非英語圏ミステリー賞あ・ら・かると 北欧編バックナンバー

◆アイスランド推理作家協会 血の滴賞

 今までに紹介したスウェーデン、デンマーク、ノルウェーでは遅くとも20世紀初頭にはミステリー創作が盛んに行われるようになっていたが、一方で人口も少なく地理的にもほかの北欧諸国から遠く隔たった島国のアイスランドでは最近までミステリーが書かれていなかった——とこの原稿を書くまで思い込んでいたのだが、調べてみるとまったくそんなことはなかった。アイスランドの現在の人口は約32万人で、これは秋田市の人口にほぼ等しい。そんなアイスランドでは数は少ないものの、100年前からミステリーが書かれていた。アイスランド最初のミステリー小説はヨウハン・マグヌース・ビャルナソン(Jóhann Magnús Bjarnason, 1866-1945)が1910年に発表した短編「アイスランドのシャーロック・ホームズ」(Íslenskur Sherlock Holmes、邦訳なし)だそうだ。

 アイスランドでは1999年にアイスランド推理作家協会(Hið íslenska glæpafélag)が設立されている。英語名称が「The Icelandic Crime Syndicate」であることからアイスランド・クライム・シンジケートとカタカナ書きされる場合もある。この協会では2007年から前年の最優秀ミステリーに対して血の滴賞(Blóðdropinn)を授与している。日本で知られたアイスランドのミステリー作家というとアーナルデュル・インドリダソンとイルサ・シグルザルドッティルぐらいしかいないが、この2人はそれぞれ2008年、2011年の血の滴賞受賞者である(受賞作自体は未邦訳)。

 アーナルデュル・インドリダソンは1997年にデビューした作家で、日本では去年から紹介が始まった。邦訳第1作の『湿地』は早川書房の年間ミステリーランキング(『ミステリマガジン』2013年1月号)で海外部門1位に輝いたほか、翻訳ミステリー大賞の最終候補になるなど高い評価をうけた。続いて今年7月に刊行された『緑衣の女』は英国推理作家協会ゴールド・ダガー賞の2005年の受賞作。ちなみにこの年はゴールド・ダガー賞の候補になった6作のうち実に4作が非英語圏の作品だった。『緑衣の女』以外は、フランスのフレッド・ヴァルガスの『裏返しの男』、スイスのフリードリヒ・グラウザー(ドイツ語作家)の『狂気の王国』、そしてノルウェーのカリン・フォッスムの未邦訳作品。このような状況を受けてか、翌2006年からは翻訳ミステリーのみを対象とするインターナショナル・ダガー賞が新たに設置されている。

 イルサ・シグルザルドッティルは2011年に『魔女遊戯』が訳されている。2005年発表のイルサ・シグルザルドッティル初のミステリー作品で、弁護士トーラ・シリーズの第1作である。

 アイスランド・ミステリーの邦訳はいまのところ以上の3冊だけだと思うが、ほかに東京創元社からはヴィクトル・アルナル・インゴウルフソンの『フラテイ島の暗号』(仮題 / 原題Flateyjargáta)の刊行が予告されている。1978年にデビューした作家だが寡作で、2002年のこの作品が4作目の長編。2004年のガラスの鍵賞(北欧最優秀ミステリー賞)ノミネート作である。

◆フィンランド・ミステリー協会 推理の糸口賞

 フィンランド・ミステリーの邦訳は昨年まではマウリ・サリオラ『ヘルシンキ事件』とペンッティ・キルスティラ『過去よさらば』の2冊ぐらいしかなかったが、今年初めにレーナ・レヘトライネンの『雪の女』が刊行され、続いて今月には同じくマリア・カッリオ・シリーズの『氷の娘』が刊行された。

 フィンランドではやはりほかの北欧諸国と同じように古くからミステリー創作が盛んだったが、邦訳は少なく、英語など他言語への翻訳も比較的少ない。これはフィンランド語という言語が関係している。北欧5か国の言語のなかでも特にスウェーデン語・デンマーク語・ノルウェー語は非常によく似た言語であり、アイスランド語はやや離れているが、やはり近い関係にある言語である。これらの言語はさらにドイツ語や英語とも親戚関係にある(ついでに書くと、この連載で今までに扱ったスペイン語、イタリア語、フランス語とも遠い親戚にあたる)。一方、フィンランド語はこれらの言語とは一切系統関係がない、文法から何からまったく違う言語である。そのためフィンランド語の文芸作品はその他のヨーロッパ諸語に翻訳される機会が比較的少なく、その長いミステリーの歴史はフィンランド国外ではあまり知られていない。英語等に翻訳されることが少ないため、その評判が日本にもあまり伝わってこず、邦訳も少なかったのである。

 マウリ・サリオラ『ヘルシンキ事件』(1961年/邦訳1979年)は国際的に高く評価されたフィンランド・ミステリー。英語・フランス語・ドイツ語などに翻訳されており、仏訳版は1969年のフランス冒険小説大賞を受賞している。弁護士のオスモ・キルピが探偵役を務めるシリーズの1作で、大胆な伏線と意外な結末が冴える傑作である。オスモ・キルピのシリーズは全部で4作あるらしいが、この1作しか邦訳されていないのが残念でならない。

 フィンランドでは1984年にフィンランド・ミステリー協会(Suomen dekkariseura)が設立されており、翌年から国内の年間最優秀ミステリーに対して推理の糸口賞(Vuoden johtolanka -palkinto)を授与している。これは小説以外にラジオドラマやテレビドラマ、またノンフィクション作品なども対象になる。受賞作で邦訳があるのは1997年の受賞作であるレーナ・レヘトライネン『雪の女』のみ。

 ペンッティ・キルスティラは1987年と1993年にこの賞を受賞している。邦訳のある『過去よさらば』はハンヒヴァーラ警部シリーズの作品。見知らぬ男が警察署を訪れ、ハンヒヴァーラ警部の目の前で突然拳銃自殺する。身元が分かるような所持品はなく、その意図も不明。この不可解な事件を追っているうちに、どうやらそれに関連するらしい新たな殺人が——というストーリー。

 ほかに、ミステリーに近接する作品としてソフィ・オクサネンの『粛清』がある。また児童文学まで見渡せば、姉妹作家のシニッカ・ノポラ、ティーナ・ノポラによる《ヘイナとトッスの物語》シリーズ( 『麦わら帽子のヘイナとフェルト靴のトッス : なぞのいたずら犯人』、『トルスティは名探偵』、『大きいエルサと大事件』)などもある。

 以上はフィンランド語で書かれた作品だが、フィンランドではスウェーデン語も公用語になっており、スウェーデン語で創作活動を行う作家もいる(スウェーデン語母語話者は人口の5パーセントほど)。その代表的な作家がムーミンの生みの親であるトーベ・ヤンソンである。大人向け作品も書いており、『誠実な詐欺師』はミステリーに分類されることもある。

 ほかにも関連する作品を挙げておこう。ハンヌ・ライアニエミ『量子怪盗』はフィンランド出身の作家が英語で執筆したSF長編。量子怪盗ジャン・ル・フランブールの活躍を描いた作品で、随所でモーリス・ルブランのアルセーヌ・ルパン・シリーズが意識されている。だいぶ先だが、2015年6月にはシリーズ第2作『複雑系王子』(原題 The Fractal Prince)が邦訳される予定。

 今年2月に刊行されたジェイムズ・トンプソン『極夜 カーモス』は、フィンランド在住のアメリカ人作家がフィンランドを舞台にして英語で書いたミステリー。

◆【北欧5か国】ガラスの鍵賞

 さて、今まで北欧5か国それぞれのミステリー賞を紹介してきたが、北欧のミステリー賞で一番有名でかつ重要なのは北欧5か国全体の最優秀ミステリーに毎年贈られるガラスの鍵賞だろう。英語をカタカナ表記してグラス・キー賞、あるいはスウェーデン語(Glasnyckeln)をカタカナ表記してグラスニッケル賞とされたり、意味をとってベスト北欧推理小説賞と書かれたりもする。国際推理作家協会(AIEP アイープ)北欧支部のスカンジナヴィア推理作家協会(1991年設立)が授与する賞で、その名称はダシール・ハメットの長編『ガラスの鍵』に由来する。

 1992年から授与されているが、当初はスウェーデン、デンマーク、ノルウェーの3か国の作品が対象であり、フィンランドの作品が最初にノミネートされたのは2000年、アイスランドの作品が最初にノミネートされたのは2001年である。ただし2001年はフィンランドからのノミネート作がなかったので、5か国の作品で賞を競うようになったのは2002年からということになる。ただそれ以降も選考対象となるのはスウェーデン語・デンマーク語・ノルウェー語の作品のみであり、アイスランドとフィンランドの作品は3つの言語のいずれかに翻訳された場合にのみノミネート資格を得ることができた(※少なくとも2006年まではそうだったが、現在はまた選考方法が変わっているかもしれない)。2002年から今年までの12年間の受賞作は、スウェーデン5作品、デンマーク2作品、ノルウェー2作品、アイスランド2作品、フィンランド1作品。

 ちなみにガラスの鍵賞はスウェーデン語で「Glasnyckeln」、デンマーク語で「Glasnøglen」、ノルウェー語で「Glassnøkkelen」、アイスランド語で「Glerlykillinn」、フィンランド語で「Lasiavain-palkinto」。これだけ見ても、北欧5か国の言語でフィンランド語だけが別系統の言語だということがよく分かる。

 以下に邦訳のある受賞作をまとめておく。

  • 1992年 ヘニング・マンケル『殺人者の顔』(スウェーデン)
  • 1993年 ペーター・ホゥ『スミラの雪の感覚』(デンマーク)
  • 1997年 カリン・フォッスム『湖のほとりで』(ノルウェー)
  • 2001年 カーリン・アルヴテーゲン『喪失』(スウェーデン)
  • 2002年 アーナルデュル・インドリダソン『湿地』(アイスランド)
  • 2003年 アーナルデュル・インドリダソン『緑衣の女』(アイスランド)
  • 2005年 アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレム『制裁』(スウェーデン)
  • 2006年 スティーグ・ラーソン『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女』(スウェーデン)
  • 2008年 スティーグ・ラーソン『ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士』(スウェーデン)
  • 2009年 ヨハン・テオリン『冬の灯台が語るとき』(スウェーデン)
  • 2010年 ユッシ・エーズラ・オールスン『特捜部Q—Pからのメッセージ—』(デンマーク)



 受賞作自体は邦訳されていないが、スウェーデンのホーカン・ネッセル、ノルウェーのジョー・ネスボもガラスの鍵賞の受賞者である。

 ノミネート作で邦訳があるものも挙げておく。

  • スウェーデン
    • シャスティン・エークマン『白い沈黙』(1994年)
    • ホーカン・ネッセル『終止符(ピリオド)』(1995年)
    • ヘニング・マンケル『目くらましの道』(1996年)
    • リサ・マークルンド『爆殺魔(ザ・ボンバー)』(1999年)
    • カーリン・アルヴテーゲン『裏切り』(2004年)
  • デンマーク
    • レナ・コバブール&アニタ・フリース『スーツケースの中の少年』(2009年)
  • フィンランド
    • レーナ・レヘトライネン『雪の女』(2002年)
    • レーナ・レヘトライネン『氷の娘』(2003年)


 なお以前は違っていたが、近年は基本的にそれぞれの国の以下の賞の受賞作が各国の代表としてガラスの鍵賞にノミネートされているようである。

  • スウェーデン推理作家アカデミー 最優秀長編賞
  • デンマーク推理作家アカデミー ハラルド・モーゲンセン賞
  • (ノルウェー)リヴァートンクラブ ゴールデンリボルバー賞
  • アイスランド推理作家協会 血の滴賞
  • フィンランド・ミステリー協会 推理の糸口賞

 今年日本では北欧のミステリーが10冊翻訳出版されている(2013年の非英語圏ミステリー邦訳一覧 http://www36.atwiki.jp/asianmystery/pages/217.html )。来週にはマイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー『笑う警官』のスウェーデン語からの新訳も出るし、10月にはデンマーク出身のクリスチャン・モルクの『狼の王子』(ハヤカワ・ミステリ)、スウェーデンのモンス・カッレントフトの『天使の死んだ夏』(創元推理文庫)、ノルウェーのジョー・ネスボの『ヘッドハンターズ』(講談社文庫)と『スノーマン』(集英社文庫)も控えている。日本の北欧ミステリーブームはまだまだ続きそうである。

 さて、来月の「非英語圏ミステリー賞あ・ら・かると」は中国編ですが、執筆は特別にブログ「トリフィドの日が来ても二人だけは読み抜く」http://yominuku.blog.shinobi.jp/ )で中国のミステリーやSF、ライトノベルの紹介などをしている阿井幸作さんにお願いしました。お楽しみに!

松川 良宏(まつかわ よしひろ)

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 アジアミステリ研究家。『ハヤカワ ミステリマガジン』2012年2月号(アジアミステリ特集号)に「東アジア推理小説の日本における受容史」寄稿。「××(国・地域名)に推理小説はない」、という類の迷信を一つずつ消していくのが当面の目標。

 Webサイト: http://www36.atwiki.jp/asianmystery/

 twitterアカウント: http://twitter.com/Colorless_Ideas

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