今回の記事では、世界の古典的名作ミステリーを英訳出版するイギリスの叢書《プーシキン・ヴァーティゴ》(2015年9月創刊)を紹介するが、その前にまずは先日発表されたインターナショナル・ダガー賞の最終候補(ショートリスト)に触れておきたい。

◆【祝】横山秀夫『64』、インターナショナル・ダガー賞最終候補入り

 横山秀夫『64(ロクヨン)』が英国推理作家協会賞(CWA賞)の翻訳作品部門、すなわちインターナショナル・ダガー賞の「第一次候補」8作に選出されたのは今年の5月21日(日本時間)だったが、それから約2か月後の7月28日、ついに英国推理作家協会により同賞の最終候補(ショートリスト)が発表された。その結果は新聞やテレビでも報道されたので多くの人がすでにご存じかとは思うが、『64』は見事、最終候補5作のうちの1作に残った。英国推理作家協会賞のどの部門においても、今までに日本の作品がノミネートされたことは一度もなかった。今回の『64』の第一次候補入り、そして最終候補入りは、米国における2004年の桐野夏生『OUT』エドガー賞ノミネート、2012年の東野圭吾『容疑者Xの献身』エドガー賞ノミネートと並ぶ、日本ミステリー史上に残る快挙といえよう。

 最終候補5作は以下のとおりである(未邦訳作品は英題を示す)。インターナショナル・ダガー賞のその年のノミネート作がすでに邦訳されているということは今までにもあったが、日本語で読めるのが3作品もあるという状況はかつてなかった。受賞作が発表される10月11日までに3作を読み比べて自分なりの「推し作品」を考えておくと、受賞作発表がより楽しめるのではないだろうか。

  • 【日】横山秀夫『64』
  • 【仏】ピエール・ルメートル『天国でまた会おう』
  • 【独】ザーシャ・アランゴ『悪徳小説家』
  • 【独】Cay Rademacher 『The Murderer in Ruins』
  • 【南アフリカ】デオン・マイヤー(デオン・メイヤー)『Icarus』

 過去の受賞作の一覧は連載第1回で示したので省略するが、国別で示すと、インターナショナル・ダガー賞が2006年に始まって以来、受賞したのはフランス7作品、スウェーデン2作品、イタリア1作品、スペイン1作品である(2作同時受賞が一度あったので、2015年までの10年間で受賞作は計11作になる)。受賞作が仮にピエール・ルメートル『天国でまた会おう』以外になれば、いずれかの国にとっての初受賞ということになる。日本か南アフリカの作品が受賞すれば、ヨーロッパ以外からの初の受賞ということにもなる。

 最終候補に残れなかったのはなぜか3作ともスウェーデンの作品である(未邦訳作品は英題を示す)。

  • ヨハン・テオリン『夏に凍える舟』
  • アンデシュ・ルースルンド&ステファン・トゥンベリ『熊と踊れ』(早川書房より9月刊行予定/英題『The Father』)
  • Leif G.W. Persson 『The Sword of Justice』

 ヨハン・テオリンは2010年に『冬の灯台が語るとき』でインターナショナル・ダガー賞をすでに受賞しており、アンデシュ・ルースルンドも2011年にベリエ・ヘルストレムとの共著『三秒間の死角』で受賞済みである。そのあたりが勘案されたのかもしれない——と最初は思ったが、よく考えると最終候補に残ったピエール・ルメートルは2013年に『その女アレックス』で受賞、2015年に『傷だらけのカミーユ』(文春文庫で10月刊行予定)で受賞と、すでに2度もこの賞を受けている。ということは、選考委員の趣味嗜好でたまたまこういう結果になってしまったのだろうが、スウェーデンの人々(そして世界中の北欧ミステリーファン)にとっては結構ショックな結果だったのではないだろうか。なお、『熊と踊れ』は深緑野分氏がツイートで絶賛している作品であり(リンク)、刊行が楽しみである。

◆世界の名作ミステリーを刊行するイギリスの叢書《プーシキン・ヴァーティゴ》

 さて、今回の記事の本題に入ろう。2015年9月、イギリスのプーシキン社(Pushkin Press)がミステリー小説の新叢書《プーシキン・ヴァーティゴ》(Pushkin Vertigo)を創刊した(「Vertigo」は「めまい」の意)。出版社のサイトに掲載された紹介文によれば主に1920年代から1970年代の世界の名作ミステリーを出版する叢書で、これにより初めて英訳された作品も多い。2016年8月10日現在までに14冊が刊行されている。

 創刊ラインナップは以下の4冊であるが、皆さんは表紙からタイトルと著者名を読みとれるだろうか? 装幀は高名な装幀家のジェイミー・キーナン(Jamie Keenan)が手掛けているが、イギリスの推理作家イアン・ランキンは創刊時にTwitterで、タイトルと著者名が分かりづらいと写真付きでツイートしている(リンク)。

※4冊中、最後の1冊は日本未紹介の作家の作品。




 正解は上から順に、

  • Soji Shimada, The Tokyo Zodiac Murders
  • Boileau-Narcejac, Vertigo
  • Leo Perutz, Master of the Day of Judgment
  • Piero Chiara, The Disappearance of Signora Giulia

 日本語で示すと、

  • 【日】島田荘司『占星術殺人事件』
  • 【仏】ボアロー&ナルスジャック『めまい』(別題『死者の中から』
  • 【オーストリア】レオ・ペルッツ『最後の審判の巨匠』
  • 【伊】ピエロ・キアラ『ジュリア夫人の失踪』(仮) ※未邦訳

 イタリアのピエロ・キアラ(1913-1986)はこれが初の英訳書だそうで、邦訳もなく日本でも知られていない作家だが、ボアロー&ナルスジャック、レオ・ペルッツという巨匠とともに島田荘司の作品が創刊ラインナップに選ばれるとは驚きであり、またうれしいことである。

 島田荘司『占星術殺人事件』は2004年に最初の英訳版(ロス&シカ・マッケンジー訳)が日本の出版社より刊行されており、英語圏の密室・不可能犯罪物マニアに好評をもって迎えられていた。アイルランド人のノワール作家(かつ不可能犯罪物の愛好家)、エイドリアン・マッキンティー(Adrian McKinty、1968- )が自身の選ぶ《密室・不可能犯罪ミステリーベスト10》『占星術殺人事件』を第2位に挙げ(英『ガーディアン』紙、2014年1月29日)、なおかつ『占星術殺人事件』に影響を受けてノワールと密室の謎解きを融合させた長編『In the Morning I’ll Be Gone』(2014年、未邦訳)を執筆したということは、以前の寄稿で紹介した(非英語圏ミステリー賞あ・ら・かると 第12回 グーディス、密室、ボリウッド)。この作品はショーン・ダフィー刑事シリーズの第3作で、ダフィー刑事は密室ミステリーの古典作品に言及しつつ捜査を進めていくという。

 やや話がそれるが、昨年末に刊行されたショーン・ダフィー刑事シリーズの第5作『Rain Dogs』も密室物だそうで、出版社による紹介文には「一人の刑事が生涯で二度も密室の謎に直面するなんていうことがあるだろうか?」(what detective gets two locked room mysteries in one career?)という文言が使われている。『Rain Dogs』は今年の英国推理作家協会イアン・フレミング・スティール・ダガー賞(広義のスリラー小説が対象)の最終候補にも残っているが、ほかの最終候補者はドン・ウィンズロウ、リー・チャイルド、ダニエル・シルヴァ、ミック・ヘロンという錚々たる面々である。いまだ邦訳のないエイドリアン・マッキンティーも、ぜひとも邦訳を期待したいところである。

 英訳『占星術殺人事件』(2004年版)はエイドリアン・マッキンティーの寄稿が『ガーディアン』紙に掲載される以前からすでに新刊では入手不能の状態となっており、英米のAmazonで古書に高値がつくなどしていた。せっかく英国の大手紙で紹介されても簡単には手に入らない状態だったわけである。それが、その約1年半後に新叢書《プーシキン・ヴァーティゴ》の1冊として英訳改訂版(訳者は同じ)が刊行され、容易に入手できるようになったのは幸いなことであった。なお、島田荘司作品の英訳はほかに米国『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』に掲載された「Pの密室」(2013年8月号)と「発狂する重役」(2015年8月号)がある。

 プーシキン版『占星術殺人事件』(御手洗潔シリーズ第1作)は売れ行きも好調だそうで、今後同叢書から御手洗潔シリーズ第2作『斜め屋敷の犯罪』が出る可能性もあるそうだ。その実現と、島田荘司作品のさらなる英訳に期待したい。

 島田荘司はプーシキン版『占星術殺人事件』のプロモーションもかねて、今年(2016年)2月末にイギリスを訪れている。27日にはロンドンで中村文則とトークショー、28日にはバースで吉田恭子(英語で小説を書く日本人作家/立命館大学文学部教授)とトークショー、29日にはリーズで再度中村文則とトークショー。島田荘司と中村文則というと、広大なミステリーというジャンルの中でも対極にいるような作家に思えてしまうが、脳科学などの共通の興味もあってか意気投合したそうで、帰国後にも2人で対談イベントを開催したりしている(2016年7月10日、広島県福山市にて)。中村文則の英語圏での受容状況については連載第2回を参照のこと。

 プーシキン版『占星術殺人事件』は2015年9月に刊行されているが、残念なことに今年の英国推理作家協会賞の審査の対象になっていない。連載第1回でも書いたが、英国推理作家協会賞は期間内にイギリスで英語で出版された作品で、なおかつ出版社がエントリーをした作品のみが審査対象となる。プーシキン社はもともとミステリー系の出版社ではない。そのため編集者が英国推理作家協会賞の仕組みを知らなかったのか、あるいは賞に興味がなかったのか、それとも何かほかに理由があるのか——その辺りは分からないが、《プーシキン・ヴァーティゴ》の作品は今年の英国推理作家協会賞にエントリーされていないのである。仮にエントリーされていたとしてどうなっていたかは分からないが、審査の対象にすらなっていないというのは誠に残念なことである。

 さて、最初に書いたとおり、《プーシキン・ヴァーティゴ》は2015年9月の創刊から現在までの約1年間で14冊が刊行されている。日本の作品は今のところ『占星術殺人事件』だけである。そのほかの作品を言語圏(or国・地域)、作家別にまとめておく。

◆《プーシキン・ヴァーティゴ》のドイツ語圏作品

  • レオ・ペルッツ(1882-1957)
    • 『最後の審判の巨匠』(1923年)
    • 『Little Apple』(未邦訳/独原題『Wohin rollst du, Äpfelchen…』、1928年)
    • 『聖ペテロの雪』(1933年)
  • アレクサンダー・レルネット=ホレーニア(1897-1976)
    • 『I Was Jack Mortimer』(1933年)※60年ほど前に邦訳が雑誌掲載されている

 ドイツ語圏からは1920年代〜1930年代の作品が採られている。

 創刊ラインナップ4作のうちの1作、レオ・ペルッツ『最後の審判の巨匠』は江戸川乱歩がデビューしたのと同じ1923年の作品で、幻想小説味が濃厚ながら、扱われるのは密室内での変死事件という異色作。ペルッツの作品は近年、垂野創一郎氏が精力的に邦訳に取り組んでいる。未邦訳の『Little Apple』『最後の審判の巨匠』の訳者あとがきで垂野氏が『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』というタイトルで紹介している作品。

 アレクサンダー・レルネット=ホレーニアの『I Was Jack Mortimer』(独原題『Ich war Jack Mortimer』)は『探偵倶楽部』1954年1月号に「姿なき殺人者」のタイトルで訳載されている(伊東?太郎訳、著者名表記「アレキサンダー・レルネット=ホレニア」)。走行中のタクシー内で客がいつの間にか撃ち殺されているという謎を扱った作品である。レルネット=ホレーニアはほかにもいくつか邦訳があり、最近では「夢想と論理が織りなす、世の終わりのための探偵小説」「反ミステリの金字塔」という惹句で「奇書」好きの耳目を集めた『両シチリア連隊』(原著1942年)が邦訳されている。これも垂野氏による翻訳である。

 レオ・ペルッツもアレクサンダー・レルネット=ホレーニアもオーストリアの作家。ドイツ語圏の古典ミステリーの話題になるとドイツの作家は影が薄くなりがちで、たとえば日本でそれなりに知名度のあるドイツ語圏の古典ミステリー作家というとフリードリヒ・グラウザー(1896-1938)やフリードリヒ・デュレンマット(1921-1990)、バルドゥイン・グロラー(1848-1916)が挙げられると思うが、それぞれスイス、スイス、オーストリアの作家である(デュレンマットは戦後の作家)。ドイツの古典ミステリー作家としては、ジョー・ジェンキンズ・シリーズで知られるパウル・ローゼンハイン(1877-1929)や『妖女ドレッテ』で知られるワルター・ハーリヒ(1888-1931)がいる。2人とも戦前に邦訳されて人気を博したが、現代の日本ではほぼ忘れ去られてしまっているといっていいのではないだろうか。新訳や再評価が望まれるところである。

◆《プーシキン・ヴァーティゴ》のフランス作品

  • ボアロー&ナルスジャック(1906-1989/1908-1998)
    • 『めまい』(別題『死者の中から』、1954年)
    • 『悪魔のような女』(1952年)
  • フレデリック・ダール(1921-2000)
    • 『Bird in a Cage』(未邦訳/仏原題『Le Monte-charge』、1961年)
    • 『悪者は地獄へ行け』(仏原題『Les salauds vont en enfer』、1956年)
    • 『Crush』(未邦訳/仏原題『Les scélérats』、1959年)【近刊】
    • 『甦える旋律』(仏原題『Le bourreau pleure』、1956年)【近刊】

 フランスの作家ではボアロー&ナルスジャックとフレデリック・ダールの作品が入っている。創刊ラインナップの1冊であるボアロー&ナルスジャック『Vertigo』(めまい)がおそらくは叢書名の由来となっているのだろう。日本では、コンビ結成前のピエール・ボアロー単独でのデビュー作『震える石』(仏原題『La pierre qui tremble』、1934年)が2016年内に本邦初訳予定(論創社の書籍紹介ページ)。

 フレデリック・ダールは現在までに『Bird in a Cage』『悪者は地獄へ行け』が刊行されており、今後もフランス推理小説大賞受賞作『甦える旋律』などが刊行予定である。

 ところで、ここまで読んでくださった方は《プーシキン・ヴァーティゴ》のダール作品の装幀がほかと異なっていることにお気づきだろう。これはダールの作品だけが特別扱いされているわけではなく、《プーシキン・ヴァーティゴ》のデザイン自体が2016年5月以降の刊行作品で一新されているのである。やはりタイトルや著者名が分かりづらいという声が多かったのだろうか。

◆《プーシキン・ヴァーティゴ》のイタリア作品

 イタリアの作品は、創刊ラインナップの1冊であるピエロ・キアラ(1913-1986)の『ジュリア夫人の失踪』(未邦訳/イタリア語原題『I giovedì della signora Giulia』、1970年)のほか、以下の3冊が叢書に入っている(近刊分も含む)。説明の便宜上、(1)〜(3)の通し番号を仮に振っておく。いずれも邦訳はない。

  • アウグスト・デ・アンジェリス(1888-1944)
    • (1)『The Murdered Banker』Il Banchiere assassinato (1935)
    • (2)『The Hotel of the Three Roses』L’Albergo delle Tre Rose (1936)
    • (3)『The Mystery of the Three Orchids』Il Mistero delle Tre Orchidee (1942)【近刊】

 アウグスト・デ・アンジェリス(Augusto De Angelis)はイタリア古典探偵小説の時代を代表する作家のうちの一人。上記の3作品はどれもカルロ・デ・ヴィンチェンツィ警部を探偵役とするシリーズの作品であり、(1)の『殺害された銀行家』(仮)はデ・アンジェリスの最初のミステリー長編である。

 3作品のうち(3)は今から約70年前に『三つの蘭花』のタイトルで邦訳出版が予告されたことがある。《現代欧米探偵小説傑作選集》(オリエント書房、1947年、全30巻予定)の1冊として刊行される予定だったのである。しかしこの選集は第1巻のカルロ・アンダーセン(デンマーク)『遺書の誓ひ』(吉良運平訳、1947年1月)のみで中絶してしまい、出版は実現しなかった。

 また、(2)と(3)はイタリアミステリーを多数訳している翻訳家の千種堅氏が1960年代半ば頃に邦訳しているが、残念ながら世に出ていない(「イタリアの推理小説(ジャッロ)」、早川書房『世界ミステリ全集』第12巻付属 月報11、1972年)。千種氏は(2)を『ホテル《三つのバラ》』、(3)を『三つの蘭のミステリー』としている。現在でもその翻訳原稿は残っているのだろうか。千種氏はアウグスト・デ・アンジェリスの作品について、「エンタテイメントのお手本のようなスリリングな筋立てと、そして何よりも文章のよさがきわ立っていて、推理小説の枠をこえ、一般的な娯楽読物としても水準をぬいた出来栄え」と評しており(ルドヴィコ・デンティーチェ『夜の刑事』ハヤカワ・ミステリ、1970年 訳者あとがき)、出版されなかったのが不思議なぐらいである。今からでも、どこかの出版社から刊行されないものだろうか。

 関連文献として入手が難しいものを挙げるのは心苦しいのだが、アウグスト・デ・アンジェリスについては「非英語圏ミステリー賞あ・ら・かると」連載時に紹介した加瀬義雄氏の『失われたミステリ史 増補版』(盛林堂ミステリアス文庫、2014年)に詳しい紹介がある。同書には(2)のレビューも収録されている(初出はミステリー研究同人誌『ROM』126号、2006年)。また(1)と(3)は『ROM』135号(2010年)につずみ綾氏によるレビューがある。

 イタリア古典探偵小説の時代を代表する作家としてはほかにジョルジョ・シェルバネンコ(1911-1969)らがいる。アウグスト・デ・アンジェリスがファシストによる暴行で1944年に非業の死を遂げた一方、シェルバネンコは1943年からスイスに逃れ、終戦後はイタリアに戻って再度小説家として活躍した。元医師で警官のドゥーカ・ランベルティを主人公にした長編シリーズ4作(1966年〜1969年)が彼の代表作で、そのうちシリーズ第1作『傷ついた女神』、第2作『裏切者』、第3作『虐殺の少年たち』が邦訳されている。第2作『裏切者』はフランス推理小説大賞を受賞したこともあってか1972年にいち早く邦訳されたが(千種堅訳、早川書房『世界ミステリ全集』第12巻に収録)、このシリーズはシリーズを通した登場人物が出てくるので、『裏切者』だけを読んでも意味が分からない箇所があった。《論創海外ミステリ》が近年、シリーズ第1作(と第3作)を出版してくれたのはありがたいことである。第4作『ミラネーゼは土曜に殺す』もぜひ出版していただきたいところである。

◆《プーシキン・ヴァーティゴ》の中南米の作品

  • マリア・アンヘリカ・ボスコ(アルゼンチン)(1909-2006)
    • 『Death Going Down』La muerte baja en el ascensor (1955)【近刊】

 マリア・アンヘリカ・ボスコ(María Angélica Bosco)は日本ではまったく知られていない作家だが、プーシキン社の著者紹介ページによれば「アルゼンチンのアガサ・クリスティー」として知られているのだとか(表紙にもそう書かれている)。『Death Going Down』は彼女の最初の長編小説。

 アルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘスがペルッツの『最後の審判の巨匠』に惚れ込み、アドルフォ・ビオイ=カサーレスとともに監修を務めたミステリー叢書《第七圏》(El Séptimo Círculo、1945年〜1983年、全366巻)にこの作品を加えたことはペルッツファンならご存じかと思う。ミステリー叢書《第七圏》は英米のミステリーがほとんどだが、ビオイ=カサーレスとその妻シルビーナ・オカンポの共著『愛するものは憎む』(未邦訳/スペイン語原題『Los que aman, odian』、1946年)やマヌエル・ペイロウ『薔薇の雷鳴』(未邦訳/スペイン語原題『El estruendo de las rosas』、1948年)など、アルゼンチンの国産ミステリーもいくつか収録されている。《プーシキン・ヴァーティゴ》に入った『Death Going Down』も《第七圏》で刊行された数少ないアルゼンチン作品の1つである。

※アドルフォ・ビオイ=カサーレス&シルビーナ・オカンポ『愛するものは憎む』は『ミステリマガジン』2010年12月号に垂野氏によるレビューが掲載されている。

 ところで、《第七圏》の刊行リストを見ていたら、ピエロ・キアラ『ジュリア夫人の失踪』が入っていることに気がついた。今のところ《プーシキン・ヴァーティゴ》と《第七圏》の共通作品は『最後の審判の巨匠』『ジュリア夫人の失踪』、そして『Death Going Down』の3作だけだが、《プーシキン・ヴァーティゴ》の編集者が世界中から作品を選定するにあたって、《第七圏》のラインナップを参考にした可能性はあるかもしれない。

※マリア・アンヘリカ・ボスコの生年は、最晩年のインタビューや死去を報じるオンライン記事で1909年とされている。「こちらの記事」(スペイン語)によると、1954年に『Death Going Down』が出版社主催の賞を受賞して《第七圏》で出版されることになったときから、「1917年生まれ」と生年を偽っていたそうである。それがまだ尾を引いているようで、プーシキン社の著者紹介ページでも、2004年に刊行された『Latin American Mystery Writers: An A-to-Z Guide』でも、生年は1917年とされている。

◆《プーシキン・ヴァーティゴ》のその他の作品

 《プーシキン・ヴァーティゴ》の創刊前、出版社はこの叢書について、1920年代から1970年代の世界の古典的ミステリーに焦点をあてた叢書だと紹介していたが、現代の作品も今までに2作品刊行されている。(『占星術殺人事件』も1981年発表の作品であり、年代が少しずれてはいるのだが)

 『Clinch』(2016年5月刊)はスウェーデンの作家、Martin Holmén(1974- )が2015年にスウェーデン語で発表した最初の長編を英訳したもの。全3部作の予定。

 『You Were Never Really Here』(2016年7月刊)はアメリカの作家、ジョナサン・エイムズ(Jonathan Ames、1964- )の作品。《プーシキン・ヴァーティゴ》で現在のところ唯一の非翻訳作品である。2013年にKindleで出版されていた短編を紙の書籍化したもののようだが、加筆・改稿などがあるのかどうかは分からない。Amazonのデータによると96ページしかない本のようである(プーシキン版『占星術殺人事件』は320ページ)。

◆次回予告、「Locked Room International」

 プーシキン版『占星術殺人事件』がおそらく編集者の目に留まったのだろう。今月(2016年8月)末にブルガリアで、ブルガリア語版『占星術殺人事件』が発売の予定である。「日本語が読める編集者」は東アジアを除けば極めて稀だと思われるが、「英語が読める編集者」は世界中にいる。ことさら「英訳」のみを称揚するのはあまり好きではないが、やはり英訳されることが、さらなる世界への翻訳の道を開いてくれるのは確かなことだろう。

 今までに『占星術殺人事件』は私の知る限りで英語、フランス語、中国語(簡体字・繁体字)、韓国語、タイ語、インドネシア語、ベトナム語に翻訳されている。そこに8つ目の言語としてブルガリア語が近く加わることになる。

 ところで、英訳『占星術殺人事件』の改訂版はもともとはアメリカの小出版社「Locked Room International」(以下、LRI社)から刊行される予定だった。ちょうどその準備をしていたところにイギリスのプーシキン社から声が掛かり、『占星術殺人事件』は《プーシキン・ヴァーティゴ》の創刊ラインナップに加わることになったのである。その経緯については『本格ミステリー・ワールド2016』(南雲堂、2015年12月)の巻頭言、島田荘司「「HONKAKU」船出の時」で詳しく語られている。

 LRI社はその名のとおり密室・不可能犯罪物の刊行に特化した出版社で、元々はフランスのポール・アルテの作品を英訳出版していたが、最近ではアジアにまで目を向け、綾辻行人『十角館の殺人』、有栖川有栖『孤島パズル』の英訳版なども出版している。

 アジアの作品ではほかに、台湾の林斯諺(りん しげん、Szu-Yen Lin、1983- )の長編の英訳もLRI社から出版の予定である。この作家は2004年の台湾推理作家協会賞を受賞した短編「バドミントンコートの亡霊」が邦訳されている。ちなみに、同回の最終候補作である冷言(れい げん、1979- )の短編「風に吹かれた死体」も邦訳がある。この2人の作家はどちらも、台湾で実施されている島田荘司推理小説賞(長編の公募賞)の最終候補にもなったことがある実力派である。

 本当は「Locked Room International」についても今回扱うつもりだったのだが、《プーシキン・ヴァーティゴ》についてだけでかなりの分量になってしまったので、LRI社の紹介は次回とさせていただく。というわけで、〈日本ミステリー英語圏進出の「その後」(4)〉に続く。

松川 良宏(まつかわ よしひろ)

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 アジアミステリ研究家。『ハヤカワミステリマガジン』2012年2月号(アジアミステリ特集号)に「東アジア推理小説の日本における受容史」寄稿。論創ミステリ叢書『金来成探偵小説選』(2014年6月)解題執筆。ほかに「日本作家の英米進出の夢と『EQMM』誌」(『本格ミステリー・ワールド2015』)、「日本作家の英米進出の現状と「HONKAKU」」(『同2016』)。マイナーな国・地域の推理小説をよりメジャーな世界へと広めていくのが当面の目標。

 

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