昨日の東東京読書会レポートはいかがでしたでしょうか? 本日は、門野集さんが当日の参加者にあてて送ったメッセージの全文を紹介いたします。末尾にダウンロード可能なpdfファイルも添付しましたので、どうぞご利用ください。
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読書会にご参加のみなさんへ
このたびはウィリアム・アイリッシュの『暁の死線』をお読みくださり、ありがとうございます。私にとって、もっとも大切な小説の一つであるこの作品の読書会に参加できないのがとても残念です。
今から三十年以上も前、中学生だったときに『暁の死線』を物語の設定そのままに一晩で読み終えたときの興奮は今でもよくおぼえています。その一晩で、アイリッシュという作家と、稲葉明雄という翻訳家は私にとって特別な存在になりました。
それから数年後、絶版になっていた単行本や古い雑誌まで探しまわってアイリッシュを読みあさったのち、私は図々しくも本書の訳者である稲葉さんにファンレターを送りつけて、アイリッシュに対する思いを熱く訴えたのでした。当時の創元推理文庫の奥付には、翻訳者の自宅住所が記されていたのが幸いでした。稲葉さんからは思いがけず丁寧なご返事をいただき、最初は手紙で、やがて決まって深夜にかかってくる長電話で(稲葉さんは稀代の電話魔として知られていました)、アイリッシュ談義にふける日々がはじまりました。そして稲葉さんはミステリ好きの大学生でしかなかった私に、いずれアイリッシュという作家の全貌を伝える、決定版ともいうべき傑作短編集を一緒にまとめようと夢のような約束までしてくださいました。結局その企画は稲葉さんが亡くなったのち、私の手でささやかな形で実現することとなりましたが、その際に収録する作品の選択はかつての稲葉さんとのアイリッシュ談義を思い出しながら進めたこともあり、あくまでも稲葉さんとともに編纂した傑作選と思っています。
自分語りは恥ずかしい限りですが、大学卒業間近のこと、私に初めて翻訳の仕事をくださった編集者に将来の進路について相談したとき、「翻訳者を目指すのであれば力になるが、アイリッシュの翻訳をしたいというのであればそれは考えが甘い」と諭されました(もちろん、私も稲葉さんをさしおいて、自分でアイリッシュの作品を訳すなどというおこがましいことは考えていませんでしたが)。結局卒業後、私は別の道に進んで現在に至っており、翻訳だけを仕事としている者ではありませんが、どういうわけかちゃっかりとアイリッシュの小説をたっぷりと訳しつづけてきたのですから幸運であったとしか言いようがありません。
読書会に参加するみなさんへのコメントとして、本来であればアイリッシュという作家とその作品にいっそう興味を持っていただけるよう、何よりもまず彼の生涯、作品の背景や分析、トリビア的なエピソードや情報をあれこれと記すべきなのかもしれません。実際、アイリッシュの生涯は興味深いエピソードに事欠きません。幼少時の複雑な家庭環境、純文学作家を目指して挫折した経緯、同性愛者であり女性との恋愛とは終生無縁であったこと、長いあいだ母親と二人きりで隠遁者のようにホテル暮らしをつづけたこと。
また、彼の執筆作法についてもいろいろと紹介したいことがあります。たとえば、長篇小説を書く前に、たいていはお試しとばかり同じ設定の短篇を書いていること。この『暁の死線』にも「バスで帰ろう」というタイトルで訳されている、ひな形である短篇があります。その両者の比較、たとえばどの場面を足して、どのように話をふくらませているか読み比べると、アイリッシュの小説としての魅力がどこからわき出てくるのかうかがえて興味深いものがあります。また、主人公二人の容姿、とりわけ顔の描写が皆無に等しいことにもお気づきになられたことと思いますが、アイリッシュはそもそも個々の人間を描くこと、登場人物にリアリティを与えることにはあまり関心がなかったのではないかと思えます。
こうした調子で書き連ねていけばきりがないのですが、それを承知で最初に長々と昔話めいたことを記したのは、一つの小説に(それが『暁の死線』のように、欠点や矛盾をたっぷりはらんだ、不完全な小説であっても)惚れ込むことで、現実の人生がずいぶんと変わることがあることを、何よりもお伝えしたかったからです。
それにしても、はたして『暁の死線』という小説には、今でも読者を主人公たちに素直に感情移入して興奮させることができるだけの力があるのでしょうか。読書会に出席できていたら、それこそが何よりも知りたいことの一つでした。
なにしろここに描かれているのは、恋とすら呼べないほどに淡くはかない男と女の刹那的な物語です。アイリッシュの人間の描き方は、というよりも人間理解は、現代の小説と比べてしまえば単純で、そのためにとても古風な(古くさい、とはっきり言ってしまってもいいと思います)印象を与えます。そして何よりも、朝6時までに事件を解決しなければならないという刻限が主人公が勝手に決めたものでしかないという、物語の設定の根本的な不自然さがあります。はたしてみなさんがどのような感想をもたれたのか、少しばかり心配です。私が理想と仰いだ稲葉さんの文章にしても、今となっては古めかしく違和感をおぼえられてしまうのでしょうか(正直なところ、三十年前でも十分に古めかしい文体ではありましたが)。
一方的な思い込みといわれればそれまでですが、どうやら私とアイリッシュには因縁めいたものがあるようで、アイリッシュに関する翻訳が初めて活字になった日も、傑作短篇集をまとめることが決まった日も、私にとっては個人的に特別な意味がある日に重なり、そのたびに思いがけない偶然に驚かされました。そして、長い時間をかけて訳した彼の伝記(『コーネル・ウールリッチの生涯』として早川書房から刊行されました)ができあがり、その見本が届いたのは、母が亡くなった朝でした。実は、『暁の死線』の読書会が開かれている今日も、我が家にとってとても大切な日であるために、出席することかなわずこうしてメッセージのみお届けすることになったわけですから、不思議なものです。
最後にもう一つ偶然について記すなら、かつて私が稲葉明雄さんと初めて会ってお話ししたのは、他ならぬここ神楽坂でした。あのとき初対面の私に対して稲葉さんがにっこり笑って最初に口にしたことばは、「ああ、あなたが背が高い人でよかった。安心しました」でした。その思いがけないひとことは、今でも忘れられません。
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