さて、途中からでも絶対に大丈夫なエドワード・D・ホック作の怪盗ニック・ヴェルヴェット・シリーズを皆様(とくに未読の方々)に紹介します。

 2019年1月に『怪盗ニック全仕事6』が創元推理文庫から刊行されました。つまり、怪盗ニックもの短編87編のすべてが6巻に分けて、日本の読者に紹介されたわけです。ちなみに、ニックものに長編はありません。もう1つちなみに、ニックもの短編全作品がまとめて単行本の形で刊行された国は今のところ日本だけで、本国のアメリカでも単行本で全集は刊行されておりません。

 このシリーズの魅力は、もちろん、主人公ニック・ヴェルヴェットの人物設定でしょう。本名はニコラス・ヴェルヴェッタといい、イタリア人が多く住むニューヨーク市マンハッタン区のグリニッジ・ヴィレッジで生まれ育ちました。のちに、姓をアングロ=サクソン風に聞こえるように、ヴェルヴェットと改名しました。朝鮮戦争中に陸軍に入隊し、除隊後、いろいろな仕事を転々としたあと、ひょんなことから、誰も盗まないような価値のないものを盗むという犯罪の道を歩み始めたのです。初めは最低2万ドルの手数料を要求していましたが、年がたつにつれ、だんだん手数料を高くしています。
 独身ですが、ニューヨーク市郊外にあるウェストチェスター郡の小さな町に、三十代のガールフレンド、グロリアと一緒に住んでいて、休みの日はロング・アイランド・サウンドという小海峡でボート遊びを一緒に楽しんでいるというユニークな人物設定です。依頼人のほとんどが依頼の理由を話さないので、裏の事情を探ったり、仕事の最中に起こった殺人事件の真犯人を突きとめたりする探偵役を務めたりすることが多いです。
 後半には、ライヴァルとなる美人怪盗サンドラ・パリスが登場して、ニックとグロリアとの関係を複雑にすることで、単調になりそうな40年も続く長寿シリーズを活性化させています。

       *       *

 これからシリーズ全体の面白さを説明するので、まず全6巻のうちのどれか(まあ、第1巻がいいでしょう)を購入するか、図書館から借り出して、巻末のチェックリストを参照していただくことをお薦めします。

 怪盗ニック・シリーズは《エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン》という短編ミステリー小説専門誌の1966年9月号に掲載された「斑の虎を盗め」から始まりました。しかし、日本で初めて紹介されたのは、『ミステリマガジン』(以下、HMM)70年3月号訳載の第2話「プールの水を盗め」でした。70年代前半にはHMMで数人の翻訳家が多くの怪盗ニックものを訳していました。この訳者が初めて翻訳したのは、HMM73年12月号訳載の「カッコウ時計を盗め」でした。
 そして、既訳作品を中心に(初訳が2編)怪盗ニックもの短編集を日本で独自に編纂する企画が持ちあがり、76年に『怪盗ニック登場』ハヤカワ・ミステリ(俗に言うポケミス)で刊行されました。この第1短編集の売れ行きがよく、79年には第2短編集『怪盗ニックを盗め』が刊行されました。これはこの訳者の単独訳で、収録12編中、初訳7編もありました。83年刊の第3短編集『怪盗ニックの事件簿』には収録10編中、初訳が4編あります。この3冊では初期の作品が発表順にすべて並んでいるわけではなかったのです。
 それから20年たち、2003年に早川ミステリ文庫から“ミステリの定番がすべて読める”という〈クラシック・セレクション〉シリーズで“定番”の文庫化が始まり、上記の3冊が再刊されました。そのとき、ついでに第4短編集を文庫オリジナルで刊行するという企画も持ちあがり、いろいろと検討した結果、第45話「白の女王のメニューを盗め」を始めとして、ニックのライヴァルであるサンドラ・パリスも共演する作品だけを集めた『怪盗ニック対女怪盗サンドラ』を04年に出したのです。収録10編中、初訳が7編もありました。

 その9年後、08年の1月に作者のエドワード・D・ホックがニューヨーク州ロチェスターの自宅で突然に亡くなりました。東京創元社では、ホックの『サム・ホーソーンの事件簿』(全6巻)と『サイモン・アークの事件簿』(5巻まで)を終えたあとに、どんな短編集を出そうかと検討していた頃で、結局、14年から『怪盗ニック全仕事』全6巻を第1話から順番に刊行することに決定したのです。

 まず、全87編を6巻に分けて収録しました。この訳者の改訳においては、ポケミス版や早川文庫版に他社の編集者と校正者の手が加わると、かなり変わります。ひと昔前に早川版を読んだ方々はめったに再読しないだろうと考えて、新しい読者がどの作品から読んでもわかりやすいように、この訳者自身、できる限り手を入れました。そして、ニックとグロリアとサンドラの関係が変化していても、新鮮味を維持するように心がけました。
 つまり、途中から読んでも大丈夫だということです。でも、初めて読まれる方々にニックのことを知っていただくために、ぜひとも読んでいただきたい短編と、訳者として気に入っている短編を1巻ごとに紹介していきましょう。

※木村二郎さんがとくにお薦めの短編をご紹介くださる《後編》はあした掲載の予定です。どうぞお楽しみに。(編集部)

 

木村二郎(きむら じろう)
『ミステリマガジン』9月号に〈ジョー・ヴェニス・シリーズ〉の最新中編「厄介な古傷」が掲載されています。ニューヨークの私立探偵ヴェニスが24年ぶりに『ミステリマガジン』に戻ってきました。目下のところ、猛暑なのに次作を執筆中。それと同時に、名作とされる私立探偵小説の新訳をこつこつと試みているところです。
 2013年刊のヴェニスもの短編集『残酷なチョコレート』の古本にアマゾンで10万円以上の値段(なんと定価の50倍以上! 嘘じゃないんだ!)がついているのを見て、喜んでいいのか、驚いていいのか複雑な気持ちです。