当時、僕はいっぱしのミステリマニアになっていましたので、普通の作品(?)では心から楽しめない……という何ともやっかいな状態にありまして。

——マニアにありがちな屈折を体験したと(笑)。でもブランドは心に響いたわけですか。その辺の理由はご自分で分析しておられますか?

三津田 ブランドの主な活躍は、いわゆる本格ミステリ黄金時代の後になります。つまり先輩の作家たちが、あの手この手で読者を騙し続けた、その後ですね。ブランド世代の作家たちに、かなり凝った作品が多いのも、むべなるかなといったところです。ただ、そんな中でも、彼女は突出していたと思います。

——偉大なる実験者であるアントニー・バークリーの正統な後継者として、試行錯誤を繰り返した作家だと私は認識しています。どの辺を三津田さんは評価されたのでしょうか。

三津田 僕が本格ミステリに求めるのは、1.魅力的な謎、2.フェアかつ十分な伏線、3.前項を活かした論理的な推理による事件の解釈、4.前項から導き出される意外性のある結末、の四点なんです。本格物と呼ばれる作品の多くは、この1〜4を満たしているわけですが、実はそこで不満に感じることがありまして。それは3の項目を、解決編の探偵の推理部分でしか行なっていない作品が、意外に多いということです。つまり事件(謎)を巡る推理展開が、ほとんど解決編に入るまでなされないわけですね。なぜかと言うと、検討してしまうと、すぐにネタが割れてしまうから……という作品が、けっこうあったりします。

——一発ネタだと絶対に長篇を維持できないですよね。

三津田 はい。ところがブランドは、これを徹底的にやるわけです。作品によっては容疑者たち全員が参加して、ああでもないこうでもないと、事件についてディスカッションを行なうくらいですから。この姿勢に、もう僕はやられてしまって(笑)。

——ああ、判ります。たとえばカーの作品なども、落ちにたどりつくまで幾度かの中断を経ながら推理が開陳されます。そこが本格好きには「美味しい」わけなんですが、『ジェゼベルの死』の中盤はさらにその上を行きますよね。バークリー的展開の最たるものといってもいい。

三津田 そうです。もちろん『ジェゼベルの死』は、そういったディスカッションの果てにたどりつく真相が、また素晴らしいわけですが、本格物として評価するところは、あの意外な真相以上に、中段の推理展開にこそあるのではないでしょうか。

——なるほど、ただの本格ではもはや満足できなくなった境地というのが判ります。相手がブランドじゃねえ(笑)。そうした極北を体験しながら、なぜかファンとしての三津田さんは、ミステリーからホラーへと嗜好が移っていってしまったわけなんですが、そのきっかけはどういうことだったのでしょうか。

三津田 ミステリの読書量が増えると共に、ほとんどの読者は「魅力的な謎」と「意外性のある結末」を、より望むようになるのではないかと思います。まさに僕がそうでした。

——まるで麻薬中毒患者がより強い刺激を求めるように。

三津田 E・A・ポーは五つのミステリ短篇を書いていますが、自ら誕生させたミステリという文芸(謎解きを主眼とした本格ミステリ)の限界と滅びの予兆を、既に察していたように思えてなりません。それを実証してしまったのが、皮肉にも江戸川乱歩だったと考えるのは、あまりにも冒涜的でしょうか。乱歩の初期短篇から「陰獣」までの作品の流れを見つめるとき、いつも僕はそう感じてしまうのです。

——短篇ミステリから「陰獣」への流れを、自壊せざるをえないほどの進化欲求と解釈されるわけですね。

三津田 ミステリとしての「意外性」を追求するあまり、どんどんどんどん袋小路へと入って行く……。そんなイメージを、いつしか本格物に覚えるようになっていました。

——なるほど。

三津田 それに加えて、本格の「論理性」に対する疑問です。「論理的推理」というけれど、たぶんに恣意的なものが多過ぎるじゃないか、という不満ですね。

——その辺が、バークリーの後継者であるブランド作品の発見につながった、と私は思います。推理の多重解釈可能性に気づいてしまうと、もはや純粋な信者ではいられなくなるでしょうね。

三津田 ずっとミステリが好きで、いつも愛読してきただけに、こういった思いが気づかぬうちに、近親憎悪へと変わってしまいまして……。

——それは、よほど愛が強かったんだろうなあ。

三津田 実はこの時期に、そんな僕の鼻っ柱をたたき折った新進作家が、泡坂妻夫さんであり、連城三紀彦さんだったんです。が! そのとき僕が感じたのは、「ああ、これからの本格ミステリは、このお二人くらいのレベルでないと無理なんだ」という絶望ですね。もちろんお二人の作品には狂喜したわけですが、「本格ミステリは一部の天才しか書けない」と結論を出してしまったんですよ。いやぁ〜、若いというか、青いというか(笑)。

——そのお二人と自身を比較するのは、おそるべき自意識だと思います(笑)。で

も、そう思って絶望した人は少なくなかったんじゃないでしょうか。

三津田 あっ、そのとき作家になろうとか、なりたいとか、そんな大それた妄想を抱いていたわけではないんです。要は「本格ミステリの未来」に対する絶望と言いますか……。まぁ昔から言われている問題ですけど。

——それで一気に冷めてしまったわけではないですよね。

三津田 そうですね。とはいえ、しばらくはミステリがまだ中心だったはずです。一気にホラーにのめりこみ出したのは、ジャンルに関係なくスティーヴン・キングを面白いと思ったときだと思います。

——入り口がキングだったというのは、よく判ります。あの当時のキングは、特別でした。そこがきっかけでしたか。

三津田 かつてお勉強のために読んで、つまらないと感じたM・R・ジェイムズ、H・P・ラヴクラフト、アーサー・マッケン、アルジャーノン・ブラックウッドといった古典から、キング、ピーター・ストラウブ、ジェームズ・ハーバート、ディーン・R・クーンツ、ジョン・ソール、ロバート・マキャモン、ダン・シモンズなどのモダン・ホラーまで、とにかく新旧のホラーを読みまくりました。ミステリも完全にやめたわけではなく、近親憎悪の念を持ちつつも、相変わらず読んではいました。

——でもずるずるとそっちに……。キング訳者の白石朗さんなんかも、同じ体験をしたのではないかな、と勝手に私は思っています。

三津田 へぇ、そうなんですか。元々はミステリがお好きだったんですね。

——ワセダミステリクラブのご出身ですしね。今度聞いてみよう。

三津田 この体験から、まず小・中・高まではミステリに親しんで、大学生から大人になるあたりでホラーへと進むのが、正しいミステリとホラーの読み方ではないかと思っとります(笑)。ミステリが持つ遊戯性のある要素(密室殺人や名探偵や意外な犯人など)が受けるのは、やっぱり若い世代ですからね。一方、ホラー特有の雰囲気(特に古典が持つ)を楽しむためには、ある程度の読書経験があったほうが良い、と感じたわけです。

(つづく)