ルヘインの作品紹介というお題をもらったが、じつはけっこう書きにくい。

 なんせ惚れてるので。

 冗談など交えつつ愉しく紹介したいのは山々だが、惚れた弱みで地が出てしまう。なんだか恥ずかしい。恥ずかしがっても仕方ないね。ではシリーズ5作とノンシリーズ4作、一気にいきます。

 まず、ボストン南部ドーチェスターに生まれ育った探偵パトリックとアンジーが活躍するシリーズ。このころの著者名はルヘインではなくレヘイン、翻訳は本サイトのコラムでもおなじみの鎌田三平さんです。

 第1作『スコッチに涙を託して』。処女作への意気込みからかワイズクラック多すぎ? と思わないでもないけれど、アクションあり、意外な真相ありで、いきなりレベルが高い。とはいえ、この作家の持ち味というか力量が現れるのは次のようなところだ。

 アンジーのうしろでは暗くなった空に深紅の縞が指を広げ、かすかな風が彼女のひとすじの髪を耳のうしろから頬骨へとそよがせている。わたしのうしろのラジカセからはヴァン・モリソンが「狂おしい愛」について歌う声が聞こえ、わたしたちはせま苦しいオフィスに坐って、しつこい中華料理と蒸し暑かった一日と次の支払い小切手がどこからくるかがはっきりした満足感の余韻の中で、おたがいを見つめあっている。

 わたし(パトリック)が初めて相棒のアンジーを長く描写する個所だが、ああこいつは本当にアンジーが好きなんだな、と思う。その瞬間、もうふたりは他人事ではなく私のなかで生きている。

 第2作の『闇よ、我が手を取りたまえ』は暴力全開。犯人が犯人ですから。しかしプロットの牽引力は前作以上で、パトリックとアンジーが何か発見するたびに、読んでいるほうはぞくっとする。加えて本書にも彼らの少年時代を回想する名場面があって、これが切ない。

 第3作『穢れしものに祝福を』は一見オーソドックスなハードボイルドだけれど、やはり独特の展開と語り口。エピローグが美しい。

 第4作『愛しき者はすべて去りゆく』では少女誘拐事件を追う。犯人の意外性はシリーズ中随一か。終盤の工場の屋上での会話。魂に血がにじむようなアンジーの叫び。これぞ小説の力です。

 第5作『雨に祈りを』。またもや凶悪な敵が……。

「今までの辛(つら)かったことが、全部押し寄せてきちゃったわけ?」

「めちゃくちゃ辛かったことが全部だよ」

 こんな会話が出てくるほど疲れたふたりは、いったん退場するが、本国ではこの冬の新刊で11年ぶりに復活する。もちろん彼らの幼なじみで無敵の仕事人、ブッバ・ロゴウスキーも。

 ノンシリーズ第1弾の『ミスティック・リバー』は、クリント・イーストウッド監督で映画化され、アカデミー主演男優賞、助演男優賞を獲得したから、ルヘイン作品のなかでもいちばん知名度が高いかな。子供の誘拐は『闇よ〜』や『愛しき〜』でも見られたモチーフだが、ここでは事件を体験した子供たちが大人になってから、さらに別の事件に巻きこまれる。人物造型、プロット、犯人捜し、どれをとっても文句なし。とにかく「感情の激流」とでも呼びたくなるような小説だった。

 続く『シャッター・アイランド』もマーティン・スコセッシ監督で映画化されて、最近話題になった。映画のプロモーションでは謎解きばかりが強調されていたけれど、本来は深くやるせない「喪失」の物語。

 次の『運命の日』は、1911年のボストン市警のストライキと市内の騒乱を題材にした大作で、警官の家族と、逃亡してきた黒人、そして大リーグのベーブ・ルースを中心とする歴史物……といっても、この作家の武器は抜きん出たセンスと感覚描写だから、何を書かせてもルヘインふうになる。

 いまのところ邦訳最後の『コーパスへの道』は、戯曲1作を含む初の短篇集。短篇では長篇より「奇妙な味」を意識していると思う。ちょっと三崎亜紀さんの短篇のような。作品の質は『グウェンに会うまで』がいちばんだろうが、個人的に好きなのは『マッシュルーム』のたとえばこんな部分だ。

 帰りのフェリーで、彼女は自分の髪を弄ぶKLの指に、太陽のにおいを嗅いだ。砂丘のにおい、シルクの砂のにおい、ロブスターの身から滴っていたバターのにおいがした。……彼女は手のひらをKLの固い腹に当て、体のなかのたくましい筋肉を感じ、彼の皮膚に焼きこまれたにおいをもっと嗅ぎたいと思った。

 ケープ・コッドでデートした男女が、フェリーでボストンに帰ってくる。「彼女」は別れを予感している。いかん、「会心の訳文」のときより長々と引用してしまった。あいすみません。