〈急〉
さて、ここから赤裸々な話をするが、日本でコナリーの翻訳が出なくなる可能性がある。少なくともわたしの翻訳ではなくなるかもしれない。後者に関して言えば、おまえの翻訳でなんか読みたくない、もっと上手な翻訳家の流麗な訳文で読みたいと思っておられる方もおられるだろう。しかし、前者は問題だ。上述のごとく、質量兼ね備えたすこぶる面白い作家マイクル・コナリーの翻訳が出なくなるなどというのは、訳者の立場を離れて、一読者としても、あってはならないことだ。それでも、その可能性は現にある。
なぜか。
コナリーが売れないからか?
いや、そんなことはない。コナリーは売れているのだ。ただし、大半の翻訳ミステリに比べればの話。
要は採算の問題だ。
好きな作家の翻訳が出なくなった、という経験は、読書好きならだれしも経験していることだろう。どうして、あんなにも面白い作家の新作が訳されないのだろう、という嘆きはみなが共通して抱く思いだ。
このサイトの【原書レビュー】え、こんな作品が未訳なの!?連載で、翻訳家のみなさんが紹介している本は、執筆者の熱意もあって、すぐにでも翻訳で読んでみたくなる本ばかりだけれども、実際には、なかなか訳されることはない。
それはたいていの場合、採算が取れなくなったため、あるいは、取れないだろうと予想されるくらい既訳の売れ行きが落ちたため、出版社があらたな版権を取ろうとしないからなのだ。
コナリーの場合、本国で抜群の人気作家ゆえ、版権料(アドバンス)が安くない。おまけに向こうの版元は強気だ。そのため、版権交渉はいつも長期戦になる。日本での売れ行きと先方の提示する版権料とのあいだで、たがいに納得できる落とし所を見つけるのが大変——なのだろう。訳者は直接版権交渉に携わるわけではないので、このあたりは、あくまでも伝聞である。
そのため、訳者としては、いつも交渉のなりゆきをやきもきしながらただじっと待っているだけだ。担当編集者から「(版権)取れました!」という連絡が来るまで、安心はできない。
というのも、コナリー愛読者の方ならご存知の通り、近年、日本での出版元がこれくらい移動している作家はほかにいないからだ。扶桑社→講談社→早川書房→講談社と、延べ四社を渡り歩いている。その過程で、出版順まで前後したことが一度あり、このときは読者に多大なるご迷惑をかけたといまでも忸怩たる思いでいる。この間、幸いなことに、訳者は一冊を除いて、わたしを指名していただけた。(一冊の例外は、出版社が変わったことで、訳者も変えて雰囲気を変えてみようとした、ボッシュ・シリーズではなかったこともあり、と当時の担当編集者から訳者変更の理由を聞いている)
すべては、安くない版権料と個々の出版社の懐(?)事情の兼ね合いからなのだが、著作リストをご覧になればおわかりのように、The ScarecrowとNine Dragonsの版元が本稿執筆時点では、まだ決まっていない。
The Scarecrow (2009)は、『ザ・ポエット』のジャック・マカヴォイが主人公のハイテク・サスペンス。天才的ハッカー兼シリアルキラーの敵役に、不況でロサンジェルス・タイムズを首になったマカヴォイがFBI捜査官レイチェル・ウォリングの協力を得て立ち向かうスリル満点の快作。くそぉ、滅法面白いじゃねぇか、とぞくぞくしながら読んだものだ。
そして、ボッシュ・シリーズの集大成ともいえる作品がNine Dragons (2009)だ。粗筋は書かない。永年、このシリーズにつきあってきた者として、先を読み続けるのがためらわれたほどの展開が待っているとだけ記しておく。この本のため、これまでのシリーズがあったと言っても過言ではない。
この二冊は、ぜひとも自分の手で訳して、読者にお届けしたい。身勝手な思い込みであることを承知のうえで書けば、ある意味では、Nine Dragonsを訳すのは、これまでボッシュ・シリーズを訳してきた者の責務とさえ思っている。
ところが、リーマン・ショック以降、出版不況に拍車がかかり、目下、空恐ろしいほど本が売れなくなっている。とりわけ、翻訳書籍の売れ行きはひどいものだ。拙文の依頼元である「翻訳ミステリー・シンジケート」が立ち上がったのも、そうした危機感からだろう。
コナリーとて例外ではない。売れていなくはないが、売れ行きの伸びが落ちてきている。3年まえに出た『終決者たち』は、発売一週間で増刷が決まったが、去年六月に出た『リンカーン弁護士』の増刷が決まったのは、ことし3月に入ってからだった。
長引く不況に加えて、シリーズものの宿命としての、読者数の漸減も、売り上げ鈍化につながっていよう。
売れ行きを維持できれば、あるいは、売れ行きが増えれば、版権交渉がもっと楽に進むのは、まちがいない。
そこで、最初の話に戻るが、コナリー初心者のみなさんへの期待はそういうことなのだ。みなさんがコナリーの面白さを知り、購入してくだされば、売れ行き維持・増大につながり、コナリーの「安定供給」につながるはずだ。
コナリーは面白い。保証する。どうかお手にとっていただきたい。あなたのおかげで、日本のコナリー・ファンの楽しみがまだまだつづくことになるのだから。
伏してお願いする。
〈追記〉
えーっと、正直な話、こんな露悪的な話は書きたくはなかったんですね。だけど、きれい事を言っていられる段階ではもうないのね(おっと、口調まで変わってしまったぞ)。
いまの絶望的な不況下では、コナリーとて安閑としていられるわけがない。とりあえず買ってもらわねば、次が出せなくなる。買ってもらうためには知ってもらわねばならない。多少、下世話な話までして読み手の興味を惹こうとする。そのため、こういう文章を書きました。
乱文失礼。
そうそう、むかしからのコナリー・ファンのみなさんは、新刊『エコー・パーク』を買って読んでください。ボッシュ・シリーズのベストだと、ミステリ評論の大御所オットー・ペンズラーが申しております。辛口で鳴る翻訳家・評論家木村二郎さんも原書を読んで、褒めておられました。読んで面白かったら、まわりに吹聴するなり、Twitterでつぶやくなりして、コナリーの名を広めていただければ嬉しいです。
最後に、お知らせを。ハヤカワミステリマガジン2010年7月号(5/25発売)では、マイクル・コナリー特集が組まれます。拙訳のコナリー短篇5篇(ボッシュ物2篇含む)に加えて、各種エッセイ等、充実した内容になるはずです。ご期待あれ。
〈マイクル・コナリー長篇リスト〉
1 The Black Echo (1992)『ナイトホークス』(上下)(扶桑社ミステリー)HB MWA
2 The Black Ice (1993)『ブラック・アイス』(扶桑社ミステリー)HB 宝9 FCA
3 The Concrete Blonde (1994)『ブラック・ハート』(上下)(扶桑社ミステリー)HB 宝4
4 The Last Coyote (1995)『ラスト・コヨーテ』(上下)(扶桑社ミステリー)HB 講4 宝7 DLS
5 The Poet (1996)『ザ・ポエット』(上下)(扶桑社ミステリー)JM RW 宝15 ANT DLS NER
6 Trunk Music (1997)『トランク・ミュージック』(上下)(扶桑社ミステリー)HB BRA
7 Blood Work (1998)『わが心臓の痛み』(上下)(扶桑社ミステリー)TM 文9 宝6 ANT MCV
8 Angels Flight (1999)『エンジェルズ・フライト』(上下)(扶桑社ミステリー)HB
9 Void Moon (2000)『バッドラック・ムーン』(木村二郎訳:上下)(講談社文庫)
10 A Darkness More Than Night (2001)『夜より暗き闇』(上下)(講談社文庫)HB TM 講4 文11 宝20
11 City of Bones (2002)『シティ・オブ・ボーンズ』(ハヤカワ・ミステリ文庫)HB 宝17 ANT BRA
12 Chasing The Dime (2002)『チェイシング・リリー』(古沢嘉通・三角和代訳:ハヤカワ・ミステリ文庫 )
13 Lost Light (2003)『暗く聖なる夜』(上下)(講談社文庫)HB 講1 文1 宝2 FCA
14 The Narrows (2004)『天使と罪の街』(上下)(講談社文庫)HB TM RW 講2 宝8
15 The Closers (2005)『終決者たち』(上下)(講談社文庫)HB 講1 文8 早12
16 The Lincoln Lawyer (2005) 『リンカーン弁護士』(上下)(講談社文庫) MH 講1 文9 宝10 早7 PWA MCV
17 Echo Park (2006) 『エコー・パーク』(上下)(講談社文庫) HB LTB
18 The Overlook (2007)(講談社文庫近刊)HB RW
19 The Brass Verdict (2008)(講談社文庫近刊)HB MH ANT
20 The Scarecrow (2009) JM RW
21 Nine Dragons (2009) HB MH
22 The Reversal (2010予定) HB MH
*訳者を記していない邦訳書は、いずれも古沢嘉通訳。
*主要登場人物略号 HB:ハリー・ボッシュ MH:ミッキー・ハラー TM:テリー・マッケイレブ RW:レイチェル・ウォリング JM:ジャック・マカヴォイ
*年間ベストテン順位(記入例:講1は、IN☆POCKET1位の略) 文:週刊文春ミステリーベスト10 宝:このミステリーがすごい! 講:IN☆POCKET文庫翻訳ミステリーベスト10(総合ベスト) 早:ミステリが読みたい!
*主要ミステリ賞(エドガー賞新人賞を除いて、最優秀長篇賞およびそれに準じる賞の受賞作のみ) MWA:エドガー賞 ANT:アンソニー賞 PWA:シェイマス賞 MCV:マカヴィティ賞 LTB:ロサンジェルス・タイムズ・ブック賞 DLS:ディリス賞 NER:ネロ賞 BRA:バリー賞 FCA:ファルコン賞
古沢嘉通