今回はやや趣向を変えて非英語圏のミステリー小説(日本の小説含む)が候補になり得る英語圏のミステリー賞を紹介しようと思ったのだが、それは次回にまわして、今回はまずその前提として日本のミステリー小説の英訳状況を紹介する。
2012年、東野圭吾の『容疑者Xの献身』がアメリカ探偵作家クラブ(MWA)のエドガー賞の候補になり日本でも大きく報道された。あまり知られていないかもしれないが『容疑者Xの献身』はほかにアメリカのバリー賞の候補にもなり、アメリカ図書館協会によりミステリー部門の年間最優秀作品に選出されたりもしている。また今年、中村文則の『掏摸(スリ)』がロサンゼルス・タイムズ文学賞のミステリー部門の候補になったことは記憶に新しい。
少しずつ英語圏における日本のミステリー小説の認知度が高まってきているようだが、それでは日本のミステリー小説はいったいどれぐらい英訳されているのだろうか。
◆『このミステリーがすごい!』ランクイン書籍の英訳状況
そもそも、日本のミステリーは海外でどれぐらい読まれているのだろうか。台湾、韓国では日本のミステリーが年間100タイトルほどのペースで翻訳出版されており、正確なデータはないが中国でも同じぐらいだと思われる。その次に多いのがタイで、横溝正史作品が大いに人気を博しているほか、最新の日本のミステリーも次々と翻訳出版されている。
一方で、欧米での翻訳出版は非常に少ない。本稿では特に英語圏での翻訳状況を見るが、たとえば『このミステリーがすごい!』 の刊行開始以来25年分のベスト10ランクイン書籍(約250冊)のうち英訳があるのは19冊である。
(※それぞれがどの作品の英訳か当ててみてください。答えは書影一覧のあと)
(※いくつかの作品は通常の表示にすると日本語原題が出てしまうので、書影のみの表示にしてあります)
- 佐々木譲『ベルリン飛行指令』 Zero Over Berlin
- 大沢在昌『新宿鮫』 Shinjuku Shark
- 宮部みゆき『魔術はささやく』 The Devil’s Whisper
- 大沢在昌『毒猿 新宿鮫II』 The Poison Ape
- 宮部みゆき『龍は眠る』 The Sleeping Dragon
- 宮部みゆき『火車』 All She Was Worth
- 京極夏彦『姑獲鳥の夏』 The Summer of the Ubume
- 瀬名秀明『パラサイト・イヴ』 Parasite Eve
- 桐野夏生『OUT』 Out
- 東野圭吾『秘密』 Naoko
- 高見広春『バトル・ロワイアル』 Battle Royale
- 船戸与一『虹の谷の五月』 May in the Valley of the Rainbow
- 乙一『GOTH リストカット事件』 Goth
- 桐野夏生『グロテスク』 Grotesque
- 芦辺拓『紅楼夢の殺人』 Murder in the Red Chamber
- 東野圭吾『容疑者Xの献身』 The Devotion of Suspect X
- 古川日出男『ベルカ、吠えないのか?』 Belka, Why Don’t You Bark?
- 伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』 Remote Control
- 綾辻行人『Another』 Another (英訳版は電子書籍のみの販売。日本のamazonにはデータが登録されていない)
これらの19冊は、ライトノベルの文脈で英訳出版された『GOTH』と『Another』を除くと、どれも日本側が動いて翻訳出版されたものだということにも注意する必要があるだろう。17冊中7冊は、日本の書籍をアメリカで翻訳出版するために酒井弘樹氏が設立したヴァーティカル社で出版されたもので、5冊は講談社インターナショナルで出版されたもの、ほかは日本の黒田藩プレス、小学館・集英社の関連会社であるビズメディア、文化庁の現代日本文学の翻訳・普及事業(JLPP)で翻訳出版されたものなどである。桐野夏生の『グロテスク』はそれらと違って英米の一般の出版社から出ているが、これも講談社が『OUT』の英訳版を出したからこそ刊行されたものだといえる。東野圭吾の『容疑者Xの献身』はアメリカでも有数の大手出版社からいきなり英訳版が出ており、これは日本ミステリー英訳史の中でも非常に例外的なできごとだが、これも日本の書籍の海外版権を長年取り扱ってきた栗田明子氏の働きかけで英訳出版が実現したものだった。
基本的に、日本の小説は日本側から動かないと英訳されない。日本語が英語圏においてマイナー言語である以上、この状況は今後も変わらないだろう。
◆『本格ミステリ・ベスト10』ランクイン書籍の英訳状況
同じように『本格ミステリ・ベスト10』についてチェックすると、ムック本として刊行されるようになった1998年版以降のベスト10ランクイン書籍約160冊中、英訳があるのは5冊である。(乙一『GOTH』、芦辺拓『紅楼夢の殺人』、東野圭吾『容疑者Xの献身』、綾辻行人『Another』【以上は『このミス』と重複】および、東野圭吾『聖女の救済』 Salvation of a Saint)
◆『東西ミステリーベスト100』ランクイン作品の英訳状況
昨年新版が出た『東西ミステリーベスト100』の国内編のランクイン作品を見ると、約100作(正確には102作)中、英訳があるのは18作品である。日本の名作の約5分の1が英語で読めると考えると、そんなに悲観するほど英訳が少ないわけでもないという気もする。なお、18位の東野圭吾『白夜行』の英訳版『Journey Under the Midnight Sun』は来年5月にイギリスで刊行予定。
- 3位 島田荘司『占星術殺人事件』 The Tokyo Zodiac Murders
- 5位 宮部みゆき『火車』 All She Was Worth
- 6位 松本清張『点と線』 Points and Lines
- 13位 東野圭吾『容疑者Xの献身』 The Devotion of Suspect X
- 23位 京極夏彦『姑獲鳥の夏』 The Summer of the Ubume
- 25位 松本清張 『砂の器』 Inspector Imanishi Investigates
- 32位 高木彬光『刺青殺人事件』 The Tattoo Murder Case
- 39位 横溝正史『犬神家の一族』 The Inugami Clan
- 42位 岡本綺堂『半七捕物帳』 The Curious Casebook of Inspector Hanshichi
- 43位 桐野夏生『OUT』 Out
- 45位 大沢在昌『毒猿 新宿鮫II』 The Poison Ape
- 65位 大沢在昌『新宿鮫』 Shinjuku Shark
- 85位 逢坂剛『カディスの赤い星』 The Red Star of Cadiz
- 87位 江戸川乱歩『パノラマ島奇談』 Strange Tale of Panorama Island
- 91位 佐々木譲『ベルリン飛行指令』 Zero Over Berlin
- 99位 宮部みゆき『龍は眠る』 The Sleeping Dragon
- 24位(短編)江戸川乱歩「二銭銅貨」 The Two-Sen Copper Coin
- 35位(中編)江戸川乱歩「陰獣」 Beast in the Shadows
江戸川乱歩「二銭銅貨」の英訳は2008年にハワイ大学出版から刊行された日本の短編小説のアンソロジー『Modanizumu: Modernist Fiction from Japan, 1913-1938』に収録。「陰獣」の英訳は長編『黒蜥蜴』との合本で黒田藩プレスから出ている。
◆日本推理作家協会賞受賞作の英訳状況
今度は日本のミステリー賞に着目して、受賞作がどれぐらい英訳されているのか見てみよう。日本推理作家協会賞受賞作の長編で英訳があるのは以下の6作である。
- 小松左京『日本沈没』 Japan Sinks または The Death of the Dragon
- 逢坂剛『カディスの赤い星』 The Red Star of Cadiz
- 大沢在昌『新宿鮫』 Shinjuku Shark
- 宮部みゆき『龍は眠る』 The Sleeping Dragon
- 桐野夏生『OUT』 Out
- 東野圭吾『秘密』 Naoko
日本推理作家協会賞は英語圏では「Mystery Writers of Japan Award」、「Mystery Writers of Japan, Inc. Prize」、「Japan Mystery Writers Award」、「Japan Mystery Writers Association Award」、「Grand Prix of the Mystery Writers of Japan」など様々に訳されている。ネイティブスピーカーにとってどれが一番座りがいいのかは分からないが、日本推理作家協会の英語名称の方は正式に「Mystery Writers of Japan, Inc.」(MWJ)と決まっている。これは1950年代、江戸川乱歩が海外の作家と文通する際に「Mystery Writers of America」(アメリカ探偵作家クラブ)にならって日本推理作家協会(当時は「探偵作家クラブ」)を「Mystery Writers of Japan」と書いたのが始まりで(『探偵作家クラブ会報』1952年9月号[64号]、11月号[66号])、1954年、探偵作家クラブが関西探偵作家クラブと合併して日本探偵作家クラブとなった際、クラブの英語名称として正式に採用された(『日本探偵作家クラブ会報』1954年10月号[89号])。さらにその後1990年代に再度検討され、「Mystery Writers of Japan, Inc.」が正式な英語名称となった(『日本推理作家協会会報』1996年6月号)。
ところで、近年の日本推理作家協会賞の受賞作のあらすじを英語圏にむけて英文で紹介しているBooks from Japan( http://www.booksfromjapan.jp/ )というサイトがあるのをご存じだろうか。これは昨年6月に日本のNPO法人日本文学出版交流センター(J’Litセンター)が開設したサイトで、英語圏の出版関係者にむけて日本の書籍を紹介することを目的としたものである。主に2000年以降に文学賞を受賞した小説のあらすじを英文で紹介しており、日本推理作家協会賞の紹介ページも作られている( http://www.booksfromjapan.jp/awards/item/676-mystery-writers-of-japan-award )。最近の受賞作である高野和明『ジェノサイド』や米澤穂信『折れた竜骨』、麻耶雄嵩『隻眼の少女』などのあらすじが英文で紹介されている。
なお、Books from Japanには『このミステリーがすごい!』の1位作品を紹介するページ( http://www.booksfromjapan.jp/awards/item/668-konomys-no1 )や、本格ミステリ大賞受賞作の紹介ページ( http://www.booksfromjapan.jp/awards/item/1374-honkaku-mystery-grand-prize )も作られている。
◆本格ミステリ大賞受賞作の英訳状況
本格ミステリ大賞受賞作で英訳があるのは乙一『GOTH リストカット事件』と東野圭吾『容疑者Xの献身』の2作。2012年の受賞作の皆川博子『開かせていただき光栄です』は後述の早川書房のプロジェクトで英訳される予定。
ちなみに本格ミステリ大賞を授与する本格ミステリ作家クラブの英語名称は「Honkaku Mystery Writers Club of Japan」(HMC)と正式に決まっているが、賞名の方は特に決められていない。ネット上を検索してみると、「Honkaku Mystery Grand Prize」、「Honkaku Mystery Prize」などと書かれることが多いようである。
◆江戸川乱歩賞などの公募新人賞受賞作の英訳状況
江戸川乱歩賞受賞作で英訳があるのは戸川昌子『大いなる幻影』(The Master Key)、高橋克彦『写楽殺人事件』(The Case of the Sharaku Murders)の2作。横溝正史ミステリ大賞、鮎川哲也賞、日本ミステリー文学大賞新人賞、『このミステリーがすごい!』大賞、ばらのまち福山ミステリー文学新人賞の受賞作で英訳されているものはない。
メフィスト賞受賞作で英訳があるのは西尾維新『クビキリサイクル』(Zaregoto: Book 1: The Kubikiri Cycle)のみ。
アガサ・クリスティー賞は第1回受賞作の森晶麿『黒猫の遊歩あるいは美学講義』と第2回受賞作の中里友香『カンパニュラの銀翼』が後述の早川書房のプロジェクトで英訳される予定。受賞作の英語圏進出を見据えて賞名をアガサ・クリスティーという英語圏でも目を引きそうな名前にしたのだろうか? ただ、アガサ・クリスティー賞はアメリカにもあるので紛らわしそうではある。
ゴールデン・エレファント賞は日本のエンターテインメント小説の公募新人賞だが、日本、アメリカ、中国、韓国の出版社の共催で始まった賞であり、大賞受賞作は翻訳版も刊行される。ミステリー関係では第1回大賞の荒井曜『慈しむ男』、第2回大賞の石川智健『グレイメン』が英訳されており、第3回大賞のシュウ・エジマ『クイックドロウ』も来年2月に英訳版が出る予定である。
◆英語圏進出プロジェクト
今まで日本のミステリー小説の英訳出版を主に担ってきたのはヴァーティカル社( http://www.vertical-inc.com/ )や講談社インターナショナル、黒田藩プレス( http://www.kurodahan.com/mt/j/ )などだったが、今年になって新たに早川書房と集英社が英訳事業に乗り出すとのニュースが報じられた。
早川書房の英訳プロジェクトでは、東野圭吾『容疑者Xの献身』や伊藤計劃『ハーモニー』の英訳者であるアリグザンダー・O・スミス(Alexander O. Smith)氏らが設立したアメリカの翻訳出版社、ベントー・ブックス(Bento Books http://bentobooks.wpengine.com/ )が作品選定と英訳を担当する。予告されているのは現在のところ、皆川博子『開かせていただき光栄です』、森晶麿『黒猫の遊歩あるいは美学講義』、中里友香『カンパニュラの銀翼』、小川一水『天冥の標』、五代ゆう『アバタールチューナー』の5作。英訳された作品はキンドルストアなどで電子書籍として配信される予定。
集英社は「Shueisha English Edition」( http://www.facebook.com/ShueishaEnglishEdition )というレーベルを立ち上げ、今年5月に英訳電子書籍の販売を開始した。ミステリーでは清水義範『迷宮』の英訳が10月に配信開始( http://labyrinth-novel.com/ )。ほかに、現在までに石田衣良『娼年』( http://callboynovel.com/ )、乙一『夏と花火と私の死体』『ZOO』『暗黒童話』( http://otsuichi.com/ )、浅田次郎『鉄道員(ぽっぽや)』( http://jiroasada.com/ )の配信が開始されている。清水義範『迷宮』と石田衣良『娼年』はこのプロジェクトのために英訳されたもので、それ以外はすでに英訳出版されていたものを電子書籍化したものである。今後は矢野隆『鉄拳』(小説すばる新人賞受賞作家によるゲーム「鉄拳」のノベライズ)、高嶋哲夫『TSUNAMI』、嶽本野ばら『エミリー』、万城目学『偉大なる、しゅららぼん』など年間10冊程度のペースで配信を続けていくとのこと。
昨年末には清涼院流水を中心とする作家たちが英語圏進出プロジェクト「The BBB: Breakthrough Bandwagon Books」( http://thebbb.net/jp/ )を立ち上げている。これは、清涼院流水が日本の小説を英訳できるレベルの語学力を獲得したことから実現したプロジェクト。今のところ小説では清涼院流水と蘇部健一の既発表の作品、秋月涼介、積木鏡介、矢野龍王の書き下ろし作品などが清涼院流水やその他の英訳者により英訳されて販売されている(秋月涼介、積木鏡介の書き下ろし作品は日本語版も販売されている)。また、日本で多くの著作があるというある小説家が「シロ」という変名で参加しているが、その正体は明かされていない。年内には森博嗣の短編「小鳥の恩返し」の英訳の販売も開始される予定。
関連エントリー:「日本のエンターテインメント(特にミステリー)小説は世界に通用する!」(執筆:清涼院流水) http://wordpress.local/1359494740
株式会社コルク( http://corkagency.com/ )は、それぞれの出版社で別々に扱われている海外版権を一括して取り扱うことで海外進出を促進することなどを目的として昨年設立されたエージェント会社。伊坂幸太郎の海外版権などを取り扱っている。通常は出版が決まってから英訳がなされるが、この会社では先に翻訳家に依頼して英訳版を作成し、その後英語圏の出版社に売り込むという方法をとる。たとえば伊坂幸太郎の作品は村上春樹作品などの英訳で知られるフィリップ・ガブリエル氏に英訳を依頼しているという。
ほかに昨年には、日本ペンクラブとグーグルがタッグを組んで現代日本文学の翻訳・普及事業に乗り出すとのニュースもあった( http://www.japanpen.or.jp/statement/20122012/google_google.html )。まさか、グーグルの科学技術の粋を集めた機械翻訳に基づく翻訳などではないだろうが……。今のところその詳細は明らかになっていない。今後の展開に期待したい。
■関連リンク■
英訳された日本の推理小説の一覧
http://www36.atwiki.jp/asianmystery/pages/53.html
2012年に欧米で翻訳出版された日本の推理小説の一覧
http://www36.atwiki.jp/asianmystery/pages/216.html
松川 良宏(まつかわ よしひろ) |
---|
アジアミステリ研究家。『ハヤカワ ミステリマガジン』2012年2月号(アジアミステリ特集号)に「東アジア推理小説の日本における受容史」寄稿。「××(国・地域名)に推理小説はない」、という類の迷信を一つずつ消していくのが当面の目標。 Webサイト: http://www36.atwiki.jp/asianmystery/ twitterアカウント: http://twitter.com/Colorless_Ideas |