(承前)

 私の場合、『ミレニアム』が本当にすばらしいと思う理由は、単行本『ドラゴン・タトゥーの女』下巻の後書きでも長々と書いたし、昨年刊行された『ミステリが読みたい!2009年版』(早川書房)でもさんざん語ったので、詳細は省略させて戴く。いや、これでは不親切すぎるので簡単に記すと、最初の『ドラゴン・タトゥーの女』は、アガサ・クリスティーの長編『白昼の悪魔』のモデルとなったバー・アイランドのような島を舞台に(!)、衆人環境下の屋敷から少女が忽然と消えるという謎がジョン・ディクスン・カーさながらの不可能興味(!!)で興奮した。そして、倉庫に眠る昔の写真や古い新聞記事といった過去の記録を丁寧に発掘することで謎が徐々に解かれていく過程も、往年の本格推理のような謎解き趣味満点(!!!)で、「調査報道」の手法によるジャーナリスティックな捜査(!!!!)も楽しかった。しかも、事件の背景が一族の親子のあり方や戦時のナチス問題やDVといった諸要素と複雑に絡み、徹底した反体制的ジャーナリズムの視点も加わることで物語が豊穣(!!!!!)になっている点も感心した。とまあ、!!!!!!!が一杯になるほど、私は読書の愉悦を味わったのだ。

 構成について酒井氏は「ミレニアム三部作のストーリーは、パッチワークの産物である」と述べている。そして、「三長篇とも、読んでいる最中は確かに面白い。次から次に新エピソードや急展開、新要素が繰り出されるからである。しかし場面場面がバラバラに自己主張するだけで、各長篇を一貫する有機的結合は全く感じられない。」と批判する。「各長篇を一貫する有機的結合」という部分が抽象的で、筆者がどのようなものを想起しているのかわからないけれども、少なくとも私には、今回の「パッチワーク」が構造上悪いとは思えなかった。確かに構造はシンプルなのだが、文学史を省みるに、串刺し団子のように段重ねでエピソードを並べ、物語を紡ぎだすのはドストエフスキーの例をあげるまでもなく、過去にもあった作劇法である。しかしラーソンはそれらを単純に並べるのではなく、ひとつのブロックが完結する直前に新しい謎や予想外のネタを配置し、それをフックとして次のエピソードに移るという技を効かせている。数年前に話題になったジェレミー・ドロンフィールドの長編『飛蝗の農場』(創元推理文庫)は、作者が時間の流れや物話の展開を一度バラし、それをバラバラに配置することで小説を再構成していた。これこそパッチワークというべき作品だったが、この作り方は一見マジカルにみえるけれども、実は書く側にとっては簡単なのだ(そうした安易な作劇が見えてしまったゆえに私は高得点が入れられなかった)。それに比べ『ミレニアム』は、エピソードとエピソードのリンクに小技が効いており、それがページ・ターナーの要素にもなっている。

(つづく)