出会いから翻訳者としての関わりまですべて省くが、私にとってウィリアム・アイリッシュという作家はまるで遠い親戚のような存在、意識せずとも心の隅にいつも引っかかっているのだが、おおかたにとっては過去の作家、このコーナーで取り上げられるのがいかにも唐突に感じられることだろう。こんな機会が訪れたのは、今年9月に創元推理文庫のフェアで『ニューヨーク・ブルース』が復刊されたおかげなのだが、そのことを改めてお伝えすることさえできれば、この稿の目的はほとんど達したようなものだ。というのも、一人でも多くの方にぜひとも読んでいただきたいと心から願うアイリッシュの小説はただ一つ、その短篇集におさめられている「さらばニューヨーク」、原題 Goodbye, New York だからだ。
アイリッシュは、そもそもは文学の世界での栄光を追いもとめていた作家で、パルプマガジンを舞台にミステリを書きはじめるようになったあとも未練たっぷり、その夢を捨てきれずにいた。彼が最後にもう一度とばかり〈ストーリー〉という文芸誌のために書きあげた短篇、それが「さらばニューヨーク」だ。パルプマガジン的な技巧のすべてを自覚的にそぎ落として書かれた、ほとんど何も起こらないともいえるこの物語のなかに、アイリッシュという作家のすべてがあるように思う。もちろん、ミステリという物差しではかっても抜群の出来映え。
この短篇には、実は創元推理文庫の村上博基訳のほかにも素晴らしい翻訳が存在する。そこで、次にお薦めするのも同じ「さらば、ニューヨーク」(こちらは稲葉明雄訳、タイトルに句読点がついている)。まったく異なる文体の、それでいてどちらも優れた二つの翻訳を読みくらべると、この傑作の輝きがいっそう増してみえる。そして一つの小説を異なる者が訳せばまったく別の作品が生まれるという、あたりまえのことが実感できて嬉しくなる。古い話になるが、晶文社から刊行された短篇集『さらばニューヨーク』は、当時中学生だった私の目にはすべてが洗練された“大人の”本に映った。そしてこの一冊で、稲葉明雄は私にとってあこがれの翻訳家になったのだ。
アイリッシュという作家を知らない相手に説明するとき、ヒッチコックの映画「裏窓」の原作者と言えばうまい具合に話の枕になったものだが、今ではそんな紹介のしかたも通じなくなっているだろうか。ともあれ、かつて〈ヒッチコック・フェスティバル〉と銘打たれてヒッチコックの代表作のいくつかがリバイバル公開されたときのことだ。新宿の映画館で「裏窓」を観おえて混み合ったロビーに出ると、若い白人男性が公衆電話で誰かに感想を伝えている。映画がよほど気に入ったのか、頬を上気させてひとしきり褒め言葉をつらねたあと、最後に「シンプル。ベリー・シンプル」とくり返した、その言葉の響きが今でも忘れられない。原作である短篇もシンプルの極み。
アイリッシュは長篇と短篇、どちらが得意だったのか。その答はよくわからないけれど、長篇の方が本気度が高いのは間違いない。そのせいかいつも余計な力が入っていて、小説としていびつなところも少なくないが、むしろそこに味がある。長篇からお薦めを選ぶなら『暁の死線』。甘ったるく、脇があまくて、突っ込みどころもたっぷりあるが、いつまでも古びない古さとでもいうべき雰囲気が心地よい。これほどに浮世離れした物語の中にするりと入り込んでいる翻訳は、何度読んでも舌を巻くほどのうまさ。
最後はたぶんアイリッシュの作品のなかで最も有名で、今さらお薦めしなくていいかもしれない『幻の女』。この小説で何より印象的な、幻の女がかぶっていた“カボチャの帽子”の元ネタについて書いておきたい。実はこの小説には、キワモノめいたアイデアが使われている。当時アメリカでブームを巻き起こしていたブラジルの歌姫、カルメン・ミランダの人気に便乗して、彼女とそっくりの歌手を登場させているのだ。彼女のトレードマークは、フルーツをかたどったカラフルで奇抜な帽子。当時のアメリカの読者は、誰もがカルメン・ミランダを思い浮かべながらこの小説を読んでいたはずだ。遠い日本で翻訳され、そうした先入観なしで受け入れられてオールタイム・ベストにまで選ばれたのは、この小説にとって幸せなことだったと思う。たとえば YouTube で「Carmen Miranda」と検索し、動画を眺めながら読んで(あるいは読み返して)いただくと、『幻の女』の違った姿も見えてくるかもしれない。
*ウィリアム・アイリッシュというのはペンネームで本名はコーネル・ウールリッチ、そちらの名義で発表された作品の方が圧倒的に多いのだが(特に短篇)、お薦めしたい本がすべてアイリッシュ名義ゆえ、「アイリッシュ」という名前を使って紹介させていただいた。
門野 集(かどの しゅう) |
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◇主な訳書/コーネル・ウールリッチ『コーネル・ウールリッチ傑作短篇集1−5』、フランシス・ネヴィンズJr.『コーネル・ウールリッチの生涯』など。ツイッターアカウント @houtaiko |