2005年ごろから、わたしは親戚の集まりや同窓会がキライになった。そういう席に顔を出すと、かならず誰かが「なあ、マコトォー、おまえも早く『ダ・ヴィンチ・コード』みたいなの訳せばぁー?」と茶化すようになったからだ。酔っぱらってすっかりデキあがった親戚のジイさんどもにいたっては、「おい、マコト、どーしてオマエは『ダ・ヴィンチ・コード』を訳さんのだ?」としつこくカラんでくる。

ッタク、どいつもこいつもバカのひとつ覚えみたいに『ダ・ヴィンチ・コード』『ダ・ヴィンチ・コード』って。おまえら『数学的にありえない』を知らないのか? オレはあれで全生涯の運をぜんぶ使い果たしちゃったんだよ。しかも、印税まで使い果たしちゃったんだぞ。おかげでツマは暗い顔して家計簿をにらんじゃ、「どーしてあんたは越前敏弥じゃないのよ」となじってくるんだぞ。頼むから、オレの前で『ダ・ヴィンチ・コード』とか「越前敏弥」とか口にするのはやめてくれ!!


ということで、わたしが越前敏弥に少なからぬハンカンを持っていると聞いても、「ゲッ、マジっすか!?」と驚愕する人はいないと思う。しかもわたしは、越前が『ダ・ヴィンチ・コード』を訳した幸運をネタんでいるだけではない。翻訳の仕事のかたわら、英語翻訳に関する本まで出版していることもソネんでいるのである。しかもその本、なんとタイトルが『越前敏弥の 日本人なら必ず誤訳する英文』というのだ。メインタイトルの前に「○○の」と著者名を入れるなんて、芸能人やセレブだけに許される特権ではないのか? おい、エチゼン、おまえはいったいどんだけ有名なんだ? Shit!! じゃなくて、嫉妬!!!

だがしかし——さらに腹立たしいのはその先だ。わたしも実際に読んでみたのだが、この『日本人なら必ず誤訳する英文』は、非常に優れた本なのである。これが「チョイと名前が売れたんでホイホイ書いちゃいましたー」的なお手軽本なら、こっちも鷹揚に「ダメだなぁ、エチゼンくんも名声に溺れちゃ、ハハ」とか笑っていられるのだが、こうも中身が濃い本を書かれた日にはグウの音も出ない。

ご存じの方も多いと思うので詳しくは触れないが、この本は予備校や翻訳学校の講師を長年つとめてきた著者が、折にふれて収集してきた「日本人がつい誤訳しがちな難文」をまとめたものである。本文は問題形式になっており、難易度順に並んだ140の問題に、それぞれの正解例と解説が付されている。感心するのは、その解説が明快でわかりやすいことと、全体を通して「誤訳を避けるための基本的ポイント」がしっかり網羅されていることだ。このふたつは、さまざまな英文を読みこみ、英文法を深く理解していなければできることではない。ひとことでいえば、この越前という男、タダモノではないのである。そうとわかれば……嫉妬の炎はさらに激しさを増すというものではないか!

だがしかし——さらにさらに腹立たしいのはその先だ。じつはわたしも、この本に収録された「難文」に挑戦してみたのである。しかしこれが、不正解につぐ不正解。まともに答えられた問題はほんのわずかしかない。もちろん、「日本人が必ず誤訳する」のだから、このわたしが誤訳しても不思議はどこにもない。しかし、おかげでわたしの翻訳家としてのプライドは、キングギドラの引力光線を浴びた横浜マリンタワーのごとく、コッパミジンに砕け散ってしまったのだ。

クソッ、もしかして越前がこの本を書いたのは、オレという翻訳家を潰すためじゃね? いや、そうだそうだ、そうに違いない!! あいつはオレを破滅させようとしているんだぁぁぁぁ!!!!(←マタンゴを食べた土屋嘉男状態)

かくしてわたしは、越前の足を引っぱってやることを決意した(キッパリ)。方法は簡単。越前の訳書を精読し、アラ探しをしてやるのだ。『日本人なら〜』ほどの本を書いた人間がめったな誤訳をするとは思えないが、おかしな日本語表現ならあるかもしれない。もしも「真っ白な白馬に乗ってやってきた極悪人、その名はH・ゼインという名前だった」なんていう訳文があればしめたもの。ケチョンケチョンにコキおろし、翻訳界の笑いものにしてくれる。首を洗って待ってろよ、越前! ハッハッハッ、ホッホッホッ、フォッフォッフォッフォッフォッ(←なぜかいつのまにかバルタン星人になっている)


ということで、今回とりあげる作品はスティーヴ・ハミルトン『解錠師』(早川書房刊)である。ハミルトンといえば、『氷の闇を越えて』ではじまる私立探偵アレックス・マクナイト・シリーズが3作翻訳されているが、今回の作品は単発物のクライム・ノヴェル。ただし、クライム・ノヴェルといっても、主人公は17歳の少年であり、ヤングアダルト小説的な色彩が強い。事実この作品は、アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞や、英国推理作家協会賞スティール・ダガー賞などと同時に、優れたヤングアダルト小説に贈られるアレックス賞も受賞しているという。

では最初に、ストーリーの簡単な内容を説明しておこう。本書は主人公のマイクルが書いた回想録という体裁をとっている。読者は作品の冒頭で、まずふたつの情報をあたえられる。ひとつは、プロの金庫破り(解錠師)であるマイクルが、現在は刑務所に入っていること。もうひとつは、八歳のときに起こったある「事件」のせいで、彼が言葉を話せなくなっていることだ。ただし、その「事件」がどんなものであるかを、マイクルは頑なに語ろうとしない。また、物語も直線的には語られず、高校生のマイクルが解錠師になるまでの過程と、実際にプロの犯罪者として働きはじめてからの話が、交互に綴られていく。

本書を読んで感心するのは、まずこの構成である。物語が断片的にしか語られないため、読者はつねに三つの謎——「マイクルが8歳のときに起きた事件とはなにか?」「彼はなぜ解錠師になったのか?」「彼はどうして逮捕されたのか?」——を突きつけられている。このため、サスペンスが一瞬たりとも途切れることがない。

もうひとつ感心するのは、その語り口の巧みさだ。誠実さやユーモアと同時に、弱さや諦念をも秘めた主人公マイクルの語りには、読む者の心をゆっくりと、しかし確実につかんでいく力がある。

主人公が障碍を背負っているという設定は、ややもすれば自己憐憫につながりかねない。しかも、彼には悪い運命をみずから選びとってしまうところがあるため、読者がもどかしさを募らせる(もしくは神経を逆なでされる)危険も秘めている(このあたりは、一人称の語り口も含めて、村上春樹の作品を連想させるところがある)。しかし、ハミルトンはそうした危険の一歩手前でしっかりと踏みとどまり、読者の心を離さない。このバランス感覚はじつに見事だ。

もちろんこれは、翻訳のうまさに負う部分も大きいだろう。もし主人公の語り口がもう少しでも達者すぎたり感傷的すぎたりすれば、読者が鼻白んでしまってもおかしくないからだ。滑らかながらも、これ見よがしなところのない訥々とした文体——これがあるからこそ、読者は主人公へのシンパシーを失うことがないのである。

と、いささか分析的になってしまったが、実際にこの『解錠師』を読んでいたときのわたしは、すっかり作品世界に引きこまれていた。わたしたち読者は、主人公が最後に逮捕されることをあらかじめ知っている。それゆえ、心に傷を負った無垢な少年が、小さな悲劇の積み重ねが原因で犯罪世界へと墜ちていく姿に、息苦しいほどの悲しみと切なさを覚えてしまう。

しかも、本書は若き金庫破りを描いた犯罪小説であると同時に、ピュアな恋愛小説にもなっていて、こちらの話がまたやたらと切ない。いったいラストで二人はどうなるのか? 犯罪の世界に深くはまってしまった主人公の運命は? 悲しみの予感に震えつつも、わたしはページを繰る手をとめることができなかった。

そして迎えたクライマックス。ここでは意外な「真実」がついに明らかになるのだが……それを読んだ瞬間、わたしは驚きと興奮のあまり、思わず大声をあげてしまった。

「えっ、これって『×××』とまったく同じ話じゃないか!」

ということで、あとは曖昧な話しかできない。この『×××』がなんであるかを明かしてしまうと、ネタバレになってしまうからだ。ただし、「まったく同じ話」といっても、『解錠師』が『×××』のパクリというわけではない。基本設定が同じだけで、ストーリー自体はまったくの別物である。しかし一方で、いったん相似点に気づくと、基本設定以外にも符合する点がいくつか見えてくるのも確かだ。『×××』は(すくなくとも欧米では)非常に有名な作品だし、映画化までされているので、著者のハミルトンがそれをまったく知らずに書いたとは思えないのだが……どうなのだろう?

と、話が脇に逸れてしまったが、『×××』へのオマージュが込められているかどうかはべつにして、この『解錠師』は傑作だと思う。正直なところ、わたし自身はあまりに深く感動してしまったため、ここで強くプッシュするのがいささかためらわれるほどだ。「勧められて読んだけど、あんなの大したことないじゃん」などと言われようものなら、こっちが傷ついてしまいそうだからである。50にもなったオジサンを、ここまでナイーブにしてしまう小説はなかなかない。しかも、これを書いたのが自分とほぼ同い年の作家とは! この瑞々しい感性には、しみじみ驚くばかりである。


ということで、今回の偵察は終了である。結局、越前敏弥を貶めることには失敗し、わたしという人間の腹黒さを世間にさらしただけに終わってしまったことは、じつに遺憾である。もちろん、今回の原稿を書いたことで、越前に対するハンカンがますます募ってきたことはいうまでもない。

エチゼン! 許セン! おまえなんかこれでも喰らえ! バシッ!!(←ハリセン)。

矢口 誠 (やぐち まこと)

1962年生まれ。翻訳家・特撮映画研究家。光文社「ジャーロ」にて海外ミステリの書評を3年間担当。主訳書は『レイ・ハリーハウゼン大全』(河出書房新社刊)。最新訳書はアダム・ファウアー『心理学的にありえない』(文藝春秋)。好きな色は赤。好きなタイプの女性は沢井桂子(←誰も訊いてねぇーよ)。

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