洒落っけのない眼鏡に、もっさりと生やした顎ひげ、愛用感のあるジャケットとチノパン。著者近影で見るゴダード氏は、気さくな史学教授みたいな風貌をしています。実際、ご本人はケンブリッジ大学で歴史を学んだわけですが、彼の書く作品には、知性の香りこそすれ、堅苦しさはみじんも感じられません。デビュー作のなかでゴダードは、歴史について主人公にこんなふうに語らせています。

「所詮は、偉かろうが偉くなかろうが人間の話だし、その人間がなにをしたかってことにすぎないんだ。歴史が妙に気取り出したら、肝心な点が落っこちてしまいますよ」

 このことばが信条であるかのように、ゴダードは歴史が落っことしたあれこれをすくいあげ、血のかよった物語——それもとびきり上質なミステリー——にしてわたしたちに届けてくれます。史実を題材としない作品においても、人間の行動から生じた波紋を丹念に描くスタンスは変わりません。

 1986年のデビューから現在(2011年3月31日時点)までにゴダードが上梓した長篇は、実に22作。いずれも“ゴダード印”というべき共通した特色を備えています。無粋を承知で列記すると、以下のようになるでしょうか。

 *史実と虚構/過去と現在を織り交ぜた独特の作風

 *いくつもの層をなす精巧なプロット、謎が謎を呼ぶ展開

 *主人公は刑事や本職の探偵ではなく、巻きこまれ型の一般人

 *複雑な関係で結びついた多数の登場人物

 *ひと所に固定されず、次々と切り替わる舞台

 *端整な文体が醸し出す落ち着いた趣

 詩情豊かなプロローグで魅了する。告白や手記を小出しにして焦らす。そうした演出をあざとく感じさせることなく、“稀代の語り部”ゴダードは、じわりじわりと読者を物語に引きこんでいきます。

 作者が“語り“の名手なら、登場人物たちは“騙り“の名手です。嘘をついたり、正体を偽ったりする人間がどの作品にも少なからず出てきますが、そのだれもが邪悪な意図を持っているとはかぎらず、白が黒に、はたまた黒が白にひっくり返るという展開も多々あります。

 ただし、ゴダードの繰り出すツイストは、思わず膝を打ちたくなるような“気持ちよくだまされた”系のどんでん返しとはひと味ちがいます。「もしかしたら実はこうなんじゃないかな……」と、もやもや推測していた事実が、意外な人物や証拠によって、絶妙のタイミングで明かされる——その鮮やかさに読者はしびれるのです。

 前置きが長くなりました。このへんで、個々の作品紹介にまいりましょう。

 まずは代表作『千尋の闇』から。処女作でありながら円熟味さえ漂う、ゴダードの持ち味すべてが凝縮された力作です。

 20世紀初頭に不可解な形で失脚し、最愛の女性からも拒絶された青年政治家ストラフォード——その転落にまつわる調査を引き受けた元歴史教師のマーチンは、同情を禁じえない真相のみならず、現在までつづく根深い憎しみをもあぶり出すことに……

 チャーチルやロイド・ジョージもその一員だった当時の閣内の駆け引きや、障害多き純愛の軌跡を記したストラフォードの回顧録は、真に迫った克明さで吸引力満点。一方で、マーチンと妖艶な歴史研究員イヴとの官能的なラブシーンも忘れがたく、硬軟両面でぞくぞくさせられることまちがいなしです。

 ただ、ゴダードを初めて読むかたには、ずば抜けて内容が濃密な『千尋の闇』よりも、中期の名篇『惜別の賦』をおすすめします。

 主人公クリスは、長らく別の人生を歩んできた幼なじみのニッキーと再会する。だがニッキーは、34年前にクリスの大伯父を殺害したかどで死刑となった父親の無実を訴えた直後、命を絶った。クリスはやるせない思いで、目をそむけつづけてきた過去の事件を探りはじめるが……

 ゴダード作品のプロットはしばしば“迷宮”に喩えられますが、ふたつの家族の命運に焦点を絞ったこの作品は、わりに構造がシンプルで、ミステリーとしての安定感としっとりした文芸色を兼ね備えています。要は、ゴダード・テイストがいい塩梅で詰まった、お味見に最適の一冊なのです。

『惜別の賦』でオーソドックスな風味を味わったあとは、ちょっとスパイスのきいた『一瞬の光のなかで』などいかがでしょう。

 ウィーンの雪景色のなかにたたずむ赤いコートの女。その姿を写真におさめた瞬間から、カメラマンのイアンは見えない罠にはまりこんでいく。イアンを虜にし、家族を捨てる決意までさせたすえに姿を消したその女は何者なのか……

 よくある“悪女もの”のサスペンスかと思いきや、写真術草創期を生きたある女性のエピソードが、いつしか時間の枠を超え、ストーリーの中核にはいりこんできます。カメラワークを思わせる作者の技巧によって、過去と現在を行き来する感覚が癖になる逸品です。

 ゴダードお得意の哀切な語り口を堪能したいかたは、『さよならは言わないで』をどうぞ。

 農園主の屋敷の設計を請け負った新進建築家のジェフリーは、建て主の妻コンスエラと恋に落ち、不幸な結婚生活から彼女を救い出すことを約束するが、建築家としての夢を捨てきれず、土壇場で決意を翻した。12年後、ジェフリーは、コンスエラが殺人容疑で逮捕されたことを知り、彼女の潔白を信じて真犯人究明に乗り出すが……

 失意と悔恨の日々を経て、過去の不実を贖おうとする男の胸中が綴られた、悲恋の物語です。建築にも造詣が深いらしいゴダードは、英国伝統の古めかしい館や、特徴あるモダンな邸宅を多くの作品に登場させてきました。この作品でも、主な舞台となる瀟洒な屋敷が、主人公の自負と野心の残映として存在感を放っています。

 もう一作、現在入手困難ですがご紹介せずにはおけないのが、『千尋の闇』に劣らず人気が高く、際立ってドラマチックな『リオノーラの肖像』です。

 70歳のリオノーラは、自身の数奇な生い立ちを初めて娘に語り聞かせる。第一次大戦の激戦地で没した父親のこと、自分を産んだ直後に亡くなった母親のこと、古い貴族の館で虐げられて過ごした少女時代のこと、そして母の存命中にその館で起こった殺人事件のこと——彼女が生涯を費やしてようやく知りえた幾多の謎の全貌とは……?

 第一次大戦がもたらした悲劇を、大河小説さながらの重厚な調子で描いた作品。抑えた筆致のなかにも、戦争に対する静かな憤りが感じられます。埋もれさせては惜しい名作なので、復刊されることを願っています。

 さて、多様な単発作品を生み出してきたゴダードですが、シリーズものも発表しています。これが、16年間で3作というなんとも悠長なペースで書かれ、53歳で初登場した主人公もその年数分きっちり歳をとっているという、珍しいシリーズなのです。やさぐれ者でも芯は頼もしいオジサン(“ダメ男にも骨はある”という帯コピーは名作!)、ハリー・バーネットの魅力で読ませる、ゴダードにしてはストレートな筋立ての作品群です。

 第3作『還らざる日々』では、70歳間近となったハリーが、50年前の空軍在籍時代に端を発する事件に巻きこまれ、腐れ縁の悪友バリーとともに窮地を脱するべく奮闘します。ふたりの笑えるやりとりと、老齢ゆえにすぐ息切れしてしまう緩さが心地よい異色作。前2作(『蒼穹のかなたへ』『日輪の果て』)は入手困難ですが、この本の巻末に、拙文ながらシリーズ全般の解説を寄せておりますので、機会があればぜひご一読を。

 最後に、近刊のご案内を少し。

 邦訳最新作『封印された系譜』は、主人公が余命少ない親友の冒険に付き合って北欧の都市を転々とする、紀行ミステリーと呼んでもいい作品になっています。ふたりの行く手には、スカンジナビアに企業帝国を築きつつある大物事業家の存在がちらつき、歴史上の謎もからんできます。今回扱われた史実は、ロマノフ王朝の終焉。“皇女アナスタシア”や“皇帝の消えた遺産”などのキーワードは、だれしも耳にされたことがあるでしょう。北欧ミステリーがすっかりお馴染みとなった昨今ですが、イギリス人の見た北欧とロシアを描いた本作にもご注目ください。

 さらに、初期のスタイルが復活したと評判で、『惜別の賦』以来のエドガー賞候補(最優秀ペイパーバック・オリジナル部門でのノミネート)になっている次作 Long Time Coming も、講談社文庫からの刊行が決定しています。そちらもお楽しみに。

 というわけで、これまでにゴダード作品を手がけられたベテラン翻訳者のかたがたを差し置いて、近作二篇を担当しただけの私が、おこがましくも筆をとらせていただきました。全作品が訳出されていますので、興味を引かれる史実で選ぶもよし、写真や建築といったディテールで選ぶもよし、どうぞお気軽に手にとってみてください。豊潤なるゴダード・ワールドへようこそ!

 北田絵里子

北田絵里子(きただ えりこ)。

1969年生まれ。文芸翻訳者。訳書にゴダード『遠き面影』、ブルース・チャトウィン『ソングライン』など。「ミステリマガジン」誌で洋書紹介コラムをときどき執筆中。

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