〈序〉
もしもあなたが国産、海外を問わず、ミステリ系の娯楽小説が好きな人で、なおかつコナリーを一度も読んだことがないなら、あなたは幸運だ。
最新刊、2010年4月刊行の『エコー・パーク』まで、17冊の邦訳長篇があなたを待っている。そのほぼすべてが水準以上、いや、年間ベストテン・クラスの作品なのだから、あなたの期待はまず裏切られることがないだろう。毎日、一作ずつ読んでいっても、半月以上は、豊かな時間を過ごせるという寸法だ。
ただしご用心。デビュー作『ナイトホークス』(1992)が発表年とおなじ年に邦訳されて以来、18年かけて積み上げられてきた作品を一気呵成に読んでしまうと、「コナリー切れ」の強烈な禁断症状に襲われるかもしれない。現に、年に一冊ペースの邦訳を待ちきれずに原書に手を出してしまった、そういうコナリー中毒患者が何人もいる。
また、ここだけの話だが、あなたには日本にいるコナリー・ファンの大きな期待がかかっている。ご存知だろうか、日本でのコナリーを今後生かすも殺すもあなた次第だということを?
そのわけを説明するとなると長い話におつきあいいただくことになる。まず、コナリーの作品と評価について紹介し、そののち、あなたの双肩にかかっている期待について具体的にご説明しよう。
〈破〉
マイクル・コナリーがどんな作家なのか。そんなことを事細かに書いてもスペースの無駄だろう。日本語で「マイクル・コナリー」をググってみれば、いくらでも詳しい説明は出てくる。英語で検索すれば、読み終わるころには人生の何分の一かが終わってしまいかねないほど大量のデータが出てこよう。
あなたが知っておくべき事柄は、次の二項目くらいだ。
・マイクル・コナリー 1956年生まれのアメリカ人、元新聞記者、92年『ナイトホークス』でデビュー。ロサンジェルス市警刑事ハリー・ボッシュを主人公とする一連のシリーズで知られる、当代最高のクライム・ノヴェリスト(犯罪小説家)のひとり。左利き。
・ハリー・ボッシュ 1950年ロサンジェルス生まれ、元ヴェトナム従軍兵、75年ロサンジェルス市警に採用。離婚歴あり。左利き。
・古沢嘉通 1958年小樽生まれ神戸育ちの関西人、元メーカー社員、ミステリの翻訳は『ナイトホークス』が最初。右利き。
あれ、三項目になっている? 最後の項目は余計です、はい。
本稿の最後にコナリーの作品リスト(長篇のみ)を掲げた。主要なミステリ賞の受賞歴や日本のミステリ関係の年間ベストテンの順位もわかるようにしているので参考にしていただきたい。
リストをご覧になれば一目瞭然。すさまじい受賞歴だし、ベストテンの常連ぶりである。この事実だけで、「質」が保証されているのは、おわかりだろう。注目すべきは、「量」も確保されていることなのだ。18年間の作家生活で、上梓された長篇が22冊(予定含む)。年1冊以上のペースを堅持している。傑作を書くものの寡作な作家や、健筆だけど質が伴っていない作家、初期の作品は優れているがどんどん劣化していく作家は枚挙にいとまないが、質と量を兼ね備え、なおかつ維持しつづけているコナリーのような作家はきわめてまれな存在である。
さて、その数多くの優れた作品のなかから、コナリーを読んだことのない読者になにをおすすめすればいいのか。
じつは、コナリーの作品は、ボッシュ・シリーズであれ、シリーズ外の作品であれ、すべて共通のコナリー・ワールドに属している。単発作品(のちにシリーズ化されたものもある)の登場人物がボッシュ・シリーズのなかで共演したり、ちょい役として出てくることが頻繁にある。その逆に、ボッシュがシリーズ外の作品に顔を出すこともある。その「楽屋落ちの妙」を楽しむのもコナリー作品を読む楽しさのひとつと言えよう。
だから、本来であれば、『ナイトホークス』から発表順に呼んでいくのが、コナリー作品をもっとも楽しめる王道である——と言いたいところだが、たぶん、それでは途中で挫折してしまう場合が多かろう。なにせ17冊は多い。人生は短く、ほかにもたくさん読まねばならない本がおありだろう。
そこで、3冊に限って、これぞコナリーという本をご紹介したい。
まずは、昨年邦訳が出た『リンカーン弁護士』をおすすめしたい。単発作品であり、この本だけで完結している(のちにシリーズ化)。
細かくジャンル分けすると、ボッシュ・シリーズのような警察小説ではなく、スコット・トゥローやジョン・グリシャムが得意とするリーガル・サスペンスである。
主人公は、リンカーン・タウンカーを事務所代わりにカリフォルニア州ロサンジェルス郡を縦横に行き来し、こまめに事件を拾って報酬を稼いでいる一匹狼の刑事弁護士ミッキー・ハラー。弁護士本人と秘書と運転手以外に常勤スタッフがいない、究極の零細法律事務所ゆえ、固定したオフィスを持たず、文字通り、足で稼いでいるが、利は薄く、家のローンや別れた妻とのあいだにもうけた娘の養育費の支払いも遅れがち。年齢は40歳そこそこ。かなりくたびれてきた。
そんなハラーのところに、儲け話が転がりこんでくるところから話の幕があく。商売女への暴行容疑で逮捕された金持ちの弁護。みごと無罪を勝ち取れば、多額の報酬が約束されていた。いきごむハラーだが、事件を調べているうちに、自分が過去に担当した事件で、依頼人の無実を見過ごしてしまったのではないかという恐れが浮かびあがってくる。刑事事件の依頼人は、実際に罪を犯していたとしても、みな無実を訴えるものだという予断から、依頼人の必死の訴えに耳を貸さなかった。自分は冤罪に手を貸してしまったのではとおののくハラーの脳裏に、高名な刑事弁護士だったが父が遺した言葉が蘇ってくる——「無実の人間ほど恐ろしい依頼人はない」
本国で数々の賞にノミネートされ、ふたつの賞を受賞し、マシュー・マクノヒー主演で映画化も決まり、日本でも各種ベストテンに入った作品だが、最近なによりも嬉しかったのは、読書家でも知られる漫画家吾妻ひでお画伯の感想だ。
「12(土)マイクル・コナリー「リンカーン弁護士」(上・下)読了◎ めっちゃ面白! 脳内からアレが出まくり!」「脳内でエンドルフィン大放出! これぞ読書の醍醐味!」(吾妻ひでお公式HPhttp://azumahideo.nobody.jp/内、「ひでお日記」2010年3月12日の記述)
公式HPや『うつうつひでお日記』『うつうつひでお日記その後』(共に角川書店)掲載の絵日記を読んでいる方ならよくご存知だろうが、吾妻画伯が読了した本に二重丸の最高評価をつけることは滅多にない。わかる範囲でざっと調べた限り(公式HPでは見られない単行本未収録の過去の日記は確認できず)、翻訳小説では、本作のほかに、ディーヴァー『ウォッチメイカー』、リッチー『ダイアルAを回せ』、ビジョルド『自由軌道』『バラヤー内乱』があるくらいなのだ。
吾妻信者よ、『リンカーン弁護士』を読め! いや、読んでください。
次におすすめするのは、これまた、単発作品(おなじくシリーズ化。ただし、3冊で終了)の『わが心臓の痛み』だ。主人公は、元FBI心理分析官のテリー・マッケイレブ。非道な連続殺人鬼の心理を分析しているうちにそのあまりのストレスで重度の心筋症を発症する。幸い心臓移植手術を受けることができて、命は助かったものの、四十六歳の若さで早期退職のやむなきにいたった。そんな彼のところに、魅力的な女性が訪ねてくる。女性曰く、あなたの心臓はコンビニ強盗で亡くなった妹のものなの、逃亡した犯人をつかまえるのに手を貸してほしい、と。彼女の依頼を渋々引き受けたところ、おそるべき事態が待ち受けていた……。
コナリーは、いわゆる、ハードボイルド小説の書き手として喧伝されることが多いのだが、実際には、新本格作家きっての論客、法月綸太郎さんが高く評価していることからわかるように、本来の意味でのミステリ(謎解き小説)の結構を強く意識して作品を書いている。その格好の例が本書で、「意外な結末」に驚愕必至だ。
なお、本書は、コナリー作品で唯一映画化されている。クリント・イーストウッド監督・主演の『ブラッド・ワーク』(2002)がそれ。心臓移植を受けた主人公役をイーストウッド(公開時72歳)が演じるというとんでもないミスキャスト(心臓が悪いのに犯人を走って追いかけたせいで倒れるという場面が、たんに老人が走ったせいで倒れたとしか見えなかった)で、本国でも日本でも、さんざんな興行成績だった。とくに日本では、たった二週間で打ち切られてしまった。のちに自作のなかで、コナリーはこの映画やイーストウッドのことを登場人物の口を借りて、若干苦笑まじりに触れている。
以上2冊が気に入ったなら、ボッシュ・シリーズにとりかかっていただきたい。もちろん、処女作であり、シリーズの第一作である『ナイトホークス』から着手いただくのが最適手である。
しかし、それでも、まだコナリーを読み続ける決心がつかぬというのであれば、シリーズ中、日本でもっとも評価が高い『暗く聖なる夜』を3つ目の候補として挙げておこう。
粗筋は紹介しない。物語の全編を通して、サッチモが歌うWhat a Wonderful World(この素晴らしき世界)が流れているとでも言いたいほどの、本作の暗く哀しい詩情をいっさいの先入観抜きで味わっていただきたいからだ。シリーズのなかの一作だが、独立して読めることは請け合う。もっとも、読了後、ああ、シリーズを最初から読んでおけばよかった(もっと感動できた)のにと悔やむことになっても、筆者は責任を持てないので、念のため。
つづく