会社を辞めて翻訳の仕事をはじめたとき、わたしは有能で有名な翻訳家になりたいと思っていた。しかし、それから10余年、残念ながらこの目標はいまだに達成されていない。はて、いったいこれはなぜなのか?

「もしかしたら、あなたが無能だからではございませんか?」とツマは言う。ま、わたしだって馬鹿じゃない。その可能性にはウスウス気がついていた。しかし、だからといって、ここであっさりあきらめてしまっていいものか? ダメを承知で、もっとさまざまな努力を重ねるべきではないのか?

そこでわたしは、手はじめに自分の「敵」を研究することにした。現在第一線で活躍している有能で有名な翻訳家の訳書を精読し、その仕事ぶりをコッソリ偵察するのである。うまくすれば、敵のテクニックが盗めるかもしれない。ま、簡単に盗めるものならとっくの昔に盗んでいるわけだが……ここはとにかく当たって砕けてみたい。


ということで、この第1回で取りあげるのは、『ジュラシック・パーク』『ハイペリオン』などの翻訳で有名な酒井昭伸(敵なので敬称略)だ。この人はわたしがいちばん尊敬している翻訳家である。いちばん尊敬しているということは、裏を返せば「最大の敵」ということになる。なんか、『ウルトラマン』の第1話にいきなりゼットンが登場するようなものだが(←若い人にはわかりにくいたとえで申し訳ない)、偵察隊の目的は相手を倒すことではないから、怖れることなく突き進むことにする。

では、なぜわたしがゼットン酒井を尊敬しているのか? 答えは簡単、翻訳がうまいからである。ちなみにこの「うまい」というのは、たんに訳書を読んでテキトーな印象を述べているのではない。わたしはゼットン酒井が訳した長篇を頭から最後まですべて原文と照らし合わせたことがある。そのわたしが太鼓判を押す。ゼットンの翻訳はすばらしい。ただ、どこがどうすばらしいかを具体的に説明していくとキリがない。ここでは、一般の読者にもわかりやすい単純な点に話を絞ろう。それは「語尾」である。

ご存じのとおり、日本語は反復を嫌う。語尾が「だった」「だった」ばっかりだと、文章が単調になる。そこで、「いる」「いない」「のだ」「ある」など、さまざまに語尾を使いわけて文章に変化をつける。たとえば、作家の村上春樹はこれが抜群にうまい。文章の語尾に注意しながら村上春樹の作品を読むと、深い陶酔感に包まれることうけあいだ。

しかし、翻訳家は作家と違い、勝手に文章はつくれない。原文がある。で、この原文を訳してみると、どうしても「だった」「だった」「だった」になってしまうケースが驚くほど多いのだ(オレだけか?)。ところが酒井昭伸の手にかかると、あら不思議、豊かな語尾が魔法のように踊りだす。たとえば、アーサー・C・クラーク『都市と星〈新訳版〉』(ハヤカワ文庫SF)の冒頭を引用してみよう。

 胸もとに輝く宝石のように、都市は広大な砂漠のただなかできらめいていた。かつては変化とうつろいを知っていたこの都市も、いまでは時に忘れられてひさしい。外の砂漠には夜と昼とが交互に訪れ、めまぐるしく入れ替わっていく。しかし、ダイアスパーの街路はつねに真昼の明るさが保たれ、暗闇が訪れることはない。長い冬の夜ともなると、希薄になった地球の大気に残るわずかな水分が凍結し、砂漠に霜が降りる。だが、暑さも寒さも、この都市には縁がなかった。外界とはまったく接触がないからだ。この都市はそれ自体がひとつの宇宙なのである。

ね、すばらしいでしょ? 自在な語尾が生みだすこの美しい文章のリズム、感動するでしょ? わたしなどは、ここを読み返すたびに思わず失禁しそうになる。しかし、こういうテクニックは、頭ではわかっていても、なかなか真似できるものではない。古今東西の小説を読みこみ、しっかり文章修練を積む必要がある。要するに、有能で有名な翻訳家への道はケワシイということだ。


さて、その“語尾の魔術師”酒井昭伸の最新訳書が、これからご紹介するマイクル・クライトンの『マイクロワールド』(早川書房刊)である。ただしご存じのとおり、クライトンはすでに2008年に亡くなっている。本書は死後に発見された四分の一ほどの原稿とアウトラインをもとに、大ベストセラー『ホット・ゾーン』(小学館文庫)の著者リチャード・プレストンが完成させたものだ。

ここで打ち明けておくと、わたしはクライトンの大ファンである。エンターテインメント作家として、クライトンの右に出る者はいないとさえ思う。ところがこの作家、評論家ウケはあまりよくない。なかでもよく目にするのは、「人間が描けていない」という批判である。

しかしそれは、『ドラえもん』『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』を評して「人間が描けていない」と苦言を呈するようなものだ。てんでピントがずれている。そもそもクライトンが書いているのは、人間を描くことに主眼をおいた小説ではないからだ。「アイディアが凡庸」とか「活劇としての魅力に欠ける」という批判ならわかる。しかし、よりによって「人間が描けていない」? なんだそれ? おまえらアホか!(←かなり感情的になっている)。

とはいえ、クライトン作品の登場人物は、たしかに「物語を動かすためのコマ」という側面が強いかもしれない。しかし、キャラの書き分けは際立っている(本書『マイクロワールド』でも、憎たらしいキャラはとことん憎たらしく、できればこの手で縊り殺したくなる)。また、大勢の登場人物を的確にさばくテクニックも、もうほんとうに見事としかいいようがない。本書においても(ここは明らかにクライトン自身が書いていると断言できる部分では)、その巧みな技は健在だ。

この作品のストーリーは、ごく大雑把に要約すると「新薬開発企業の悪辣な経営者によって身長2センチに縮小された7人の大学院生が、ハワイのジャングルで決死のサバイバルを展開する」というものだ。クライトンは作品の冒頭で、まずこの大学院生うちの6人を一気に紹介する。ページ数にしてほんの5ページ強。当然、それぞれのキャラに当てられた説明描写はごくわずか。なのに、これがスッと頭に入ってきて、誰が誰だかいっさい混乱しない。

これは、「主人公」→「ちょっと煙たい憎まれ役」→「その憎まれ役を忌み嫌っている女子院生」というふうに、明確な人間関係を追いながら登場人物を紹介していくと同時に、「誰とでも寝てしまう女子院生」といった、読者の記憶に残りやすいキャラを巧みに配しているからだ。このため、読者は「たくさん出てくる登場人物を覚える」というストレスをまったく感じることがない。おそらく、この部分を読んで「クライトンってうまいなぁ」と思う読者は皆無だろう。しかし、それこそがクライトンのマジックなのであり、高いリーダビリティの秘密なのだ。

また、クライトン作品はつねに情報小説としての側面を持っているが、この情報の挿入の仕方も、凡百の作家とはうまさがまったく違う。下手な作家の場合、小説内の蘊蓄部分が、物語の途中でいきなりはじまることが多い。しかし、クライトンの場合はまず読者に謎をかけ、「え、それってどういうこと?」と思わせてから蘊蓄に移る。また、「蘊蓄を垂れ流す登場人物に、ほかの登場人物が辟易する」というように、性格描写と蘊蓄を同時に行なうといった技も使う。このため、読者はここでもストレスを感じることなく物語を読み進めることができる。

こうした「クライトンのうまさ」を長々と書いたのは、明らかにプレストンが書いている思われる本書の後半部に入ると、「やっぱりクライトンは天才だったな」と痛感せざるを得なかったからだ。誤解のないように言っておくが、プレストンはとてもすばらしい仕事をしている。波瀾万丈の物語の面白さが、プレストンのせいで減じているとはいささかも思わない。しかし、熱狂的なクライトン・ファンであるわたしには、クライトンの「いま本を読んでいることを読者に忘れさせる力」は、やはり別格だったように思えるのだ。もちろんそれは、たんなるファンの感傷かもしれないが……

ということで、クライトンへの愛ゆえに少々暴走気味になってしまい、肝心な「酒井昭伸の翻訳テクニック」を盗むのをすっかり忘れてしまったが、どうかご容赦願いたい。あと、本書『マイクロワールド』の具体的な内容については、あえて詳しく触れなかった。今回の作品はストレートなSF冒険小説であり、純粋に楽しむには予備知識がないほうがいいと思うからだ。ただし、最後にこれだけはぜひつけくわえておきたい。

本書で展開するのは、ある意味でいつもながらのクライトン・サスペンス。主人公たちのサバイバル行にはタイムリミットが設定されており、さまざまなエピソードがすべてそこに向かって収斂していく。しかし、この小説の中盤には、従来のクライトン作品からは想像できないような意外な展開が待っている。わたしはここで大きな衝撃をうけると同時に、クライトンはなぜこんな爆弾を仕掛けたのだろうと頭をひねった。

しかし、考えてみれば不思議でもなんでもないのかもしれない。癌で倒れたクライトンは、本書を執筆していたとき、おそらく自分の余命を知っていたに違いない。もしかしたら、自分の力ではこの作品を完成できないとわかっていたかもしれない。しかもこの作品は、クライトンの生前にはまだ生まれていなかった息子に献じられているのだ。

とすれば……

クライトンが本書にこめた最後のメッセージに、わたしは涙せずにはいられない。


ということで、偵察隊の第1回の任務は終了した。有能で有名な翻訳家への道を大きく一歩前進した気がしないのがいささか残念だが、大切なのは地道な努力だ。次回は、玉木亨訳の『火焔の鎖』(ジム・ケリー)を偵察する予定である。よろしく哀愁、郷ひろみ(←意味なし)。

矢口 誠 (やぐち まこと)

1962年生まれ。翻訳家・特撮映画研究家。光文社「ジャーロ」にて海外ミステリの書評を3年間担当。主訳書は『ハリーハウゼン大全』(河出書房新社刊)。最新訳書はアダム・ファウアー『心理学的にありえない』(文藝春秋)。好きな色は赤。好きなタイプの女性は沢井桂子(←誰も訊いてねぇーよ)。