いま、わたしは震えている。なにせ、今回とりあげる翻訳家はあの佐々田雅子なのだ。佐々田雅子といえば、翻訳ミステリー界随一の「コワイ人」としてその名をトドロかせている超大物。呼び捨てにするだけでも危険きわまりないのに、その訳書を俎上に載せてアレコレ分析するなんて……これはもう、自殺行為以外のなにものでもない。

気は確かなのか?>オレ。

ただし、「コワイ」といっても、佐々田雅子がエルロイの『ホワイト・ジャズ』に出てくる悪徳警官みたいに暴力的というわけではない。この偵察隊でとりあげたからといって、「シンジケート事務局にビッグ・ササダ・Mから電話。ヤグッチ・“短小”・マコートの居場所は???? 安アパートの一室/監禁/ブラスナックル。『悪気はなかったんですけど……』たわごと。飛び散る脳漿/響きわたる哄笑/餃子は王将。なめるんじゃないわよ」みたいな事態には(おそらく)至らないだろうと思う。

なら、いったいどこがどう「コワイ」のか? ササダマさん(この愛称は名前の最後の文字を「ん」に置き替えただけであり、ビビって敬称をつけているわけではない)を実際に知らない人は、テレビのバラエティに出演しているときの加賀まりこを思い浮かべてほしい。早い話、美人なのだが(←ビビってヨイショしているわけではない)舌鋒がめっぽう鋭いのだ。じつを言うと、ササダマさんの翻訳をわたしごときが云々するのはあまりに畏れ多いと思い、今回にかぎってはご本人に登場いただいてインタビューを行なおうかとも考えた(←結局ビビってんじゃないかよ)。しかし、インタビューのなりゆきを想像すると……

マコト「ということで、今回は名翻訳家として名高い佐々田雅子先生をお招きいたしまして、先生ご自身の口から翻訳の極意を語っていただきたいと思います。では先生、まず……」

マサコ「なーにが“先生”よ。どうせ心んなかじゃ、『オレのほうがササダより翻訳うまいもんネ』とか思ってんじゃないの? あたしなんかの話より、まずは矢口センセーの“翻訳の極意”をご披露したらどう?」

マコト「あ、いや……その……」(←タジタジ)

マサコ「しかしアレね。あんた、しばらく見ないうちにすっかり頭がサビシくなっちゃったのね。でも似合ってるじゃない、その髪型。なんか虚無僧みたいで」

マコト「あ、いや……その……」(←脂汗)

マサコ「それよりあんた、ちゃんと食べていけてんのー? シンジケートに原稿なんか書いても、おカネ出ないんでしょ? 陰じゃみんなワルクチ言ってんのよ。『偵察なんかしてるヒマがあるなら、さっさと翻訳の仕事しろよ』って」

マコト「あ、いや……その……」(←すでにナミダ目)

マサコ「っていうか、こんなオバサンに話聞いても面白くないんじゃなーい? あんたも、ほんとは若くてピチピチした女の子のほうがいいんでしょ? 先月だって、ボクちゃんとチヅリンがどーしたとか書いてたじゃない。それにしても、シケた顔してるくせに、あんたもわりかしスケベなのね」

マコト「い……いや……」(←コテンパン)

マサコ「ちょっとあんた、さっきから『あ』とか『いや』しか言ってないじゃない。すこしはしゃべったらどーなのよ。ほら、矢口センセーの“翻訳の極意”を披露するんでしょ? さ、もったいぶってないでさっさとはじめなさいって、ほらほらほら」

マコト「…………」(←あえなく撃沈、よろしく哀愁)

ああ、ダメだ。脳内シミュレーションの段階にして、すでに負けている。というか、勝てる気がゼンゼンしない。ここはやはり、独力で偵察をするしかないということか? うーん、なんだか気分はシオシオノパー。大魔神の爆破を命じられた雑兵にでもなったココロモチだが……よし、こうなったらとにかくGOだ!

ゴーゴー、ゴーゴー、レッツゴー、ひろみ!(←カラ元気)


では、まず結論からいってしまおう。佐々田雅子は基本的に「た」の人である。この連載の第1回で“語尾の魔術師”酒井昭伸を紹介し、地の文を訳すうえで豊かな語尾がいかに重要かを説明したが、佐々田雅子はその対極に位置する翻訳家である。『ホワイト・ジャズ』のように原文が非常に特殊な場合はべつだが、佐々田雅子が地の文で使う語尾は「だった」「いた」がほとんど。そのほかは「のだ」がたまにあるくらいで、「いる」「いない」「ある」といった現在形はほとんど使わない。しかし、その訳文は決して単調にはならない。なぜか?

理由はいくつもある。まず、「だった」「いた」がいくら続いても単調に感じさせないくらい、文章自体にリズム感があること。要所要所に体言止めや倒置を織りまぜることで、文章にメリハリをつけていること。そしてなにより、セリフの訳し方が非常にうまいこと。佐々田雅子はさまざまな口調を巧みに使い分け、ほんの端役に至るまで、登場人物の性格をしっかり際立たせていく。そうした表情豊かなセリフがあるからこそ、ある意味で淡々とした地の文がグッと生きてくるのである。

地の文の語尾に「だった」「いた」が続くと、文章は硬質になる。アンドリュー・ヴァクスの諸作などがいい例だが、佐々田雅子の得意とするハードボイルド系の小説にはこうした文体がよく似合う。また、ライフ・ラーセンの『T・S・スピヴェット君傑作集』のような少年小説でも、飾りのないその透徹した文章は、大きな効果を上げていた。

ただし、たんに「だった」「いた」といった語尾を使うだけでは、文章がほんとうの意味で硬質になるわけではないし、透明感を増していくこともない。ここで話は少々大げさになるけれど、重要なのは、文章を書くときの態度なのではないかと思う。

佐々田雅子の訳文には媚びがない。「これって、日本語としてこなれてるでしょ? どう?」といった、翻訳者の嫌らしい自意識がない。おそらく佐々田雅子には、「読者におもねろう」という気持ちが微塵もないのだ。そしてその態度こそが、硬質で透徹した文体へとつながっているのである。

佐々田雅子のような文体を身につけたいと思っても、それは文章修練でどうこうなるものではない。まさに「文は人なり」なのだ。

わたしは佐々田雅子の訳書を読むたびに、「背筋の伸びた文章だな」と思う。そして、その文章に淡い憧れを抱く。しかし同時に、ああいう文章が自分には決して書けないこともわかっている。残念だが、他人の翻訳を偵察・研究したくらいではとうてい越えられない壁というものが、この世には確実にあるのだ。


さてここで、ササダマさんの最新訳書『鷲たちの盟約』(新潮文庫)を簡単にご紹介しておこう。本書の舞台は1943年のアメリカ。ただし、「ニューディール政策で有名なあのルーズヴェルトは暗殺されてしまった」という設定になっており、この小説におけるアメリカは、独裁的な大統領が支配する全体主義的な社会と化している。要はこの作品、フィリップ・K・ディックの『高い城の男』やレン・デイトンの『SS−GB』などと同列の“歴史改変小説”なのである。

そう聞くと、「なんかコムズカシしいんじゃね?」とか「あたし、世界史の知識がないからチョットー」とかとか思われる方もいるかもしれない。しかし、心配は無用だ。上巻の終わりあたりで「陰謀」の全貌が明らかになる瞬間には、世界史の成績が1だったあなたも、「オオッ、そういう展開かぁー!!」と手に汗握ること間違いなし。本書は歴史的知識がなくても気軽に読める純粋なエンターテインメントなのである。

ちなみにこの作品、「ポーツマス市警の警部補になったばかりの主人公が、列車の線路で見つかった死体の謎を追っていく」という、いかにも地味な捜査が軸になっている。そのため、最初のうちはなんとなく話が辛気くさい。しかし、なんといってもそこは“歴史改変小説”なので、中盤から物語はどんどんスケールアップしていく。反対に、「え、こんなに大風呂敷広げちゃっていいの?」と心配になってくるほどだ。実際、わたしなどは「ここまで話が大きくなったら、オチをつけるの絶対ムリじゃん」と思っていた。しかしこれが、きれいにオチるんだよね、最後に。これには、誰しも思わず感心することだろう。

ただひとつ、わたしには主人公の性格が気に食わなかった。この男、実直なうえになまじ正義感があるもんだから、やらなくてもいいことまでついやってしまい、自分で自分を窮地に追いこんでしまうのだ。正直いって、こういうキャラはわたしの好みではない。

ところが、である。この主人公の性格にも、ラストできっちりオトシマエがつくのである。これには不覚にもちょっと感動した。しかも、ラストのラストのラストには(ちなみに、この小説は結末が二転三転するどころか、六転七転する)、「主人公の性格がこうでなければ、このラストはありえない」と思わせるだけの説得力がある。アラン・グレンというこの覆面作家、そこまで計算して主人公のキャラクターをつくったのか? だとしたら、恐るべき才能だと思う。


ということで、今回の偵察任務は終了である。ちなみに、この原稿を書き終わって仮眠をとっているときに、こんな夢を見た。頭に巨大なコブをふたつつくったわたしが、佐々田雅子に「もう二、三個つくったろか?」と凄まれ、「ふたつでじゅうぶんですよー。わかってくださいよー」と泣きを入れているのだ。

いまはただ、それが正夢にならないことを願うばかりである。

合掌。

矢口 誠 (やぐち まこと)

1962年生まれ。翻訳家・特撮映画研究家。光文社「ジャーロ」にて海外ミステリの書評を3年間担当。主訳書は『レイ・ハリーハウゼン大全』(河出書房新社刊)。最新訳書はアダム・ファウアー『心理学的にありえない』(文藝春秋)。好きな色は赤。好きなタイプの女性は沢井桂子(←誰も訊いてねぇーよ)。

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