ひところマーガレット・ミラーを紹介する場合、必ずといっていいほど「夫のロス・マクドナルドの名声に隠れてはいるが」という前置きがついたものですが、いまやそのロス・マクの作品ですら数冊を除いて品切れ状態、マーガレット・ミラーにいたってはすべて品切れという嘆かわしい状況であります。「戦後華々しく登場した推理作家の中でも、読者を欺く技巧において、彼女と並ぶものはない」とジュリアン・シモンズにいわせしめたこの閨秀作家を埋もれさせるのはあまりにもったいない! というわけで今回のありがたいチャンスをいかすべく、マーガレット・ミラーを精一杯布教させていただこうと思います。

『鉄の門』『狙った獣』といったニューロチック・スリラーが話題を呼んだせいか、なんとなく日本ではマーガレット・ミラーというと「暗い」「異常」「後味が悪い」イメージがつきまとっているのですが、それだけで片付けられる作家ではありません。ミラーの特徴はなんといってもあっと驚くサプライズ・エンディングにあり、先のジュリアン・シモンズが彼女の作風を「万華鏡を見るよう」とたとえていますが、回すたびに(読み進めるたびに)風景がカシャッ、カシャッと変化していき、最後に読者の想像とはまったく違う光景を見せてくれるのがミラー作品の身上といえましょう。『ポトスライムの舟』で平成20年度下期芥川賞を受賞した津村記久子さんという若い作家が、朝日新聞などメディアのインタビューで好きな作家にマーガレット・ミラーをあげているのを見て、ミラー作品が決して古びていないことをあらためて認識したしだいです。いっそのこと津村さんに解説を書いてもらって『殺す風』を再版するというのはどうでしょう?(笑)

●まずはミラーの代表作を読むなら……

『狙った獣』

 MWAを受賞したミラーの代表作作品であり、「暗い」「異常」「後味が悪い」と三拍子そろった(?)ミラーのイメージを定着させた作品でもあります(それにこの作品にはわたしの専門である〇〇のテーマも出てくるんですよね)。見えない悪意に追い詰められ、じわじわと崩壊していく孤独なオールドミスの心理描写がこれでもかとばかりに繰り広げられ、当時はただひたすら「うわあ、えぐいなあ」といいながら読んでいるだけでしたが、今回読み返してみると、ちゃんと細かい伏線が張り巡らされているのに感心させられます。壊れていくといっても、ミラーの場合は外に発散されるのではなく、内にひたすら壊れ、最後には人間全体が崩壊してしまう。なんだ、まるで今はやりの「イヤ・ミス」じゃないかといわれそうですが、「イヤ・ミス」との大きな違いはミラーが決して悪意を読者に押しつけたままにしないこと。どんなにグロテスクであっても、美しいサプライズエンディングが読者を待っています。

●次はミラーの一番評価の高い作品を……

『殺す風』

 冒頭の「わたしの心に、殺す風が/遠くの国から吹いてくる」で始まるA・E・ハウスマンの詩が非常に印象的なこの作品は、おそらくミラー・ファンの中では一番評価の高い作品ではないかと思われます。週末に仲間と釣りに行くといったまま失踪してしまった男性とその妻、そして彼らをめぐる友人夫婦との不倫騒動が引き起こす悲喜劇。初期の傑作『鉄の門』『狙った獣』と比べて明るく感じられるのは、中心となるのが二組の夫婦であること、そして会話が多く用いられているせいでしょうか。だからといってミラーの毒気が薄れたかと思ったら大間違い!平凡な日常生活に入った些細なひびがしだいに人々をむしばみ、すべてがクラインの壷のごとくするりと反転するラストの快感はぜひともみなさんに味わっていただきたい。蛇足になりますがEQMM短編コンテストで夫を押さえて(笑)堂々2位に輝いた、同じく夫婦を扱った短編『隣の夫婦』も忘れ難い傑作です。(編集部注:ミステリマガジン1992年11月号〈作家特集=マーガレット・ミラー〉掲載)

●ミラーのサプライズ・エンディングを味わいたいなら……

『まるで天使のような』

 わたしにとって「神」とも呼ぶべきミラー作品がこの『まる天』(略すな!)です。夫のロス・マクと違って特定のシリーズ・キャラクターを持たない(まったくいないわけではないが)ミラーですが、その中で一番探偵らしい探偵が出てくる作品であり、サイコ・スリラーであり、おそらくは一番本格ミステリに近く、おまけにラブストーリーでもあるという奇跡のような傑作であります。失踪した石油会社の事務員とその妻、銀行OLの横領事件、砂漠の中で俗世を捨てて住む新興宗教集団、いっけん何の脈絡もなさそうな出来事が、まるで三題噺のごとく次々に結びついて一気にカタストロフになだれこんでいく手際のすばらしさといったら! ミラーお得意の「失踪」「人間崩壊」「あっと驚くエンディング」が見事なバランスで味わえる、まさに奇跡のような作品とわたしが呼ぶゆえんであります。

●ミラーをさらに極めたくなったら……

『これよりさき怪物領域』

 今回読み返してびっくりしたのは、この作品のほとんどが法廷シーンで占められていることです。判事と証人たちとのやりとりが交わされるうちに、農場の若主人の失踪、大量の血痕の謎、死亡認定を待つ残された妻と、息子の死を認めようとしない義母、いびつな母と息子の愛、などがしだいに浮かびあがってきます。『狙った獣』のようなけれん味が減った分、万華鏡の破片(ていういのかな?)の数がより細かく、模様がいっそう繊細になったといえばいいでしょうか。ミラーはこの作品で登場人物のひとりに「人間はみんな心に怪物をもっているんです。ただ別の名で呼んだり、怪物なんていない」ふりをしているだけ、といわせていますが、宮脇孝雄氏によればこの作品のタイトルには「ある範囲を超えて、何かをやってしまえば、そこで人間性は壊れ、その人物は怪物になってしまう」という意味がこめられているのだそうです。後期の作品の中では『明日訪ねてくるがいい』とならんで、深く、ひたすら怖ーい作品です。

●最後にミラーの変化球も体験してみたくなったら……

『ミランダ殺し』

 ミラーの中では異色作ともいえるこの作品は能天気な明るい風刺コメディで、とても『狙った獣』と同じ作者が書いたものとは思えません(笑)。会員制高級クラブを舞台に、愛という幻想から逃れられない孤独な未亡人、にくらたしい悪ガキ、匿名の中傷文を書くのが趣味の偏屈な老人、エキセントリックな双子姉妹——そうしたフツーでない人々が繰り広げるハイテンションコメディがいつのまにか「えっ、えっ、ちょ、ちょっとどうしてこうなるの!」というエンディングに流れこむあたりは、やはりミラーならではの見事な手際といえましょう。この作品が書かれた1979年当時といえば、夫ロス・マクの長年にわたるアルツハイマー病の看護、さらにはミラー自身の二度にわたる肺ガン闘病と失明と、決して幸せな晩年とはいえないのに、作風がどんどん明るくなっていくところがすごい! 小泉喜美子さんもおっしゃったとおり「ロス・マクは妻も立派にハードボイルドなのを選んだ」のですね。

 さあ、ここまで来たらあなたも立派なミラー患者! 共に幸福なミラー地獄に堕ちましょう。

柿沼瑛子(かきぬま えいこ)1953年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学科卒業。主な訳書/アン・ライス『ヴァンパイア・クロニクル』シリーズ、エドマント・ホワイト『ある少年の物語』など。共編著に『耽美小説・ゲイ文学ブックガイド』『女性探偵たちの履歴書』など。最近はもっぱらロマンスもの多し。

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