以前にこの連載で「日本のミステリー小説の英訳状況」を紹介したことがあるが、今回はフランス語への翻訳状況を紹介する。2か月ほど前、中村文則がアメリカのミステリー賞、デイヴィッド・グーディス賞の2014年の受賞者に決定した。日本の作家が英語圏のミステリー賞を受賞するのはこれが初めてだが、フランス語圏の方に目を向けると、1989年に夏樹静子が『第三の女』で冒険小説大賞(Prix du Roman d’Aventures、「フランス犯罪小説大賞」とも訳される)を受賞しており、2010年には東野圭吾が『むかし僕が死んだ家』でコニャック・ポラール・フェスティヴァル賞(Prix Polar de Cognac)を受賞している。また受賞には至らなかったが、島田荘司の『占星術殺人事件』は2010年のフランス推理小説大賞(Grand prix de littérature policière)にノミネートされた。
(それぞれの賞については「非英語圏ミステリー賞あ・ら・かると 第3回 フランス編」を参照のこと)
翻訳点数を数えてみても、日本のミステリー小説の英訳と仏訳はだいたい同じぐらいの数である。欧米への進出というとまずは英訳が語られるが、日本のミステリーの欧米での受容について考えるには、英語だけでなくフランス語への翻訳状況にも目を向ける必要があるだろう。
※今回は日本のミステリー小説の仏訳版のamazonリンクを多数貼るが、日本のamazonに登録された書籍タイトルは綴りが間違っていることも多いので注意。日本のamazonにデータがない場合はフランスamazonへのリンクを貼る。
◆主な作家の英訳状況と仏訳状況の比較
英語にしろフランス語にしろ、同じような作品が訳されているのだろうと多くの人は想像するかもしれないが、実は、結構ラインナップには違いがある。たとえば東野圭吾は、英訳はまず2004年に『秘密』が出て、その後2011年・2012年にガリレオシリーズの『容疑者Xの献身』『聖女の救済』が出た。ほかに、その2作に続くガリレオシリーズ長編第3作『真夏の方程式』や、加賀恭一郎シリーズの『悪意』、ノンシリーズ作品の『白夜行』も英訳出版が予定されている。
一方、フランスではまず2010年に『むかし僕が死んだ家』が出て、これがコニャック・ポラール・フェスティヴァル賞を受賞。続いて2011年・2012年に『容疑者Xの献身』『聖女の救済』が出て、2013年には原子力発電所を標的とするテロ事件を描いた『天空の蜂』が刊行された。来月には英訳よりも早く、『真夏の方程式』の仏訳が刊行される予定である。
ちなみに東野圭吾の『秘密』はフランス語訳は出ていないが、フランスで映画化されている。小説の映画化ではなく、映画版『秘密』のリメイクのようだ。ほかに日本のミステリー小説では、江戸川乱歩の「陰獣」もフランスで映画化されている(こちらは小説の仏訳もある)。
伊坂幸太郎は、英訳があるのは『ゴールデンスランバー』と短編「死神の精度」で、一方フランスでは『オーデュボンの祈り』と『重力ピエロ』が出ている。仏訳版『オーデュボンの祈り』は2012年に、ホラーやダーク・ファンタジー、サイコ・サスペンス、SFなどを対象とするフランスの文学賞、マスタートン賞(http://masterton.noosfere.org/)の翻訳長編部門の受賞作になっている。
マスタートン賞翻訳長編部門の過去の受賞作には『オーデュボンの祈り』のほかに、ポピー・Z・ブライト『絢爛たる屍』、ディーン・クーンツ『汚辱のゲーム』、クライヴ・バーカー『冷たい心の谷』、ジャック・ケッチャム『オフシーズン』、ギレルモ・デル・トロ&チャック・ホーガン『ザ・ストレイン』などがある。今年の受賞作はチャイナ・ミエヴィル『クラーケン』で、ほかにローレン・ビュークス『シャイニング・ガール』やリチャード・キャドリー『サンドマン・スリムと天使の街』などがノミネートされていた。
仏訳版『オーデュボンの祈り』は2012年にもう一つ、ズーム・ジャポン賞(http://www.zoomjapon.info/prix.php)というのも受賞している。『ズーム・ジャポン』(Zoom Japon)はフランス・パリで発行されている月刊のフリーペーパー。2010年に創刊され、日本の最新ニュースや文化などをフランス語で伝えている。ズーム・ジャポン賞(Prix Zoom Japon)はその創刊1周年を記念して創設された賞で、2012年から授与されている。前年に日本語からフランス語に翻訳された作品が対象で、小説部門と漫画部門がある。審査をするのは『ズーム・ジャポン』の編集者と読者。小説部門の第1回(2012年)の受賞作が伊坂幸太郎『オーデュボンの祈り』で、翌2013年は中村文則の『掏摸(スリ)』が受賞。2年連続でミステリーが受賞していたが、今年の受賞作は目取真俊『魂込め(まぶいぐみ)』だった。
石田衣良の短編シリーズ《池袋ウエストゲートパーク》は、英訳は短編1編のみだが、フランスでは単行本が第3巻まで出ている(収録作は日本版ときれいに一致はしないようである)。仏訳者のアンヌ・バヤール=坂井氏は『池袋ウエストゲートパーク』(第1巻)の仏訳により、2009年の野間文芸翻訳賞を受賞している(受賞時のインタビュー ※日本語)。
赤川次郎は米国『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』に短編が載ったことはあるが、英語学習者向けに日本の講談社英語文庫で出版された『三姉妹探偵団』と『真夜中のための組曲』の2冊を除けば、英訳単行本は1冊も出ていない。一方、フランスでは『マリオネットの罠』と『ひまつぶしの殺人』が刊行されている。
綾辻行人は長編の英訳は『Another』だけだが、フランスでは2009年に館シリーズの第1作『十角館の殺人』が出ている。どうも出版社がつぶれてしまった(?)ようで、シリーズの続巻は出ていない。
宮部みゆきのミステリーで英訳があるのは『火車』『R.P.G.』『クロスファイア』『魔術はささやく』『龍は眠る』の5作。このうち『火車』『R.P.G.』『クロスファイア』『魔術はささやく』は仏訳がある。ほかに『淋しい狩人』も仏訳が出ている。
原?は英訳はない。フランスでは『そして夜は甦る』が出ている。
◆日本のアガサ・クリスティー、日本のジョルジュ・シムノン、日本のフレデリック・ダール
横溝正史は英訳は『犬神家の一族』のみ。フランス語訳は『犬神家の一族』『八つ墓村』『悪魔の手毬唄』の3作がある。フランスのミステリー作家のポール・アルテによると、横溝正史はフランスでは「日本のアガサ・クリスティー」と呼ばれることもあるらしい(南雲堂『本格ミステリー・ワールド2009』、p.126)。
松本清張の長編の英訳は『点と線』『砂の器』『霧の旗』の3作。フランス語訳は『点と線』『砂の器』『聞かなかった場所』の3作。清張はフランスでは「日本のシムノン」として売り出されていて、その愛称がそれなりに定着しているようだ。
1987年10月、フランスのグルノーブルで813協会とグルノーブル市の主催で世界ミステリー祭が開催されたが、清張はこれに招待されて参加している。当時、清張作品の仏訳は『点と線』と『砂の器』の2作が出ていた(『砂の器』の仏訳はミステリー祭の直前の刊行)。清張は出席が決まったのち運営委員会と交渉し、日本のミステリー小説の現状を紹介する40分間の講演の時間を確保した。講演の中で清張は、日本のミステリー小説は外国のと比べて決して劣ることはなく、むしろ優っているぐらいで、世界でも第一級だと述べたという(松本清張「グルノーブルの吹奏」『小説現代』1988年1月号、松本清張「国際推理作家会議で考えたこと ネオ「本格派」小説を提唱する」『文藝春秋』1988年1月号)。
西村京太郎の長編の英訳は『ミステリー列車が消えた』のみ。フランス語訳は『ミステリー列車が消えた』のほか、『名探偵なんか怖くない』がある。ポール・アルテによると、西村京太郎はフランスでは「日本のフレデリック・ダール」と呼ばれることもあるそうだ(南雲堂『本格ミステリー・ワールド2009』、p.126)。
ほかに、英訳がなくて仏訳がある日本の(広義の)ミステリーには以下のようなものがある。
- 阿部和重『シンセミア』
- 乙一『暗いところで待ち合わせ』(仏amazon)、『銃とチョコレート』
- 桐野夏生『柔らかな頬』『IN』
- 長尾誠夫『源氏物語人殺し絵巻』『黄泉国の皇子』
- 夏樹静子『わが郷愁のマリアンヌ』(仏amazon)
- 松井今朝子『吉原手引草』
- 山村美紗『花の棺』
- 夢野久作『ドグラ・マグラ』
どれを「ミステリー小説」として数え上げるかにもよるが、日本のミステリー小説の英訳はだいたい70冊ほどある。仏訳は60冊ほどである。そして重複していないものも結構あるわけだから、つまりは日本語が読めない欧米人でも、英語とフランス語が読めればとりあえずは日本のミステリー小説を100冊ぐらいは読めるということになる。これは意外と多いと言っていいかもしれない。
先ほども書いたが、来月には東野圭吾『真夏の方程式』の仏訳が出る予定である。また、『黒死館殺人事件』『ドグラ・マグラ』『虚無への供物』の系譜に名を連ねるのがふさわしいアンチ・ミステリーの傑作と三橋曉氏が評した辻仁成『オキーフの恋人 オズワルドの追憶』(小学館文庫版巻末解説参照)も、同解説によれば仏訳の刊行が予定されているそうだ。
◆出版社
東野圭吾作品の仏訳は、フランスの出版社「Actes Sud」のミステリー叢書《Actes noirs》(http://www.actes-sud.fr/actes-noirs)およびその廉価版の《Babel noir》で刊行されている。これらの叢書はデイヴィッド・ゴードン『二流小説家』など英語圏の作品も刊行しているが、スティーグ・ラーソンの《ミレニアム》など非英語圏の作品を多く刊行していることが特徴。ほかにスウェーデンのラーシュ・ケプレル、カミラ・レックバリ、デンマークのロデ・ハマ&セーアン・ハマ、ドイツのネレ・ノイハウス、ヴォルフラム・フライシュハウアー、アンドレア・M・シェンケル、スペインのホセ・カルロス・ソモサらの作品の仏訳が刊行されている。1週間ほど前には、韓国を代表するミステリー小説である金聖鍾(キム・ソンジョン)の『最後の証人』がこの叢書で刊行された(この作品は邦訳もある)。日本からは東野圭吾の作品以外に、松本清張『聞かなかった場所』、そして坂東眞砂子『狗神』が出ている。
日本のミステリー小説の仏訳がこのようにフランスのミステリー叢書で刊行されるのは実は例外的なことだ。日本のミステリーの仏訳はそのほとんどが、アジア文学の専門出版社であるフィリップ・ピキエ社(http://www.editions-picquier.fr/)から出ている。この出版社から仏訳が出ている作家には赤川次郎、伊坂幸太郎、石田衣良、江戸川乱歩、岡本綺堂、小池真理子、長尾誠夫、中村文則、西村京太郎、原?、松井今朝子、松本清張、水上勉、宮部みゆき、山村美紗、夢野久作、横溝正史、吉田修一らがいる(このうちの何人かは、他の出版社からも仏訳が出ている)。
■関連リンク■
フランス語に翻訳された日本の推理小説の一覧
http://www36.atwiki.jp/asianmystery/pages/54.html
英訳された日本の推理小説の一覧
http://www36.atwiki.jp/asianmystery/pages/53.html
松川 良宏(まつかわ よしひろ) |
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アジアミステリ研究家。『ハヤカワ ミステリマガジン』2012年2月号(アジアミステリ特集号)に「東アジア推理小説の日本における受容史」寄稿。「××(国・地域名)に推理小説はない」、という類の迷信を一つずつ消していくのが当面の目標。 Webサイト: http://www36.atwiki.jp/asianmystery/ twitterアカウント: http://twitter.com/Colorless_Ideas |