20110910144630.jpg 田口俊樹

 cup his hands around the lighter

 英語を読むのは面倒くさいという人もいると思うけれど、そんなに面倒な英語でもないので、ちょっとばかりおつきあいのほどを。

 私、翻訳の専門学校で講師をしているんですが、その授業でのこと。上記の英文が出てきました。なんてことない、戸外で煙草にライターで火をつけるシーンです。手をカップ、日本語らしく言えば、お碗のような形にして風をよけながらつけたわけです。

 でも、そこで、「なんで hand が複数なんですか?」って生徒のひとりに訊かれました。なんか特殊なライターのつけ方があるんですか、と。

 ちょっと虚を突かれました。そんなこと全然気がつかなかったんで。しかし、そう言われてみると、確かに片手はライターを握っているわけで、風をよけるのにお碗の形にできるのはもう一方の手だけです。両手ではできない。

 ところが、そこで面白かったのは、そう指摘されても、この複数形が私を含め、私と同年代の喫煙者の生徒三人には全然違和感がなかったことです。実際には、cup his hand なわけで、単数形で書かれてしかるべきべきなのに、四人ともなぜか hands という複数形が気にならなかったんです。

 どうしてなのか。気がつけば気になって当然なのにどうして気にならないのか。そのことが逆に気になって、時々思い出してはしばらくあれこれ考えました。で、あるときふとひらめいたんです。これって昔の記憶?

 そう、マッチをすって煙草に火をつけていたときのです。マッチの場合は、風をよけるとき、だいたい両手をお碗の形にします。そのせいなのではないか。

 私、翻訳者のわりに英語にあんまり自信がないので、いつもわからないことがあると教えてもらっているネーティヴに確かめました。この人、日本の大学の教授で、エリートでインテリなのに今でも煙草を吸っている(たぶん)珍しいイギリス人なんですけど、自分もそう思うって答が返ってきました。ひとつお墨付きが得られたわけで、後日、そもそも質問をしてきた生徒に当然得々と説明しちゃいました。

 現在の実際の動作はちがっていても、昔の動作が記憶となってことばに残っていること、それがある意味で洋の東西を問わなかったところ。私にはなんか面白かったです。

 こういうことばってほかにもありそうですよね。探すと面白いかも。

(たぐちとしき:ローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズ、バーニイ・ローデンバー・シリーズを手がける。趣味は競馬とパチンコ)

  20111003173346.jpg  横山啓明

月曜日に古屋美登里さんが「文学的出会い」について

書かれていました。

たしかに衝撃的な出会いというのはありますね。

三十年ほど前、偶然に日野啓三「星の流れが聞こえるとき」

を読み、身体の中が熱くなるほどの興奮を覚えました。

当時、敬愛していたブライアン・イーノの音楽世界そのものだった

からです。衝撃的な出会いでした。

さっそくこの短編が収められている『夢を走る』

買いに「走り」ました。

J・G・バラードの破滅三部作もこの時期に読んでいたのでは

ないでしょうか(記憶が定かではない)。

バラード『結晶世界』はイーノの『鏡面界』を

思わせ、やはり大好きな作品でしたが、驚いたことに

日野啓三もエッセーのなかで両者を結びつけて語っていたのです。

ああ、やはり。

以後、日野啓三を追いかけました。

(よこやまひろあき:AB型のふたご座。音楽を聴きながらのジョギングが日課。主な訳書:ペレケーノス『夜は終わらない』、ダニング『愛書家の死』ゾウハー『ベルリン・コンスピラシー』アントニィ『ベヴァリー・クラブ』ラフ『バッド・モンキーズ』など。ツイッターアカウント@maddisco

20110819080047.jpg 鈴木恵

長屋の加賀山さんが以前にここで紹介していた申京淑『母をお願い』。物語もいいんだけど、安宇植さんの翻訳がまたすばらしくて、ああオレもこんなふうに小説を訳してみたい、と思いながら読んだ。言葉にちゃんと血が通っているというか、しっとりとした肌触りのようなものがあるというか(こんな感覚的な言葉でしか伝えられなくて歯がゆいんすけど)。たとえば「おばあちゃんはどこへ行ったん、おじいちゃん?」という台詞。普通なら「どこへ行ったの」とするところだけど、「の」が「ん」になっているだけで田舎の子供の素朴な台詞になっちゃう。ちょっとしたことなんだけど、大きなちがいなんだよなあ。ちなみに作品は、2011年のマン・アジア文学賞最終候補作(→こちら)にもなってます。

(すずきめぐみ:文芸翻訳者・馬券研究家。最近の主な訳書:『生、なお恐るべし』『ピザマンの事件簿2/犯人捜しはつらいよ』『ロンドン・ブールヴァード』。最近の主な馬券:なし orz。ツイッターアカウント@FukigenM

  20111003173742.jpg  白石朗

 翻訳物のカタカナ名前は覚えにくいという声もありますが、翻訳する側には訳しにくい名前があります。たとえば“ビル”。この珍しくない名前でも「ビルは高層ビルを見あげた」という文章に置くと変ですね。駄洒落ではない原文が、情けない駄洒落に思われかねません。

 ま、この程度ならこちらも商売、それなりに処理するのですが、かりにですよ——

「ビルはビルのロビーでロビーと会って店に行った。カートがカートを押していた。リンゴとサラは林檎と皿、エマは絵馬を買った。ルースが留守だったので昼はヒルと食事。翌日、エドと江戸村で内府ゆかりのナイフを買ったら、横で〈どん兵衛〉を食べるドンに、デミルがいっぺん死んでみるかとすごんでいた」

 ——などという訳すと下手な駄洒落でしかない(……いや、ほんと)文章が原文に出てきたら、非力な訳者は茫然と立ちすくんでしまいそうです。

 馬鹿話はともかく、第3回翻訳ミステリー大賞の二次投票は来月末が締切です。一次ではやむなく投票を見おくった方も、二次では候補5作をお読みになれば投票できます。ひとりでも多くの方の投票をお願いします(要項はこちら)。

(しらいしろう:1959年の亥年生まれ。進行する老眼に鞭打って、いまなおワープロソフト「松」でキング、グリシャム、デミル等の作品を翻訳。最新訳書はデミル『ゲートハウス』、キング『アンダー・ザ・ドーム』。ツイッターアカウント@R_SRIS

 20120102101224.jpg 越前敏弥

 映画〈ヒミズ〉を観たのは3週間以上前だが(いえ、きょうは「おれの恵」の話じゃないって)、あまりにも以前読んだあのぶっ飛んだ原作の衝撃が大きかったので、独立した作品としてどう考えていいのかわからずにいた(だって、渡辺哲が夜野正造だと言われてもね……)。でも最近になってようやく、この映画を読み解くキーワードが3人の人物(国語教師、住田の母親、そしてラストの茶沢さん)が発する「がんばれ」なんだと気づいた(遅すぎ?)。とってつけたようにしか自分には思えなかった震災後への設定変更も、「がんばれ」の意味が変容していく映画だと割り切れば少しは納得できる。

 でもやっぱり……まだ読んでない人、原作読んでね。あ、もうひとつ情けないことに、いまになってようやく、「ヒミズ」は「日不見」だと知ったというていたらく。

 福島読書会の開催がいよいよ迫ってきました。参加を迷っているかた、いまからでもぜひお申しこみを!

(えちぜんとしや:1961年生。おもな訳書に『解錠師』『夜の真義を』『Yの悲劇』『ダ・ヴィンチ・コード』など。趣味は映画館めぐり、ラーメン屋めぐり、マッサージ屋めぐり、スカートめくり[冗談、冗談]。ツイッターアカウント@t_echizen。公式ブログ「翻訳百景」 )

20111003174437.jpg 加賀山卓朗

 ミハイル・A・ブルガーコフ。『巨匠とマルガリータ』の奇想と派手な見世物にも驚き興奮しましたが(マルガリータの飛行場面のすばらしさはシャガールか宮崎駿か……)、このたび復刊なった『犬の心臓』も快作。人間の脳下垂体と精嚢を移植された野良犬がだんだん人間化していくというドタバタ喜劇で、構想自体はいまから見ればさほど目新しくはないけれど、細部が抜群におもしろい。犬人間がエンゲルスの書簡を読みはじめたのには笑った。『悪魔物語・運命の卵』も中古なら手に入るんですね。

(かがやまたくろう:ロバート・B・パーカー、デニス・ルヘイン、ジェイムズ・カルロス・ブレイク、ジョン・ル・カレなどを翻訳。運動は山歩きとテニス)

20111003174611.jpg 上條ひろみ

 翻訳者の職業病、運動不足解消のため、二年ほどまえからテニスをしている。無心にボールを追って汗をかくと、頭のなかもリセットできて気分すっきり。残念ながら体力がなく、運動神経もないので全然上達はしないけど、リフレッシュには役立ってます。

 マーティン・ウォーカーの〈警察署長ブルーノ〉シリーズ『緋色の十字章』を読んでいたら、テニスをするシーンが何度か出てきてうれしくなった。風光明媚なフランスの小村サンドニで、おいしい食事やワインに舌鼓を打ち、村の重鎮や美女たちとテニスを楽しむ警察署長。優雅じゃないですか。ブルーノ署長もテニスでリフレッシュしてるのかしら。正義を振りかざすのではなく、村人たちと親しくふれあいながら、村人たちのために最善を尽くそうする情の篤さもいいなあ。ちょっぴりコージーのにおいもして、シリーズの今後の展開が楽しみ。

(かみじょうひろみ:神奈川県生まれ。ジョアン・フルークの〈お菓子探偵ハンナ・シリーズ〉(ヴィレッジブックス)、カレン・マキナニーの〈朝食のおいしいB&Bシリーズ〉(武田ランダムハウスジャパン)などを翻訳。趣味は読書とお菓子作り)

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