田口俊樹
先日、拙宅から最寄駅まで歩いていたときのこと。
二、三歳の男の子が道の真ん中に坐り込んで駄々をこねていました。昼間の暑いさかりで、もう歩くのが嫌になっちゃったんですね。お母さんに抱っこをせがんでいます。
お母さんのほうはなんとか歩かせようと、なだめすかしています。一見ヤンキー風の茶髪の若いお母さんながら、なかなかどうして立派なもので、おだやかな声音でやさしく語りかけています。
こういうのは見ていて気持ちがいい。公衆の面前で親がわが子に声を荒げ、感情を剥き出しにしているというのはあんまりみっともいい図じゃありません。まあ、子供というのはおしなべて無教養なエゴの塊ですからね、キレそうになる気持ちもわかりますが。
とまれ、そんなところへ前方から犬を散歩させている人がやってきました。お母さん、その人のほうを指差して坊やに言いました。
「ほらほら、ワンワンもちゃんと歩いてるでしょ?」
いいですねえ。メルヘンですねえ。ますますほほえましい。
こっそり頬をゆるませながら、ふたりを追い越して脇を通り過ぎると、うしろからお母さんの声が聞こえてきました。
「ほらほら、おじさんだってちゃんと歩いてるでしょ?」
え、私のこと? 私、犬と同列なの? それに「だって」ってどういうことよ?
このことをあとで家人に話したら、「お爺さんと言われなかっただけよかったと思いなさい」などと諭されました。
娘に女児が生まれ、名実ともに爺になってひと月半。だから、家人の言うとおりではあるんですが。
でもなあ。爺さんかあ。
孫はやっぱり可愛いけれど、爺さんとだけは呼ばれたくないなあ。爺さんにならずに孫を持つ方法ってないもんですかね。親なんてなるもんじゃないよ、おれなんか子供ができたらそいつを親にしちゃうね、なんて落語があるけど、菜奈ちゃん(あ、孫の名です)をお祖母ちゃんって呼んだら、テンネンの娘もやっぱり怒るだろうなあ。
連日のクソ暑さに六十二歳の脳みそもとろける盛夏です。みなさん、ご自愛ください。
(たぐちとしき:ローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズ、バーニイ・ローデンバー・シリーズを手がける。趣味は競馬とパチンコ)
横山啓明
暑い毎日がつづいているけれど、
やっぱり夏が好き。
学校が終わり、長い夏休みに入った
ときのあの開放感、きっとそれがよみ
がえるのだと思う。うきうきしてしまう。
裏をかえせば、それだけ学校が
嫌いだったということになるのかな?
たしかに、小、中学校は好きじゃなかった。
特に中学校はわが暗黒の時代。髪が長いと
しょっちゅう怒られていたし(今、思うとちっとも長くない)、
暴力教師がいたし。教師の怒鳴り声を聞くだけで、
消耗した。
夏休みのあいだ、中学校には近寄らなかった。
映画を見に行ったり、本を読んだり、音楽聴いたり、
好きなことをしてすごしていた。ひとりで旅にも出た。
それがどういうわけか、すべて真っ青な夏の空の
思い出とつながっている。
だから、8月も半ばを過ぎ、夜に虫の音なんかが
聞こえてくると、ものすごく落ち込んだ。夏が行ってしまう。
また学校がはじまる……。
さて、いまだに夏になると心華やぐ、限りなく老人に近い
オヤジですが、今年の夏は浮かれていられない。
夏の終わりまで、蟄居の身となりそうです。ちゃんと
仕事してますぜ、担当編集者様。
(よこやまひろあき:AB型のふたご座。音楽を聴きながらのジョギングが日課。主な訳書:ペレケーノス『夜は終わらない』、ダニング『愛書家の死』ゾウハー『ベルリン・コンスピラシー』アントニィ『ベヴァリー・クラブ』ラフ『バッド・モンキーズ』など。ツイッターアカウント@maddisco)
鈴木恵
龍應台『台湾海峡一九四九』を読んでいるところ。日本の敗戦をきっかけとする内戦のさなか、広大な中国大陸を流浪して台湾にたどりついた「敗北者」たちを描いたノンフィクション。日本人が読むといたたまれない部分もあるけれど、いちばん面白かったのは、国民党軍の少年兵 → 捕虜 → 解放軍の少年兵という運命をたどった幼なじみの老人2人に、作者がインタビューしている個所。にわかには信じがたいような重い体験を話しているのに、息の合った2人の軽妙なやりとりは、もうそのままコントの台本にできそうなほど。
一方、奥野修司『ナツコ 沖縄密貿易の女王』は、敗戦後、米軍キャンプから盗んだ物資を船に積んでその台湾と密貿易を行っていた女性の波乱の生涯を描いたノンフィクション。こちらもむちゃくちゃ面白い。併せて読むと、時代が少しだけ立体的に見えてくるような気が。どちらもお薦めです。
(すずきめぐみ:文芸翻訳者・馬券研究家。最近の主な訳書:サリス『ドライヴ』 ウェイト『生、なお恐るべし』など。 最近の主な馬券:なし orz。ツイッターアカウント@FukigenM)
白石朗
つのだじろうといえば『うしろの百太郎』や『恐怖新聞』『空手バカ一代』あたりが代表作だろうが、昭和40年代の小学生のぼくにとっては『グリグリ』というギャグまんがの人だった。ボールのような体をもつハマグリのグリグリが、毎回ちがう舞台とちがう役柄で騒動を巻き起こす一話完結の連載ものだが、読んだのは一冊本。ぼろぼろになるまで耽読した。それなのにこれを書くためにウェブを調べるまでは、グリグリをハマグリではなくシジミだと思いこんでいた。当時の食卓にひんぱんにのぼったからだろうか。でもシジミの味噌汁、あのころ飲めなかったんだよなあ……好きなマンガの主人公に敬遠したい貝の名をあてはめるとはわが記憶の不思議なり。
あてにならない記憶でも、まだ記憶能力があってよかったなあと思ったのはSJ・ワトスンの『わたしが眠りにつく前に』を読んだせいだ。なにせ主人公の女性、毎朝目覚めるたびに、過去約20年間の記憶がきれいに消えたまっさらな状態に逆もどりするのです。前の日に自分の過去の謎を調べて手がかりを得ても、ひと晩寝れば元の木阿弥。こういった症例があるかどうかは知らないが、酒に酔って数時間分の記憶をなくして、不安なふつか酔いで目覚めた経験がある人なら、主人公の恐怖の数千分の一くらいは理解できるのではないだろうか。……というのは冗談にしても、この基本設定をとことんつきつめたり膨らませたりすることで作者はじつにサスペンスフルな物語を書きあげた。夏休みの旅行の移動中にもってこいの一冊。
(しらいしろう:1959年の亥年生まれ。進行する老眼に鞭打って、いまなおワープロソフト「松」でキング、グリシャム、デミル等の作品を翻訳。最新訳書はデミル『獅子の血戦』、ヒル『ホーンズ—角—』、キング『アンダー・ザ・ドーム』など。ツイッターアカウント@R_SRIS)
越前敏弥
読書探偵作文コンクールの準備、特にフライヤーや推薦書リスト作りが忙しくて(関係者の皆さん、ご協力感謝!)、最近読んだのは岸本佐知子編訳『居心地の悪い部屋』ぐらい。この短篇集、どの短篇もタイトルどおり、ほんとうに居心地の悪くなる粒ぞろいの作品をよくも集めたものだと感心するが、この本で何よりも居心地が悪いのは、しおりのひも(正式名称失念)の色だと思う。実際に手にとっていただきたいので、ここに何色かは記さないが、この色を選んだ人たちのセンスに脱帽。あえてこの色を選んだとしか思えない。読書中ずっと不気味さがつきまとう。すごいよ。むごいよ。
もちろん、これを作文コンクールの課題書にしようというたくましい中高生のかた、大歓迎です。ぜひ読んでください。
(えちぜんとしや:1961年生。おもな訳書に『解錠師』『夜の真義を』『Yの悲劇』『ダ・ヴィンチ・コード』など。趣味は映画館めぐり、ラーメン屋めぐり、マッサージ屋めぐり、スカートめくり[冗談、冗談]。ツイッターアカウント@t_echizen。公式ブログ「翻訳百景」 )
加賀山卓朗
翻訳ミステリーで新刊をいつも楽しみにしているシリーズがふたつある。ひとつはヘニング・マンケルのヴァランダーもので、これは毎年ベストテンの常連だから、ここで紹介するまでもないでしょう。
もうひとつは、C・J・ボックスの猟区管理官ジョー・ピケットを主人公とするシリーズ。最初の『沈黙の森』からノックアウトされた。なぜこんなに好きなのか、じつはよくわからない(^_^;。主人公に同情してしまう、家族の関係がリアルだ、ワイオミングの自然がすばらしい、などなど考えられるけれども、最新刊の『裁きの曠野』で、答えに近そうなものを見つけた。超弩級の豪雨のなか、ジョーが友人の鷹に餌をやりにいく。餌やりなどそんなときでなくてもかまわないし、馬鹿げているのはわかっている。「だが、約束は約束であり、守るのだ」。いまどきこうまでして約束を守る人、小説でもなかなかいませんよね。
(かがやまたくろう:ロバート・B・パーカー、デニス・ルヘイン、ジェイムズ・カルロス・ブレイク、ジョン・ル・カレなどを翻訳。運動は山歩きとテニス)
上條ひろみ
久しぶりの長屋です。みなさま、暑さに負けず、読書を楽しんでますか?
こう暑いと、趣味のお菓子作りも、最近はゼリーやババロアのようなオーブンを使わないものばかりになってきました。せまいキッチンでオーブンを使うと、クーラーと換気扇をフル稼働させても暑くて死にそうになるし、しばらく家じゅうに熱がこもって熱中症になりかねません。プロの厨房は空調がしっかりしているので、そんなことはないのでしょうが。
現在翻訳中のヴァージニア・ローウェルの〈クッキーと名推理〉シリーズ二作目は、夏の終わりという設定で、クッキーを焼くのも暑くてたいへんだろうと思ったら、一作目でヒロインのオリヴィアに思わぬ臨時収入があったため、厨房にエアコンを導入したもよう。舞台はメリーランド州ボルティモア付近で、夏はかなり暑くて湿度も高いようなので、エアコンなしでオーブン仕事をするのはつらいよね。
こういうときは寒い国のミステリーを読んで涼むのがいいですね。お勧めは吹雪のシーンがすさまじいヨハン・テオリンの『冬の灯台が語るとき』。極寒のアラスカで謎の古生物が発見されるリンカーン・チャイルドの『オーロラの魔獣』もハンパない寒さです。拙訳になりますが、ジョアン・フルークのハンナ・シリーズでは、『ブルーベリー・マフィンは復讐する』がお勧め。気温がマイナス二十を下まわることもあるミネソタ州の町で、犬ぞりレースや雪だるまコンテスト、凍った湖での穴釣り大会などがおこなわれます。
(かみじょうひろみ:神奈川県生まれ。ジョアン・フルークの〈お菓子探偵ハンナ・シリーズ〉(ヴィレッジブックス)、カレン・マキナニーの〈朝食のおいしいB&Bシリーズ〉(武田ランダムハウスジャパン)などを翻訳。趣味は読書とお菓子作り)