今回は「よい翻訳、すぐれた翻訳とはどういうものか」というテーマで全員が書きました。メンバーの一員、田口俊樹の文章のみ、ここに分けて掲載します。ほかの6人については、下の(その1)をご覧ください。

 田口俊樹

 自分のことは棚に上げ、おもに三人称で書かれたフィクションを念頭に一席ぶちます。

 いつか人間が書くよりもっと面白い小説を人工知能が書く時代が来ないとは誰にも断言できないけれど、とりあえず小説というものは通常、ひとりの人間(著者)が語るものである以上、当然のことながら、翻訳においても「人の声」が聞こえてこなくちゃいけません。機械の合成音みたいな没個性的な声なんか、誰だってそう長いこと聞いていたくはありません。

 で、願わくば、聞こえてくる声が原著者の「肉声」であれば言うことがないわけですが、私はそこまでは求めない。その理由はすごく簡単。私自身、そこまでできているかどうか、あまり自信がないからです、はい。

 それでも同じ聞くなら、悪い声よりやはりいい声がいい。これは訓練でなんとかなります。それだけはヴォイス・トレーニング経験者の私が請け合います。ついでながら、ヴォイス・トレーニングは音感もリズム感もよくします。不思議なもんです。

 なんか感覚的、情緒的なことを言っているように思われるかもしれませんが、そうでもありません。語り手(三人称小説の場合、最終的には原著者ながら、作中人物の場合も少なくありません)が誰で、いつ、どこで、何を、どんなふうに語っているのか、一文一文明快な訳文でありさえすれば、よほど文章の下手な翻訳者でないかぎり、「人の声」はきちんと聞こえてくるものです。ついでに言えば、「人の声」がきちんと聞こえる訳文には、よく言われる文体のリズムなんてものも自ずと備わっているものです。

 ただ、ここで注意をしておきたいのは、この「誰がいつどこで何をどんなふうに」というのは、文の中身についてではなく、文そのものについて——文の書かれ方(訳され方)についてですからね。そこのところ誤解なきよう。

 それと鋭敏なる読者諸賢はすでにお気づきかと思いますが、これっていわゆる5W1Hっぽいですけど、ここに挙げたのは4W1Hで、「なぜ——WHY」は除いてあります。なぜなら、このWまで明快にするのはすごくむずかしいことだからです。もしかしたら、原著者にも答えられないかもしれない。だから、ま、これはいいです。

 韻文は曖昧でいいが、散文は明快でなければいけない。大昔に読みかじった三島由紀夫の受け売りです。でも、このことば、私の場合、まさに眼から鱗で、以来四十年、信じています。というか、このことばを疑わなければならなくなったようなことは、これまで一度もありません。

 ただ、ここでもまた誤解なきよう。曖昧さを表現することはもちろん散文にもできます。しかし、散文の場合、その曖昧さが明快でなければいけない。曖昧な曖昧さなんてものはただわけがわからないだけです。

 あとちょっとばかり職業人っぽいことを言うと、三人称で書かれたフィクションにおける翻訳の巧拙は、描出話法(直接話法でも間接話法でもない中間話法。私の理解で言えば、間接話法の崩れた形)の訳し方で大方決まるような気がします。

 英語で書かれた小説では、He(彼)と書かれていても、実はかぎりなくI(私)に近いHeがある。それでもなおHeはHeである——なんてね。こむずかしい物言いになってしまいましたが、実際、そうなんですよ、これが。

 ロマンス小説の翻訳では、そういうHeは原則的にIにして——つまり直接話法に変えて——訳すのが常道だそうです。読者がそういう訳文を求めているからというのがその理由で、そうしたニーズがある以上、それはそれでひとつの翻訳のあり方だと思います。また、直接話法にすると、とりあえず「読みやすく」なるのも事実です。

 でも、ミステリーも含めて、普通の小説の場合、その手の定式はないので、そこのところはいささか工夫を要します。まず、普通の三人称と疑似三人称の見きわめをきちんとしなきゃいけない。

 どうして見きわめなければならないのか——どうして三人称は三人称ということで機械的に訳すとまずいのか——というと、西欧の小説の三人称と日本の小説の三人称との微妙な差異という問題があるからです。

 西欧の作家は神の視座を持ち、日本の作家は持たない、というのは昔からよく言われてきたことですが、三人称を機械的に三人称のまま訳すと、なんだかすごく視点がばらばらになって見え、読みにくいことおびただしく、日本人にとってはあんまり小説っぽくならないんですね、これが。小説を訳す以上、訳されたものもやはり小説になっていなくてはいけません。当然ですよね。

 では、そのあたりのずれをどう調整するか。

 そこが翻訳者の腕の見せどころなわけです。HeにIをどれだけ含ませるか。まったく含ませないか、ロマンス小説のように百パーセントIで行くか。

 で、最初に戻るんですが、「誰が、いつ、どこで、何を、どんなふうに」ということが明快な訳文は、実はそのあたりのさじ加減が上手な翻訳なんです。視座がしっかりしてるんです。あやふやじゃないんです。だから明快なんですよ。

 ということで、とにもかくにも明快さがきらきらしている訳文、さらに(村上春樹氏がチャンドラーの一連の新訳で示しているような)テクスチャーも明快な訳文、ついでに好みを言えば、明快かつ簡潔な訳文、そういう訳文が一文一文味読できる翻訳。私はそんな翻訳が好きです。だから、やはりそういうのがよい翻訳だと思っています。

(たぐちとしき:ローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズ、バーニイ・ローデンバー・シリーズを手がける。趣味は競馬とパチンコ)

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