ここでいう初心者とは、本サイトをごらんになるほど読書好きなのに、なぜかキング作品にふれたことのない方や、そびえるキング山脈を見あげてボリュームに圧倒され、手を伸ばさずにいた幸運な方々のことです。そんな方々にキング作品を薦めるのは、ある意味でとびきりの毒を処方するようなもの。ですからここでは、初心者のあなたにあえておすすめしないキング作品を三作品だけ選びました。
たとえば『ミザリー』。キャシー・ベイツ主演の映画で物語のアウトラインはご存じでしょうし、キング作品のなかでは手ごろな一冊本なので、うっかり手にとる方がいるかもしれません。熱狂的ファンの中年女性の手で冬山の一軒家に幽閉され、新作執筆を迫られた作家が体験する想像を絶する体験も、映画館やテレビで映像を見ているだけなら、作家の苦しみや痛みに同情しつつ鑑賞しているだけです。あのとびきり「痛い」シーンで一瞬びくんと飛びあがっても、すぐ映画館の座席やリビングの居ごこちのいいソファでゆったりできるでしょう。しかし——
——しかし、キングの原作は活字の力で、あなたとあなたの想像力を物語に引きずりこみます。自分の想像力から逃げられる人はいません。あなたは大怪我でベッドに縛りつけられて身動きのとれない作家になり、作家が足首に感じる言語に絶する痛みを、あなたもわがこととして感じてしまうのです(作家の足首を見舞う「凶器」は映画と小説では異なっています)。こんな痛い思いをさせる作家の本は二度と読んでやるものか、という人を増やすのは本意ではありません。
キューブリックによる映画化で知名度も高い初期の傑作『シャイニング』も、初心者がうかつに手を出すと危険です。とりわけ旅行に出る予定のある方が、長めの本なので移動中の時間つぶしにいいかな……と手を出せば、雪に閉ざされた山奥の由緒あるホテルに管理人として住みついた親子三人を襲う怪異と恐怖のつるべ打ちに読むのをやめられず、静まりかえった夜中のホテルでの貴重な睡眠時間をあらかた奪われるのは確実です。
またホテルにとり憑く悪霊と一家族との壮絶な戦いを描いた本作は、夫婦や親子の関係の闇を容赦なく抉る一面もそなえています。あなたが子をもつ親であれば、あなたに家族があれば、なおのこと『シャイニング』というホテルにチェックインしないほうが幸せかもしれません。「心の闇」は、テレビの犯罪報道の決まり文句にしておいたほうがいい。自分の心にも闇があることをあなたに否応なく気づかせるこの作品は(『ペット・セマタリー』とならんで)、かけがえのない心安らかな日々の敵になる取扱注意の本なのです。
クローネンバーグによって映画化されただけではなく、TVシリーズ化もされているので知名度もあり、上下本ながらそれほど長くないため、やはり手にとりやすい『デッド・ゾーン』も危険な本といえます。交通事故後に五年近く昏睡状態にあり、目覚めると超能力が身についていた青年教師の物語には、人が羨む能力があっても、かならずしも現世的な幸せには結びつかない、むしろ呪いのようなものかもしれないという沈鬱な通奏低音が流れています。中盤から衝撃的なクライマックス、そして索寞たる終幕まで突っ走るベクトル感覚はキング作品中でも屈指。脈搏を上昇させ、手の発汗現象をうながし、時間感覚をうしなわせるばかりか、読後にはあなたの胸に冷たい、しかしどこか懐しい風を送りこんでしまうおそれがあるのです。
かくも危険なキング読書体験をお薦めしない理由、少しはわかっていただけましたか。けれども「舌が痺れるのもフグの味、読書もそうでなくちゃいけない」という好奇心にあふれる本好きのあなたを引き止めるような不粋な真似は慎みます。どうか自己責任で毒味を……じゃない、味見をなさってください。キング作品には強烈な中毒性がありますが、かりに依存症になったところで、邦訳作品も多いため、しばらくは禁断症状に悩まされる心配のないことをつけくわえておきます。