1 いつ読むの? 今でしょ!

 今、エラリー ・クイーンがブームです。

 アメリカでは、2012年にマンフレッド・リーとフレデリック・ダネイの書簡集が、2013年にはF・M ・ネヴィンズの『エラリイ ・クイーンの世界』の増補改訂版が刊行。2014年にはクイーンの書誌研究本が予定されています。著作は電子化が進み、TVドラマ 「エラリー ・クイーン」は2010年にDVDになりました。

  

 日本では、東京創元社と角川書店が競うように初期作の新訳版を刊行中。この角川書店、それに早川書房はクイーン作品の電子化も進めています。論創社の〈EQコレクション〉は読者の熱意に支えられ、ラジオドラマ集、TVドラマ集、評論、パロディ集と、マニアック路線を爆走中。麻耶雄嵩『隻眼の少女』、法月綸太郎『キングを探せ』『犯罪ホロスコープ』、青崎有吾『体育館の殺人』といった、クイーンに挑んだ作もいくつも出ています。TV版『Yの悲劇』も2009年にDVD化されました。

  

 このブームは偶然ではありません。これらのクイーン関連本の作者や編纂者や訳者は、内外共に、いずれも熱烈なクイーン・ファンなのです。つまり、出版社ではなくクイーン・ファンが作り出したブーム。そして、これらの本を受け入れるクイーン・ファンが何万人もいるために、ブームは続いているわけです。

 もちろん、現役作家に比べれば、ささやかなブームに過ぎません。しかし、1929年にデビューし、1971年に創作活動を終えた作家としては、かなりのものだと言ってもかまわないでしょう。

 そして、ブームの今が、クイーンを読む最高のタイミングなのです。

    先日出た本はどうだったか?

    来月出る本はどうだろう?

    次に出る本は何だろう?

 友人と、あるいは同好の士と、あるいはネット上で、こういった話ができるのは、ブームの最中だからこそ。実際、ネットなどでは 「創元と角川の新訳はどちらが良いか」とか、「論創社の次の〈EQコレクション〉は何か」といった話題で盛り上がっているのです。

2 どの訳で読むの? これでしょ!

 では、初心者におすすめのクイーン作品を——

 まず、長篇が苦手の人は、『エラリー ・クイーンの冒険』(井上勇訳/創元推理文庫)が良いでしょう。クイーンは長篇のみならず短篇も優れているので、本格ミステリのファンならば、読んで損はありません。わずか数十ページの中に、魅力的な謎、鮮やかな推理、意外な真相と、三拍子が揃っているのですから。

  

 しかし、「井上訳は古くて読みにくい。もっと軽く読めるのはないか」という人もいるでしょうね。そういう人には、2008年に訳された脚本集『ナポレオンの剃刀の冒険』(飯城勇三訳/論創社)がおすすめ。一般大衆向けのラジオドラマなので、明るく、楽しく、わかりやすく書かれています。それでいて、本格ミステリとしての出来は、あの法月綸太郎氏がびっくりするくらい、ハイレベルなのですから。

  

 長篇から読みたい人には、ありきたりですが、やはり〈国名シリーズ〉〈レーン四部作〉がおすすめ。初心者のために補足しておくと、〈国名シリーズ〉とは『ローマ帽子の謎(秘密)』から『スペイン岬の謎(秘密)』までの9作、〈レーン四部作〉とは『Xの悲劇』『Yの悲劇』『Zの悲劇』『レーン最後の事件』の4作を指します。

 ただし、この二シリーズは、新刊書店で入手可能な訳本がいくつもあるのが悩ましいところ。早川ミステリ文庫、創元推理文庫、角川文庫、と三種類もあり、さらに、創元と角川では 〈国名シリーズ〉の新訳刊行 が進行中なのです。

 ちょっと、訳者をまとめてみましょう。人名の後ろにカッコで入れたのは、訳者の生年です。

  (1)早川ミステリ文庫—— 〈レーン四部作〉は宇野利泰(1909)訳。〈国名シリーズ〉は宇野訳、青田勝(1902)訳、大庭忠男(1916)訳、乾信一郎(1906)訳。

  

  

  (2)創元推理文庫—— 〈レーン四部作〉は鮎川信夫(1920)訳。〈国名シリーズ〉は井上勇(1901)訳。現在、〈国名シリーズ〉は中村有希(1968)訳で改訳中。

  

  

  (3)角川文庫—— 〈レーン四部作〉は越前敏弥(1961)訳。〈国名シリーズ〉は旧訳は品切れだが、現在、越前他訳で改訳中。

  

  

 では、どの訳で読むのが良いでしょうか?

 もちろん、私が解説を書いている角川文庫版——と言いたいところですが、実は、あなたが初心者ならば、訳本による違いはそれほど気にする必要はありません。好みで良いと思います (どんな好みだとどんな訳が良いかは後述)。例えば、私は角川文庫版『ローマ帽子の秘密』の解説で、創元推理文庫の新訳版『ローマ帽子の謎』の伏線の訳し方が不充分であることを指摘しました。ただし、創元版はこの指摘を受け、二刷で修正しているのです(従って、これから創元新訳版『ローマ帽子』を読む人は、二刷以降を買いましょうね)。創元旧訳版にしても早川ミステリ文庫版にしても、私のような原書と突き合わせたりするマニアでないならば、問題なく楽しめるでしょう。

 しかし、あなたがもし、細かい伏線や手がかりの訳し方にこだわるマニアックな読者ならば、〈国名シリーズ〉は角川文庫版をおすすめします。というのは、私が身の程知らずにも訳者の越前敏弥氏にアドバイスしているのが、まさにこの「伏線や手がかりの訳し方」だからです。その“訳し方”のいくつかは解説で触れていますが、ここでは、『ギリシャ棺の秘密』から、一つだけ紹介しましょう。

 本作の29章で、名探偵エラリーは事件関係者ノックスの大邸宅を訪 れ、「使用人全員に会わせてほしい」と頼み込みます。そして、全員の顔を見て名前を確認した後のセリフは——

   「みんな僕には初対面です」(早川文庫版)

   「みんな初めてお目にかかる顔だが」(創元旧訳版)

   「顔も名前も、ほかで見たことはないな」(角川新訳版)

 角川版だけ、「名前」が入っていますね。原文は「(僕にはみんな)stranger」なので、どの訳も間違いではありません。しかし、まさにこの箇所こそが、私がこだわった 「手がかりの訳し方」だったのです。

 エラリーはこの場面で、ノックス家の使用人の中に、ハルキス家の葬式に顔を出した者がいないかをチェックしました。しかし、エラリーは来客全員の顔を見たわけではありません。来客リストを見て、“名前だけ”知っている人もいるのです。従って、このセリフの訳には「名前」も入れるのが正しいというわけですね。

(それにしても、私のこんなマニアックな意見までも検討してくれる訳者の越前氏には、本当に頭が下がります。)

 ここで話を戻しましょう。

 どんな好みの人が、どの訳で読めば良いのでしょうか?

 まず、翻訳小説独特の読みにくさ——日本語と異なる構造を持つ原語から訳された小説独自の読みにくさ——が気にならない読者には、早川版か創元旧訳版をおすすめします。確かに古くさい訳文ではありますが、原書自体が戦前のものなので、かえってふさわしいと考えられないこともありません。

 一方、現在の日本の小説を読むような感じを望む読者には、角川文庫版がおすすめです。基本的にわかりやすい表現を用いていますし、セリフも現代風になっていますから。また、原文に頻出するラテン語やフランス語やドイツ語、それに聖書や古典からの引用も、抵抗なく読めるように工夫をしています。逆に、戦前の本を読んでいる感じを受けないかもしれませんね。

 なお、この角川版 〈国名シリーズ〉では、探偵エラリーの口調が、既訳と比べてかなり違っています。その理由は『フランス白粉の秘密』の解説で紹介しておきましたので、興味がある人は、読んでみてください。

 そして、この二種類の折衷策とも言うべきなのが、創元新訳版。旧訳 (井上訳)のクラシカルな感じを尊重しつつ、現代の訳に置き換えようとしているのです。

 余談ですが、日本のミステリ作家の大部分は、若い頃に創元旧訳版で探偵エラリーと出会っています。従って、彼らの持つ探偵エラリーやその父親のイメージは、井上訳によって刷り込まれたものと言えるでしょう。この中村訳は、その井上訳のイメージを崩さないように訳しているので、探偵エラリーの口調は旧訳と同じですし、父親のクイーン警視も、自分のことを 「わし」と言います(越前訳は 「わたし」)。言い換えれば、法月綸太郎氏の描く法月父子のイメージに近いのは、越前訳ではなく、中村訳なのです。

 というわけで、これだけ翻訳者の姿勢が異なるということは、逆に言えば、自分に合った訳が選びやすいということにもなります。あなたの好みにあった訳を選んでください。

 最後に、おすすめの選び方を——私が実践している選び方を——述べておきましょう。

 それは、「最初に読むのは何でも良いが、再読時には別の訳にする」ということです。

 「本格ミステリは二度読め」という言葉がありますが、クイーンほど、再読を楽しめる作者はいないでしょう。解決篇で披露される推理が頭に残っている状態で、もう一度最初から読み直すと、巧妙な伏線や手がかりや状況設定などに、感心するに違いありません。

 とはいえ、内容を覚えている状態で同じ本を読むのは、いささかしんどいですね。そこで、別の訳本で再読するわけです。そして、「なるほど、このシーンは伏線だったのか」と思ったら、初読時の訳本を引っ張り出してきて、比べてみましょう。きっと、新たな発見があるはずです。〈国名シリーズ〉も 〈レーン四部作〉も文庫本なので、2種類買ってもハードカバー1冊分の値段ですよ!

3 どの作から読むの? これでしょ!

 それでは、いよいよ本題の、初心者のためのおすすめ長篇を。……と言いたいところですが、クイーンの場合は、これが難しい。というのも、読者のタイプによって、おすすめ長篇が異なるからです。

 日本のミステリ作家へのインタビューなどを読むと、クイーンを神のごとく高く評価する作家もいれば、そうでない作家もいることに気づくと思います。これは、読者のタイプが異なるからに他なりません。ある読み方をする人の評価は高くなり、別の読み方をする人の評価は低くなるわけですね。この記事では、前者を〈横溝正史タイプ〉、後者を〈江戸川乱歩タイプ〉と命名することにします。

 では、あなたがどちらのタイプなのかを調べるため、テストをしてみましょう。

 まず、クイーンの『Yの悲劇』を読んで見てください。この長篇はオールタイム ・ベスト上位の常連ですので、これまた読んで損はないでしょう。「クイーンは『Y』だけ読んだ」という人も多いはずです。

 そして、『Y』を読み終えた人、あるいは既に読んでいる人は、〈後篇〉へどうぞ。ここでは、あなたの 『Y』の感想からタイプを分類し、そのタイプ別のおすすめ作品を紹介します。もちろん、『Y』の真相を明かしているので、未読の人は、読了後に 〈後篇〉に進んでくださいね。

  

【後編につづく】

飯城勇三(いいき ゆうさん)

宮城県出身。エラリー・クイーン研究家にしてエラリー・クイーン・ファンクラブ会長。著書は『「鉄人28号」大研究』(講談社)、『エラリー・クイーン Perfect Guide』(ぶんか社)およびその文庫化『エラリー・クイーン パーフェクトガイド』(ぶんか社文庫)、『エラリー・クイーン論』(論創社)。訳書はクイーンの『エラリー・クイーンの国際事件簿』と『間違いの悲劇』(共に創元推理文庫)。論創社の〈EQ Collection〉では、企画・編集・翻訳などを務めている。他に角川文庫版〈国名シリーズ〉の解説など。

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