「初心者のためのジム・トンプスン入門」というお題をあたえられ、考えてみるに、なるほど世界中で高い評価を受ける特異な作家にもかかわらず、日本での売れ行きを考えると「初心者」のかたが多いのはまちがいなさそう。

 そこで、最初に考えたアプローチは『キラー・インサイド・ミー』『ゲッタウェイ』、ウェストレイク脚本の『グリフターズ』などの映画をマクラに、トンプスンの原作を読もう、というアプローチだったのですが、意外にハードルが高いことに気づき、撤回。

(あ、そうは言っても、映画がダメとかいうわけではありません。映画を見て原作を読もうとすると、思わぬ傷を負うかも、ということです。なお、映像化については、小山正氏の『ミステリ映画の大海の中で』(アルファベータ)収録の「すれ違いの荒野——ジム・トンプスンの映像世界」をぜひご覧ください)。

 作品を読んでいないとしても、この欄の読者のあなたなら、ジム・トンプスンが「ノワール」というジャンルに分類される作家であることや、宝島社「このミステリーがすごい!」2001年版で海外部門の第1位に選ばれたことはご存じかもしれません。

 ここから受ける印象は、まず、この作家はダークな犯罪小説の書き手らしいということ(「ノワール」とはなにかというむずかしい問題がありますが、とりあえずはこのような理解ではずれてはいないと思います)。ということは、「このミス」1位になったといっても玄人受けしたおかげであって、幅広い読者を得るような作風じゃないんだろうな、といったところでしょうか。

 さらに問題なのは、あきらかに過去の世代の作家だということ。なにしろ、主要な作品が書かれたのが1950〜60年代ですからね。だったら、まずはグリシャムとかディーヴァーとかコナリーとかのホットな最新刊を読もう、となるのがふつうですよねえ。

 ま、それはそのとおりで、エンターテインメント小説が時とともに進歩を遂げてきたことを考えれば、現代最先端の作品のほうがおもしろいはずです。

 しかしながら、ていねいに場面を描いて物語世界を作っていく最近の小説とは異なり、トンプスンの作品には、贅肉をそぎ落とした描写や展開で読者を強引に引っぱっていく力があります(ときには暴走もしますが)。これこそ、時代性の賜物。なにしろ、TVもさほど普及していない時代に、人びとに安価な娯楽を提供することを目的に生産され、書店よりもドラッグ・ストアなどで売られていた小説なのです。あなたに一夜の楽しみを提供してくれることはまちがいないでしょう。

 ついでに、一生残る衝撃も。

 トンプスンへの入り口として、もっともよいのは短編集でしょうね。現在のところ、日本での最新刊にあたる『この世界、そして花火』です(いいそえれば、いまのところ扶桑社では続刊の予定はないのですが)。

 まずは、本書の中盤に入っている「四Cの住人」「永遠にふたりで」「システムの欠陥」からお読みください。これらは50年代の「ヒッチコックマガジン」や「EQMM」等の小説専門誌に掲載された作品ですから、当時の目利き編集者が折り紙をつけた、切れ味のよいミステリー、あるいはホラー短編に仕上がっています。

 つづいて、巻頭に収録された「油田の風景」にもどりましょう。これは地元の文芸誌に載ったトンプスン最初期の作で、妙ちきりんな油田労働者3人の悲劇とも喜劇ともつかない顛末を描いたスケッチふうの小品ながら、ファンには好評だった一作です(トンプスンの長編には、よくこんな調子のヘンテコなエピソードがまぎれこんでくるのです)。

 と、ここまで読みすすめれば、なあんだ、そんなにこわい作家じゃないな、と思っていただけるとはずです。なお、これらの短編には、十代からブルーカラーとして働きつづけた作家自身の職業体験がベースにあることは覚えておいてください。これは、長編群にも通底するトンプスンの重要な要素です。彼の作品には自伝的な側面が見られ、本書に収録された「酒びたりの自画像」などはその典型です。ただし、本書のなかでもこの作品と未完の「深夜の薄明」は上級者むけなので、今回は読み飛ばしてけっこう。

 では、いよいよ巻末に収録された表題作「この世界、そして花火」に進みましょう。じつはこの作品、中編とはいえトンプスンの力量が十全に発揮された、代表作のひとつなのです。


 さあ、いかがでしたか?

 不道徳? 不謹慎? 不愉快? ごもっとも。

 これがトンプスンのノワールなのです。

 こんなねじれた人間心理を読まされるのはツラい、と思われるかたもいらっしゃるでしょう。そんなあなたには、最初に読む長編として『取るに足りない殺人』をおすすめします。これは、トンプスンがペーパーバック・ライターに転じた記念すべき第1作です。完全犯罪を画策する男の物語ですが、映画館を舞台にしていて、その経営の駆け引きなども展開し、凝ったプロットでぐいぐい読めます。その次には、青春小説的趣きをそなえた『深夜のベルボーイ』や、比較的ストレートな犯罪小説の『アフター・ダーク』をどうぞ(ただし、思わぬ暗黒が口をあけていますから、ご注意を)。

 あるいは、本格パズラー好きなあなたも、ノワールを敬遠されるかもしれませんね。でも、トンプスンの小説が、意外にミステリー的な構成・結構をそなえていることも申しそえておきたいと思います。『取るに足りない殺人』もそうですが、『荒涼の町』や、男性読者を直撃する『失われた男』などは、ミステリー劇としても堪能できるはずです(前者には、『おれの中の殺し屋』の主人公が再登場しますが、単独長編として読めますし、むしろこちらから読まれるほうがいいかもしれません)。

 いっぽうで、「この世界、そして花火」の魅力にヤラレたというあなたは、もうだいじょうぶ。心おきなく、最高傑作の呼び声高い『おれの中の殺し屋』や、そのあわせ鏡のような作品で、例の「このミス」1位に選ばれた『ポップ1280』をおすすめします。トンプスンの真髄を味わってください。

 これですっかりトンプスンへの耐性ができたあなたには、『残酷な夜』、『死ぬほどいい女』が待っています。文字どおり、心も体もバラバラにしてくれる極北の作品です。

 ……と、こんなふうに書きながらお詫びしなければならないのですが、『取るに足りない殺人』『深夜のベルボーイ』『アフター・ダーク』『死ぬほどいい女』は出版社にも在庫はなく、入手しにくい状態になっています。

 なぜ扶桑社はすぐ品切れにするのだ、文庫化しないのだ、とお叱りを受けるところですが、最初にすこし触れたように、じつはトンプスンはじゅうぶんな読者を獲得するにいたっていません。「このミス」のおかげで突出して売れた『ポップ1280』でも製作部数は3万部ちょっとで、他の年度の1位にくらべると落ちると思います。販売努力がたりないからだ、とお怒りのむきもあるでしょうが、そもそも部数が見こめない作品に宣伝費をかけるのがむずかしいことは、ご理解いただけると思います(扶桑社の販売努力の例としては、本サイトに掲載された「ケッチャム鬼畜営業日記」をご参照ください)。実情を申しあげれば、旧作の再出庫とあわせてなんとか新刊を出してきたけれど、採算割れで回復できなくなってしまったというところなのです。テコ入れの意味もあって『ジム・トンプスン最強読本』(これも入手困難)というガイドブックを作ったことも、いまはむかしの話となってしまいました(先の小山正氏の論考も、もとはこの本に寄せられたものだったのです)。

 最後に、この「初心者のためのジム・トンプスン入門」は、本来ならば、当社で一貫してジム・トンプスンの翻訳を担当された三川基好氏が書かれるべきところです。しかし、その三川さんが亡くなられて、はや5年。書いていただくことはかないませんし、もし依頼されても「Tさん書いてよ」とこちらに投げてきたにちがいないと思います(ご本人は、翻訳は大好きだけど「訳者あとがき」を書くのは大嫌い、とおっしゃっていました)。三川さんにとってトンプスンは特別な作家で、自動書記のように訳せる、とおっしゃっていました。その訳業もふくめて、ぜひ実際の作品に触れてみてください。

 読後の責任は持てませんが。

扶桑社T

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扶桑社ミステリーというB級文庫のなかで、SFホラーやノワール発掘といった、さらにB級路線を担当。その陰で編集した翻訳セルフヘルプで、ミステリーの数百倍の稼ぎをあげてしまう。現在は編集の現場を離れ、ガラにもなく法務を担当。

twitterアカウントは @TomitaKentaro

扶桑社ミステリー通信

http://www.fusosha.co.jp/mysteryblog/


【特報】(事務局より)

滝本誠・責任編集《Edition Noir no.1》

『JIM THOMPSON BOOK』ついに発刊!

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112頁/初版300部

2012年11月20日発行

定価 1,000円

ジュンク堂吉祥寺店にて

委託販売中

電話:0422-28-5333

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:在庫や取り置き等は直接書店にご確認ください)

◆内容

  • アルバータ、夫ジム・トンプスンを語る(佐々田雅子訳)
  • 呪われた農場 キーチ・ヒルズの緋色の恐怖(柳下毅一郎訳)
  • 一巻の終わり(佐々田雅子訳)
  • Now and On Earth(吉野仁訳)
  • Jim Thompson: the patron of the poet of the psychopath inside us all by Tim Willocks(横山啓明訳)
  • 蚯蚓(みみず)腫れは聖痕に非ず 『キラー・インサイド・ミー』が映像化によって失ったもの(評論家・港岳彦)
  • 編者のあとがき(滝本誠)

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【当サイト掲載】扶桑社Tのひとりごと

【毎月更新】初心者のための作家入門講座 バックナンバー

【当サイト掲載】初心者のためのノワール入門ベスト5(執筆者・杉江松恋)