先日久しぶりに映画〈ザ・クライアント 依頼人〉を(途中から)見て、いまは亡きブラッド・レンフロ演じる少年マークの活躍に(途中からだけど)手に汗を握りました。

 原作はいわずと知れたジョン・グリシャム。1991年の第二長篇『法律事務所』で一躍世界的なベストセラー作家としての地位を確立、以来——今秋発売予定の最新作をふくめて——25作の長篇を発表(*)、それ以外にも短篇集とノンフィクションが各1冊あり、いずれもが英米のみならず全世界で記録的なベストセラーになっています。

(*)そのうち2冊はジュブナイル。

 グリシャムは、“リーガル・サスペンス”という新たなジャンルを切りひらいたことで知られています。グリシャム以前にも法律の世界に題材をとったミステリやエンタテインメントは数多くありましたが、その多くは法廷での丁々発止の論戦を山場にした“裁判小説”“法廷ドラマ”でした。しかしグリシャムは法廷ドラマにとどまらず、“訴訟社会”アメリカで法律とかかわらざるをえない人々にフォーカスをあわせました。そのうえで容易に感情移入できる登場人物を、身近な、しかしスリリングな危機的局面にいきなり投げこみ、途中下車のできないジェットコースターをスタートさせる“グリシャム・マジック”と呼ばれるスタイルで多くの読者をとりこにしたのです。

 そんな特質がもっともよくあらわれている作品が、前述『依頼人』(1993)です。マフィア弁護士の自殺を偶然目撃、しかも直前に弁護士の口から恐るべき秘密をきいてしまった少年マーク。マフィアからも、上院議員殺害事件の解決を焦るFBIから追われる身となった11歳の少年は、全財産の1ドルで弁護士を雇い、自分と母親と幼い弟の命を守るための戦いに飛びこんでいく……。向こうっ気が強くて、したたか、けなげな主人公マークも、マークが頼る女性弁護士レジーも、そしてかたき役である連邦検事ロイもいい味を出しています。

 なにより、主人公と同年代の少年少女にぜひとも読んでほしい作品です。

『依頼人』のつぎにグリシャムは大作『処刑室』(1994)を発表、大きな話題になりました。1960年代末、クー・クラックス・クランの一員として、公民権運動に肩入れしているユダヤ人弁護士の事務所に爆弾を仕掛け、弁護士の幼い息子を殺した罪で死刑判決を受けたサム。事件後20年、あらゆる上訴の手段もつきて執行日が4カ月後に迫ったころ、アダムという26歳の若い弁護士がサムの弁護を申し出ます。アダムはサムの実の孫でした。アダムは歴史の暗部にわけいって事件や裁判の経緯調査を進める一方で、死刑をめぐる複雑きわまる司法制度に果敢に挑んでいきます。読みごたえという点ではグリシャム作品中ピカ一。先日惜しまれつつ世を去った児玉清氏はこの作品を原書でいち早く読み、「心からなる感動と満足を味わったのであった。途中何度目頭を熱くし涙したことか!! グリシャムの小説で泣いたのは初めてのことであった」と評しました(新潮社〈波〉1994年8月号)。

 この作品ののち、グリシャムは現代アメリカのかかえる種々の問題をエンタテインメント作品のかたちでとりあげていきます。保険会社(『原告側弁護人』1995)、陪審制度とタバコ訴訟問題(『陪審評決』1996——映画化〈ニューオーリンズ・トライアル〉では銃器の製造物責任訴訟に置きかえられています)、ホームレス問題(『路上の弁護士』1998)、製造物責任訴訟や巨額の損害賠償金問題(『甘い薬害』2003)などです。

 どれもスリリングな読書を約束してくれますが、卑見ではグリシャムの“南部”作家としての顔が出ている作品にこそ、秀作があると思えます。

 その1冊が『最後の陪審員』(2004)。発表当時まったく売れなかった(しかし、その後大ベストセラーになった)処女長篇『評決のとき』(1989)とおなじミシシッピ州架空の郡、フォード郡のクラントンが舞台です。メインのストーリーは、凄惨な強姦殺人事件の判決後9年たってから発生した当時の陪審員たちの連続殺人事件。主人公は、ひょんなことから大学卒業後すぐに街の新聞のオーナーになった青年です。グリシャムの主眼は、しかし連続殺人事件の真相解明ではなく、むしろ印象的なエピソードをいくつも積み重ねて、この青年の成長と南部のありふれたスモールタウンの時代による変化を重ねあわせて描くことにあります。『評決のとき』が衝撃的な事件とその裁判を迎えたスモールタウンの現況を横に広がるパノラマとして描いた作品だとするなら、『最後の陪審員』はおなじスモールタウンの変化を時間軸に沿って縦に描いたパノラマだといえます。

 それはともかく、この作品に登場する元陪審員のカリア——南部黒人の“肝ったま母さん”の典型——が作中でつくる南部料理がじつにおいしそうなのです。主人公の若者は、この女性と知りあったことで、いくつもの人生における大事なことを学んでいきますが、そのひとつが南部の食文化のすばらしさでした。

 南部が舞台のグリシャム作品のなかでも屈指のすばらしさを誇るのが、ひとりの弁護士も出てこないノン・サスペンスの『ペインテッド・ハウス』(2001)でしょう。1950年代のアーカンソー州(そう、作家の生まれ故郷です)の小作農家が過ごすひと夏を、7歳の少年ルークの視点で丁寧に描いた秀作です。ちなみに題名の“ペンキを塗られた家”とは、ペンキも塗られていない家に住む一家にとっての豊かな暮らしの象徴です。

 そんな話、おもしろいの? 最初にシノプシスだけをきいた筆者もそうでした。しかし、その予想は喜ばしくもあっけなく、徹底的にひっくりかえされました。綿花栽培の過酷さ、季節労働者たちのうけいれ、家族の絆と微妙な不協和音、町での喧嘩沙汰、淡い初恋、そして周囲の人がルークに打ち明ける秘密の数々。灼熱の太陽、南部の赤土のにおい、綿花畑を吹きわたる風、恐ろしい洪水で牙をむく川などなど、読み手をその土地に連れていってくれるような自然描写もあいまって、一読忘れがたい作品になっています。

 なお文庫版には児玉清氏のすばらしい解説もついています。ぜひともご一読を。

 そんなふうにリーガル・サスペンス以外でもすぐれた書き手であることを立証したグリシャムですが、おりおりに本領に立ちかえります。その分野での近年の収穫は『謀略法廷』(2008)でしょうか。深刻な環境汚染で公害病を引き起こした大企業。物語は、その企業が訴訟で巨額の損害賠償金を科されるシーンから幕をあけます。住人たちも、私財をなげうってまで正義を貫こうとした彼らの代理人である弁護士夫妻も喜び、安堵します。しかし、裁判に負けた大企業側はすぐさま反撃に転じて……と、おはなしの紹介はここまで。ここから先は、解説の杉江松恋氏が、「(読者は)さながらダンテの『神曲』に詠われた地獄界を旅してきたような心境に達しているだろう」と評した意想外につぐ意想外の展開ののち、賛否両論まっぷたつにわかれた結末にいたります。そこは、長年アメリカの法曹界や社会全体を鋭い目で見すえてきたこの作家の、ひとつの到達点かもしれません。

 グリシャムは作家活動のかたわら、無実の罪で死刑判決を受けた死刑囚たちを(DNA鑑定などを通じて)救済する活動にも力を入れています。その活動のひとつの成果が、ノンフィクション『無実』(2006)でしたが、フィクションの面では2010年に『自白』(仮題)The Confession を刊行しました。『処刑室』から15年、ふたたび死刑制度と冤罪の恐怖を見すえたサスペンスです。この作品は新潮社より刊行が予定されています。

 もうひとつの話題は、『自白』をはさんで2010年にグリシャムが初めてヤングアダルトむけのシリーズ作品を2作つづけて刊行したことです。両親がともに弁護士という家庭で習い覚えた法律知識で、日ごろからクラスメイトや近所の人たちの悩みを解決する13歳の少年弁護士シオドア(セオ)・ブーンが、いよいよほんものの殺人事件を舞台に大活躍する胸のすくような読物です。

 うれしいことにその第1作の邦訳が『なぞの目撃者—少年弁護士セオの事件簿1—』として、岩崎書店から9月15日に刊行されます。翻訳は児童文学やヤングアダルト小説の作家として人気の石崎洋司氏、装丁は浅野隆広氏です。またシリーズ2冊めの『誘拐ゲーム』も、今年11月刊行予定とのこと。“訴訟社会”アメリカの迷路を、愛用の自転車で軽やかに駆けぬける少年弁護士セオの物語が、ひとりでも多くの日本の同年代の読者にとどきますように。

 また岩崎書店作成の【少年弁護士セオの事件簿 特設サイト】では、作者や訳者からのメッセージにくわえて、アメリカの裁判所の仕組みのわかりやすい解説や「おもしろ法律」についてのコラムなど、本書を何倍も楽しむための情報が満載。以下のバナーからぜひともアクセスしてみてください。

●岩崎書店『少年弁護士セオの事件簿』特設サイト

●MSN産経ニュース掲載の本書書評→ 裁判という「争い」の魅力〔評・宝田茂樹(文化部)〕

白石 朗(しらいしろう)1959年の亥年生まれ。進行する老眼に鞭打って、いまなおワープロソフト「松」でキング、グリシャム、デミル等の作品を翻訳。最新訳書はキング『アンダー・ザ・ドーム』。ツイッターアカウント@R_SRIS

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