「ああ、ジーヴス。ちょっといいかな?」

「はい、ご主人様」

「いま書いてるこの小論なんだが、できたら助言をもらえないかなあ」

 ペンを置き、ひたいを押さえながら、僕は言った。おそらくひどく途方に暮れた顔をしていたにちがいない。僕の顔を見て二ミリくらい眉を上げたジーヴスは、多忙な家事の手を止めて言った。

「ご言及のご論稿は、青年紳士バートラム・ウィルバーフォース・ウースター様にお仕え申し上げる紳士様お側付き紳士ジーヴスの活躍するジーヴス・シリーズをはじめ、第八代エムズワース伯爵しろしめすブランディングズ城に出来いたす人間模様を活写したブランディングズ城シリーズ、清流沿いのパブ《アングラーズ・レスト》に常在する雄弁家マリナー氏語る眷属郎党の物語マリナー氏シリーズ、決してゴルフをしないクラブハウスの『最長老メンバー』が語るゴルファーたちの血涙物語などなど、生涯に100冊に及ぶ著書を刊行し、二十世紀最大のユーモア作家との令名も高き、かの偉大なるサー・ペラム・グレンヴィル・ウッドハウス(1881‐1975)に関するものでございましょうか?」

「ああ、うん、そうなのか。はじめてのP・G・ウッドハウス、みたいな文章を書こうとしてるんだが、僕にはちょっと荷が重いみたいなんだ」僕は言った。

「さようなことはございません、ご主人様。あなた様のご怜悧なるご頭脳をもってかかられましたならば、いかなる難事といえどもいとも簡単容易に処理可能と拝察申し上げます。さらにご高論の説明力説得力またそのうちより馥郁とうかがい知られるあなた様のご人格のご高潔さ人間的ご魅力は、必ずやより一層の読者を惹きつけてやまぬことでございましょう」

 そう言ってもらって、いくらか気分がよくなった。とくにご怜悧なるご頭脳というあたりが気に入った。ジーヴスは何だってわかっている。心救われた思いで、僕は言った。

「ありがとう、ジーヴス。僕は心救われた思いがする。ではまず何から始めてもらったらいいと、君は思う?」

 ジーヴスは背筋をぴんと伸ばし、その顔を知性の光で照り輝かせながら言った。

「初学者の皆々様方には、『比類なきジーヴス』『それゆけ、ジーヴス』『でかした、ジーヴス!』をお勧め申し上げるのがよろしかろうと思料いたします。いずれも読み易き短編集でございますが、なかんずく、忘れがたきあなた様とわたくしとの出会いのエピソードの記されました「ジーヴス登場」、わたくしの語りによる異色作「バーティー考えを改める」など、わたくしには思い入れもひとしおなる名作が収録されました『それゆけ、ジーヴス』を、僭越ながらわたくしは一番に推したく存じます」

「うーん、僕は短編集よりむしろ長編のほうを勧めたいように思うんだな」僕は言った。「短編集だと僕が君に一本取られておしまいっていうエピソードがあんまりにも多すぎるだろう。はじめての読者の皆さんに僕について誤った印象を与えるおそれがあるんじゃないかって思うんだ。君が気に入らないからっていって好きな背広を着せてもらえなかったり、素敵なネクタイや帽子や靴下を取り上げられたりする話をこれでもかこれでもかって繰り返し読まされたら、はじめての読者の皆さんはどうなる? 僕が君に抑圧されている、掌の上で転がされているというような、そういう誤った偏見を持たれるのではないだろうか。そういうことでは困る、と、僕は思うんだ」

「ご懸念もごもっともと存じます、ご主人様」ジーヴスは言った。「しかしながら、ごくごく実際的・技術的な観点より申しますならば、短編には短いという一事において通読しやすさの点で大部の長編に長ずるところがございます。長編一般というものは読了までに一定程度の忍耐力、集中力を要するものでございますがゆえに、初学者の皆様にはいささか読みにくきものであろうかと拝察いたします。また、さような小事はさておくといたしましても…」ひとつ息をついて、彼は言った。「長編作品におきましてあなた様のご遭遇あそばされるご困難の規模および数はあまりに大きく、あなた様がご苦難の網に幾重にも絡めとられ陥るご窮状はあまりにも痛々しく痛ましく、初学者各位にご高覧いただくにはいささか刺激過剰と拝察いたしますゆえ、わたくしといたしましてはひとまず『それゆけ、ジーヴス』をお勧め申し上げるがよろしかろうとの管見を、あえて申し上げるものでございます」

「だけど」僕は言った。彼はぜんぜんわかってない、と僕には思えたのだ。いくらか不穏な心持ちにて、僕は言った。「どんな窮境にあったってバートラムはあごをぐいと上げ、押し寄せる苦難に雄々しく立ち向かうプリュー・シュバリエっていうか勇敢な騎士でいるってことを忘れてもらっては困るな。ウースター家の者は健闘むなしく倒れゆくときだって、きっと前を向いて死んでいく。その雄々しい姿は必ずや読者の胸を強く打たずにはいられないんだ」

「おおせのとおりでございます、ご主人様」と彼は同意した。「あなた様のお心ばえの美しさご覚悟の貴さ潔さにつきましては、人皆一様に同意するところと拝察いたします。またあなた様の陥られるご窮境が、ご友人を難事よりお救いされんとする麗しきご友情、ご婦人よりのご結婚の申し出に決して非礼にて報いることなき騎士道精神に起因するところであるとは、よくよく承知いたすところでございます。しかしながら万事物事には時宜を得るということの利がございますことを、ご賢察いただきたく存じます」彼は言った。

「あなた様におかれましては、前述作品集三冊より珠玉短編を編纂いたしました『ジーヴズの事件簿』が文藝春秋社より刊行中であり、またたまたま折よくこのたび同書が文春文庫より二分冊にて『才智縦横の巻』『大胆不敵の巻』として刊行されたばかりであることをあるいはお聞き及びであらせられましょうか」彼は言った。

「ああ、知っている」僕は言った。

「さようならば、初学者の皆々様のご学習のご便宜に、携行便利価格(2011/08/23 08:13時点)安価な文庫刊行はおおいに寿ぐべきこととの愚見には、ご同意をいただけようかと存じます。何よりもまず大ウッドハウス作品をお読みいただくことが肝要であるという、ウッドハウス布教の大義をご考慮いただきましたならば、文庫刊行を慶事といたしまして、まず短編より始めよと、読書人各位に訴えることに一理あるとはご同意いただけましょう」

 ふむ、聞くべきところは多い。

「なお文春文庫版にも先に述べました二短編は収録されておりますことを、僭越ながら申し添えさせていただきます」ジーヴスはこの話がだいぶお気に入りらしい。

「ああ、そうなのか」僕は言った。

「上記三冊を推薦いたす理由はそれのみではございません、ご主人様」威儀を整えて、彼は言った。「『比類なきジーヴス』『それゆけ、ジーヴス』につきましては、繊細精妙な描画も麗しき勝田文氏による漫画化作品『プリーズ、ジーヴス』が、白泉社『メロディ』誌上にて大好評連載中でございます。すでにコミックス2冊が上梓されていることはまことによろこばしきことでございます。また『でかした、ジーヴス』所収の諸作品も、おいおい漫画化され世に問われる日は近かろうかと愚考いたします。とりわけ初学者の皆様のご学習のご便宜には、かような漫画メディアご活用はごく有用とはご理解いただけましょう。また漫画とあわせてこれら短編集をお読みいただけましたならば、作品の興趣も一層増すことと拝察いたします」

「ああ、漫画は読みやすいから僕も好きだな」

「とは申せ、読みやすさ便宜のみを強調いたすは勝田作品に対しはなはだ公平を欠いたる態度と思料いたします。『プリーズ、ジーヴス』が、大ウッドハウス作品のたんなるヴィジュアル化にとどまらず、漫画という表現媒体における一個の作品としてきわめてすぐれたものであることは言を俟たぬところでございますし、またそのことはウッドハウス布教の大義にとりましてもきわめて幸運なことであると理解いたしております。漫画化にあたりまして勝田文氏を描き手に得られましたことは、ウッドハウス作品群にとりましてもきわめつけの幸運であったと、あえて申し上げるところでございます」

「うん、僕も漫画の僕の顔は気に入ってるんだ」

「ご同慶の至りと存じます、ご主人様。なお『プリーズ、ジーヴス』第2巻におきましても、先述いたしました2短編は収録されておりますことを、僭越ながら申し添えさせていただきます」

「君はずいぶんとその話が好きなようだな。まあいい、ジーヴス。君がうれしいなら僕もうれしいんだ」

「ありがとうございます、ご主人様。あなた様はまことに金のハートをお持ちでいらっしゃいますゆえ」

「ありがとう、ジーヴス。そう言ってもらえるとうれしいが、そのセリフはどこかで聞いたような気がするなあ。『サンキュー、ジーヴス』だったっけか。君が僕の寝室にポーリーンを送りつけてよこした時、君は僕のことを精神的には取るに足らないと断ったうえで、彼女にそう請け合ってくれたんだった」

「その節の非礼につきましては、ご寛恕をいただきたく存じます。あの折、麗しきポーリーン・ストーカーお嬢様におかれましては、「バーティー、あなたには、何ていうか、頭のくるくるしたアヒルちゃんみたいな可愛らしさがあるのよ」と、あなた様のご人品お人柄を評されまして、いみじくもおおせあそばされたところでございました。ご寛恕を願います、ご主人様。ただいまの論評は原文ママにて、お嬢様の申されたところを忠実にお伝え申し上げたまでにございます」

「いいんだ。ぜんぜんオッケーと思ってもらっていい。で、せっかく長編の話が出たところでだが」勢いづいて僕は言った。「むろん『サンキュー、ジーヴス』もいいんだが、僕としてはわがウースター家の名の冠された名作『ウースター家の掟』をどうしても勧めたいんだ」

ようやく思うところを主張できる機会が来て、僕はうれしかった。「だいたいがこのシリーズは、何から何まで『なんとか、ジーヴス』やら「ジーヴスとなんとか」ばかりでいけない。僕にだってどれがどれだかわからなくなってきちゃったくらいなんだ。だが唯一この『ウースター家の掟』だけは間違えようがないし、しかもたいそうな名作だ。僕としてはどうしてもこれを一番に勧めたい」

「しかしながら、ご主人様」ジーヴスが言った。

「君は今、しかしながらと言ったか?」僕の言葉にはいくらか棘が含まれていたかもしれない。「君は僕の発言に異を唱えようとしていると、そう理解していいのかな?」

「僭越ながら愚見を披歴申し上げますことに、ご寛恕をいただきたく存じます」すっくりと身を起こし、ジーヴスが言った。「なるほど『ウースター家の掟』は名作の誉れ高き作品ではございます。十重二十重に巡らされたご困難の迷宮をあなた様がくぐり抜けられる様は、聳え立つ大伽藍を望む思いにて読む者を圧倒してやまず、また同作にて猛犬に追われあなた様と共に衣装箪笥の上に飛び乗りました折の屈辱の思いは今もわたくしの記憶に青々と留まるところではございます。しかしながら『ウースター家の掟』は同作を讃えて言うべきところのいかに多かろうとも、名作『よしきた、ジーヴス』の続編に位置するものでございますがゆえに、本作品を真実の意味において深く理解し共感するためには、これまたウッドハウス最高傑作との名も高き『よしきた、ジーヴス』をあらかじめ読了する必要があろうかと思料いたすところでございます」

「うーん、そうかもしれない。順番は大切だな」ジーヴスの意見をあっさり認めて、僕は言った。「それに僕は『よしきた、ジーヴス』も大好きなんだ。僕がはじめて読んだエラリー・クイーンは『レーン最後の事件』で、はじめて読んだ久生十蘭は『肌色の月』だった。更に言うなら僕が最初に読んだアルセーヌ・ルパンは『ピラミッドの秘密』だ。これからウッドハウスをはじめて読もうという幸福な読者の皆さんには、たくさんあるウッドハウス作品たちと、できるだけ幸福な出会い方をしてもらいたいものだからなあ」

「おおせのとおりでございます、ご主人様」ジーヴスが言った。「またできるかぎり長く幸福なおつきあいをしていただきたいと、心底より願ってやまぬところでございます。長らく名のみ高く目にすることの難しかった大ウッドハウスでございますが、ただいま国書刊行会刊行の〈ジーヴス・シリーズ〉は全14冊中すでに13冊が訳出され、全巻完訳まであと一冊を残すのみとなっております。また同じく国書刊行会よりは〈ウッドハウス・スペシャル〉として、ブランディングズ城シリーズの長編二作『ブランディングズ城の夏の稲妻』ならびに『ブランディングズ城は荒れ模様』が訳出されておりますことも、大ウッドハウス長編作品を高くご評価あそばされるあなた様のような愛好家の皆様には、とりわけ意義深きことでございましょう」

「ああ、僕はブタの出る本は好きだ。もっと読みたいな」

「なお同〈スペシャル〉よりは、ドローンズ・クラブもの、ユークリッジ・シリーズなどよりえりすぐりの短編をアソートいたしました『エッグ氏、ビーン氏、クランペット氏』も刊行されておりますことを申し添えさせていただきます。またこれらのシリーズにつきましては文藝春秋社よりP・G・ウッドハウス選集として短編集『エムズワース卿の受難録』『マリナー氏の冒険譚』『ユークリッジの商売道』が刊行されておりますし、文春文庫より最新刊『ドローンズ・クラブの英傑伝』も先日刊行されたばかりでございます」感慨深げに、ジーヴスは言った。

「思えばごく近年まで、ウッドハウスは読みたくとも読めない作家でございました。あれがよしこれがよしと議論できる今日の幸福を、わたくしはしみじみと噛みしめたく存じます」

「ああ、ほんとだ」僕は言った。「こんなにも沢山ウッドハウスが読めるだなんて、いい世の中になったものだなあ」

「まことに、宇宙的観点より見たならば、ウッドハウスの読める世界と読めない世界では前者の優越性は明らかでございます、ご主人様」

「もっともっとウッドハウス本が増えて、もっともっといい世の中になるといいな。僕は世界平和を希求してやまないものだ。ありがとう、ジーヴス。この文章も、なんだか書けそうな気がしてきた。何か飲み物を持ってきてくれるかな、ジーヴス」

「ウイスキー・アンド・ソーダをお持ちいたしましょう、ご主人様」

「いや、濃い紅茶を頼む。頭をはっきりさせて一気呵成に仕上げてしまいたいんだ。うんと濃い紅茶を持ってきてくれないか、ジーヴス」

「かしこまりました、ご主人様」

森村たまき(もりむら たまき)1964生まれ。中央大学法学研究科博士後期課程修了、刑事法専攻。国書刊行会より〈ウッドハウス・コレクション〉〈ウッドハウス・スペシャル〉刊行中。ジーヴス・シリーズ最終巻『ジーヴスとねこさらい』が年内刊行予定です。

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