横山秀夫『64(ロクヨン)』が英国推理作家協会賞の候補になったのを機に、ここ2、3年の日本ミステリーの英語圏進出状況を連載させていただくことになった。今回が連載第2回となるが、せっかくなので旬な話題をメインに紹介していこう。

◆大江健三郎賞によって世界的作家となった中村文則

 中村文則が英語圏においてミステリー作家、ノワール作家として高い評価を受けているということは以前の寄稿でも紹介した(非英語圏ミステリー賞あ・ら・かると 第12回 グーディス、密室、ボリウッド)。中村文則の英語圏進出のきっかけとなったのは大江健三郎賞(2007年〜2014年、全8回)の受賞である。この賞は賞金はなく、その代わりに受賞作の英語(あるいはフランス語、ドイツ語)での翻訳出版が約束されていた。中村文則は2010年に『掏摸(スリ)』で第4回大江健三郎賞を受賞。それが2012年に『The Thief』として英訳出版されるとたちまち注目を浴び、いまや英語圏のみならず欧州その他でも多数の著作が翻訳される世界的な作家となったのである。ちょうど昨日(7月12日)、『掏摸』と「兄妹編」の関係にある『王国』の英訳『The Kingdom』も発売になった。

 『掏摸』以降、中村文則作品の英訳は『悪と仮面のルール』(英訳2013年)、『去年の冬、きみと別れ』(英訳2014年)、『銃』(英訳2016年1月)、『王国』(英訳2016年7月)と進んでおり、さらには『教団X』『土の中の子供』(芥川賞受賞作)の英訳も予定されている。これほど順調に、途切れなく作品が英訳され続けている日本の作家はミステリーのジャンル以外を見渡してもそうはいない。ほかに思い当たるのは村上春樹と東野圭吾、菊地秀行および一部のライトノベル作家ぐらいである(東野作品の英訳状況については次回以降で扱う)。

 今回の記事で中村文則を取り上げたのは、ちょうど英訳版『王国』が刊行されるタイミングだったということもあるが、もう1つ理由がある。現在発売中の『ダ・ヴィンチ』2016年8月号(7月6日発売)が中村文則を特集しており、そこに「中村文則作品は海外でどう読まれているのか/FUMINORI NAKAMURAが世界で賞賛される理由」(取材・文=立花もも)という非常に興味深い記事が掲載されているからである。この記事では中村文則作品の米国版を出版するソーホープレスの編集者、ジュリエット・グレイムズ氏のほか、『去年の冬、きみと別れ』および『銃』の英訳者であるアリソン・マーキン・パウェル氏、東野圭吾『容疑者Xの献身』や京極夏彦『姑獲鳥の夏』等の英訳者であるアレクサンダー・O・スミス氏らが中村作品の魅力についてコメントを寄せている。特集内のほかの記事も充実しており、シンジケートの当記事を読んでくださった方はぜひ、書店に行って『ダ・ヴィンチ』を手に取っていただきたい。

 さて、改めて中村文則の英語圏での受賞・ノミネート歴などをまとめておく。

  • 2012年12月、英訳版『掏摸』が米国『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙で2012年ミステリーベスト10の1作に選出される。
    • ほかの選出作はフェルディナント・フォン・シーラッハ『罪悪』、ロベルト・アンプエロ『ネルーダ事件』、ギリアン・フリン『ゴーン・ガール』、ニック・ハーカウェイ『エンジェルメイカー』、アリエル・S・ウィンター『自堕落な凶器』など。
  • 2013年2月、英訳版『掏摸』が米国ロサンゼルス・タイムズ文学賞 2012年度ミステリー・スリラー部門にノミネート。
    • 受賞したのはタナ・フレンチ『Broken Harbor』(未邦訳)。ほかのノミネート作はニック・ハーカウェイ『エンジェルメイカー』、アリエル・S・ウィンター『自堕落な凶器』、クリス・パヴォーネ『ルクセンブルクの迷路』
  • 2013年12月、英訳版『悪と仮面のルール』が米国『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙で2013年ミステリーベスト10の1作に選出される。
    • ほかの選出作はフェルディナント・フォン・シーラッハ『コリーニ事件』、リンジー・フェイ『7は秘密 ニューヨーク最初の警官』など。
  • 2014年、米国のデイヴィッド・グディス賞受賞(受賞決定は2月、授賞式は11月1日)。
    • ノワール小説界に貢献した人物に贈られる。2008年から隔年で授与されており、受賞者は順にケン・ブルーエン、ジョージ・ペレケーノス、ローレンス・ブロック、中村文則、そして2016年はオーレリアン・マッソン(フランス、《セリ・ノワール》編集長)。
  • 2014年12月、米国のミステリー雑誌の表紙を飾る。

 中村文則は海外の作家やファンとの交流にも積極的である。2013年以降、アメリカ、カナダ、イギリス、シンガポールなどでブックフェスティバルやミステリー大会(2014年のノワールコン及びバウチャーコン)に参加したり、講演会、サイン会を開いたりしている(それ以前には、2006年と2010年に開催された「日中青年作家会議」で中国にも赴いている)。今年に入ってからは、2月にイギリスで開催されたトークイベントに島田荘司らとともに参加している。

 また日本でも、デイヴィッド・ピースと対談したり、ピエール・ルメートルと対談したりしている。対談の様子は前者は『ミステリマガジン』2014年7月号、後者は『文藝春秋』2016年1月号で読める。

 中村文則の最新作は先月刊行の『私の消滅』。評論家の片山杜秀氏はこの最新長編を、フィリップ・K・ディックと木々高太郎の世界を結合させた名篇と朝日新聞の文芸時評で評している(※リンク先ネタばれあり 文芸時評 2016年5月24日)。

 大江健三郎賞(2007年〜2014年、全8回)について少々補足しておこう。大江健三郎賞の受賞作で現在までに「英語(あるいはフランス語、ドイツ語)での翻訳出版」が実現しているのは、第4回受賞作の『掏摸』以外では以下の3作である。英語に訳されたのは結局(今のところは)『掏摸』だけということになる。

  • 第1回(2007年) 長嶋有『夕子ちゃんの近道』(フランス語訳『Barococo』、2009年)
  • 第2回(2008年) 岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(ドイツ語訳『Die Zeit, die uns bleibt』、2012年)
  • 第6回(2012年) 綿矢りさ『かわいそうだね?』(フランス語訳『Pauvre chose』、2015年)

◆第3回「SUGOI JAPAN Award」、一般推薦受け付け中

 大江健三郎賞を紹介したので、非常に大雑把に見れば似た趣旨(?)のものとして「SUGOI JAPAN Award」を紹介しておこう。これは2014年に読売新聞社等の主催、外務省・経済産業省などの後援で始まったもので、公式サイトから文言を引用すると、「世界中の人々にも紹介したい! 世界でも大ヒットするに違いない!」と考える作品にファンが投票し、1位を決定するというものである。「なんとかして日本の傑作を世界へ羽ばたかせたい」、そんな熱意から生まれたプロジェクトだそうだが、大江健三郎賞とは違って受賞するとどういう特典があるのかは明示されていない(受賞作の海外進出のための何らかの援助をしてくれる……らしい)。

 「マンガ部門」「アニメ部門」「ラノベ部門」「エンタメ小説部門」の4つがあり、受賞作決定までの大まかな流れは以下のとおりである。

  • (1)一般のファンから推薦作を募集(今年は7月1日〜7月31日)
  • (2)それらをもとに選定委員が20作ほどの候補作を選出(エンタメ小説部門は杉江松恋氏、大森望氏、市川真人氏の3名)
  • (3)その候補作を対象に、一般のファンによる投票を実施、3月に受賞作発表

 ちょうど今月(2016年7月)が一般推薦の受け付け期間なので、自分の好きなエンタメ小説の海外進出を願う方は、まずは一般推薦に参加してみてはいかがだろうか。なお、今年対象になるのは「2013年1月1日〜2016年7月31日までの約3年半の間に書籍の体裁で刊行されたエンタメ小説」である。

 エンタメ小説部門の過去の上位5作を以下に示しておく。このうち英訳があるのは湊かなえ『告白』のみである。

SUGOI JAPAN Award 2015(2014年投票、2015年3月結果発表)

  • エンタメ小説部門(対象:2005年1月1日〜2014年7月31日に出版された書籍)
    • 1位 有川浩《図書館戦争》シリーズ
    • 2位 貴志祐介『新世界より』
    • 3位 森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』
    • 4位 冲方丁『天地明察』
    • 5位 湊かなえ『告白』

SUGOI JAPAN Award 2016(2015年投票、2016年3月結果発表)

  • エンタメ小説部門(対象:2012年1月1日〜2015年7月31日に出版された書籍)
    • 1位 伊藤計劃、円城塔『屍者の帝国』
    • 2位 河野裕《階段島》シリーズ
    • 3位 小林泰三『アリス殺し』
    • 4位 米澤穂信『満願』
    • 5位 長谷敏司『BEATLESS』

 「SUGOI JAPAN」のサイトにはさまざまな特集記事が掲載されているが、先ほども名前を出した英訳者のアレクサンダー・O・スミス氏らによる鼎談「JAPANマニアな外国人が本音で語る日本コンテンツのSUGOIところとは?」(2015年9月17日収録/取材・文=立花もも)は実際に英訳に携わっている方々からの視点を知ることができて実に興味深い。この鼎談でアレクサンダー・O・スミス氏(アレックス氏)は「SUGOI JAPAN Award 2015」のエンタメ小説部門のノミネート50作品を見て、その中から海外で受け入れられる可能性の高い作品として道尾秀介『向日葵の咲かない夏』と舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』を挙げている。

◆クリーク・アンド・リバー社のプロジェクト「KAORI」

 宮部みゆき『模倣犯』の英訳・電子出版(全5巻)が先月(2016年6月)ついに完結した。英訳第1巻の電子出版は2014年12月だったので、英語版の読者で発売してすぐに第1巻を読んだ人は結末を読むまでに1年半も待たされたことになる。とはいえ、『このミステリーがすごい!』で1位にもなった大作の英訳出版実現を喜びたい。欲をいえばぜひ紙版も出版してほしいものだが、今のところその予定はないようである。

 ちなみに『このミス』国内部門の1位作品で英訳出版されているのは、大沢在昌『新宿鮫』、桐野夏生『OUT』、東野圭吾『容疑者Xの献身』、伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』、高野和明『ジェノサイド』、横山秀夫『64』、そして今回の宮部みゆき『模倣犯』の7作である(ほかに平山夢明の短編集『独白するユニバーサル横メルカトル』が表題作のみ英訳されている)。

 『模倣犯』は日本のクリーク・アンド・リバー社が手掛ける日本の小説家・漫画家の世界進出プロジェクト「Japan Authors’ Gallery KAORI」の第1弾として英訳されたものである。これは2014年12月に始まったプロジェクトで、「日本文化の薫りを世界へ」がコンセプトだという。当初は『模倣犯』第5巻(最終巻)の刊行は2016年2月とアナウンスされていたが、やや遅れて先月下旬に第4巻と第5巻が刊行された。

 『模倣犯』の英訳者はジニー・タプリー・タケモリ(Ginny Tapley Takemori)氏。過去の訳業には西村京太郎の短編集『南神威島(みなみかむいとう)』や村上龍『半島を出よ』(共訳)などがある。2冊とも日本の文化庁の「現代日本文学の翻訳・普及事業」で英訳出版されたものである。

 クリーク・アンド・リバー社は京極夏彦の短編集『巷説百物語』の英訳・電子出版も手掛けている。収録7短編を7分冊にするという方式で電子出版されており、2015年6月に最初の3編、そしてつい2週間ほど前に残りの4編が出た。『模倣犯』と同じく、こちらも紙版の出版予定がないのが残念である。

 『巷説百物語』の英訳者はイアン・M・マクドナルド(Ian M. MacDonald)氏。過去の訳業には岡本綺堂『半七捕物帳』、高橋克彦『写楽殺人事件』、菊地秀行『幽剣抄』などがある。

 《半七捕物帳》シリーズの英訳書『The Curious Casebook of Inspector Hanshichi』の収録作は光文社時代小説文庫版の第1巻と同じ14編。マクドナルド氏はシリーズ全作の英訳出版を希望しているそうだが、2007年に「現代日本文学の翻訳・普及事業」で英訳書が1冊出て以降、残念ながら続刊は出ていない。ちなみに『写楽殺人事件』『幽剣抄』も同じ文化庁の事業で英訳出版されたものである。

 宮部みゆきも京極夏彦もすでにほかの作品が「紙で」英訳出版されており、英語圏でもそれなりに知名度のある作家といっていいと思われるが、それでも電子出版のみの刊行物はまず存在に気付いてもらうこと自体が難しい。今後も同様のケースはあるだろうが、その場合は英語版の読者に向けてどのように宣伝していくかが課題になるだろう。

 電子のみでの英訳出版といえば、2011年には京極夏彦『死ねばいいのに』の英訳版『Why Don’t You Just Die?』がiPhone及びiPad向けアプリで配信されるというできごとがあった。しかしこれは日本語のアプリ(小説『死ねばいいのに』を収録)に英訳版を特別に収録するという形であったため、英語圏の読者にはほとんど気付いてもらえなかったようで、ネット上に英訳版の感想は見つからない。しかも現在このアプリの配信は終了しており、仮に今、英語圏の京極夏彦ファンが英訳版の存在を知ったとしても、入手することは不可能である。せっかく英訳文があるにもかかわらずこのような状態とは非常に残念だ。なんとかKindle等で再リリースしていただきたいものである。

◆アジアミステリーの世界進出

 昨年のフランス推理小説大賞(翻訳作品部門)に湊かなえ『告白』がノミネートされたということを先月の記事で書いた。そして先月中旬、今年のフランス推理小説大賞のノミネート作が発表されたのだが、韓国の作品が入っていて驚いた。キム・オンス『設計者』(邦訳2013年、クオン)である(2016年ノミネート作一覧)。韓国のミステリー小説でフランス語に訳されたものにはほかに金聖鍾(キム・ソンジョン)『最後の証人』、李垠(イ・ウン)『美術館の鼠』などがあるが、フランスのミステリー賞に韓国の作品がノミネートされるのはこれが初めてだと思われる。受賞作の発表は9月である。

 香港からも世界的なミステリー作家が現れそうだ。日本では長編『世界を売った男』と短編「見えないX」が訳されている陳浩基(ちん こうき/チャン・ホーケイ/サイモン・チェン)である。彼の2014年の作品『13・67』(未邦訳)は香港映画と横山秀夫・連城三紀彦が出会ったような作品だそうで、英語、フランス語、イタリア語など複数の言語への翻訳がすでに決まっている(韓国語訳は2015年に出版されている)。英訳『The Borrowed』は今年9月に刊行予定である。

 陳浩基は台湾の第2回(2011年)島田荘司推理小説賞の受賞者(『世界を売った男』で受賞)。この賞は台湾で隔年で実施されている公募賞で、中国語で書かれた長編ミステリー小説を世界中から募集している。邦訳のある受賞作はほかに寵物先生(ミスターペッツ)『虚擬街頭漂流記』と胡傑(こ けつ)『ぼくは漫画大王』。7月22日(金)の夜には、銀座で胡傑と島田荘司の対談イベントが予定されている。

松川 良宏(まつかわ よしひろ)

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 アジアミステリ研究家。『ハヤカワミステリマガジン』2012年2月号(アジアミステリ特集号)に「東アジア推理小説の日本における受容史」寄稿。論創ミステリ叢書『金来成探偵小説選』(2014年6月)解題執筆。ほかに「日本作家の英米進出の夢と『EQMM』誌」(『本格ミステリー・ワールド2015』)、「日本作家の英米進出の現状と「HONKAKU」」(『同2016』)。マイナーな国・地域の推理小説をよりメジャーな世界へと広めていくのが当面の目標。

 

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