短期集中連載「ロスト・シンボルへの道」は、今回が最終回になります。おかげさまで本の売れ行きは順調で、読了した多くの人たちの感想をブログやツイッターなどで読ませていただきました。訳者であるわたしがこんなことを言うと怒られそうですが、予想以上に好評だというのがこれまでの感触です。いや、もちろん、つまらないと思っていたわけではありません。『ロスト・シンボル』は宗教と科学と人間の関係をテーマとしているという点では『天使と悪魔』などと同じですが、『天使と悪魔』では対立の構図がきわめてわかりやすく図式化されていたのに対し、今回の『ロスト・シンボル』の場合は、人間とは何か、神とは何かという、より本質的な問いかけがテーマになっているため、ややとっつきにくいところがあるのではないかと懸念していたのです。

 だから、ある読者のかたが「なぜだかわからないけど、最後の一行を読み終わったとき、なんだか胸が熱くなって、涙がこみあげてきた」と書いていらっしゃるのを見たとき、驚いたとともに非常にうれしく感じました。ダン・ブラウンが執筆に6年以上かけたのは、今回の壮大なテーマをエンタテインメントの枠組みにどうやって組みこんでいくかに腐心していたからだ、という話がつい最近伝わってきました。わたし自身について言えば、訳了した時点ではまだなんとなく輪郭がぼやけた感じでしたが、その後、理神論や神秘主義に関する本を何冊か読んでみて、いろんなことが納得できたものです。今回読了なさったみなさんも、なんらかの形で「復習」なさったうえで、『ロスト・シンボル』をもう一度読み返されると、ああ、そういうことだったのか、と膝を打つことがあるかもしれません。手軽なものとしては、下の本がお勧めです。

 今回は『ロスト・シンボル』にまつわるいくつかのトリヴィアをさらに紹介しましょう。

 まず、前回のクイズの答は「ボアズ」と「ヤキン」。ソロモン神殿にあった一対の柱で、ボアズは螺旋模様、ヤキンは縦縞模様だとされており、フリーメイソンの会堂や儀式の間によくあると言われています。角川書店の『ダ・ヴィンチ・コード』のサイトには、ロスリン礼拝堂の柱の写真があるので、探してみてください。

 http://www.kadokawa.co.jp/sp/200405-05/

『ロスト・シンボル』では、マラークの両脚にボアズとヤキンの刺青がある、という描写が2か所あります(文庫版では上巻24ページと中巻192ページ、ハードカバーでは上巻20ページと下巻22ページ)。

 そのマラークですが、作中にも説明があるとおり、ヘブライ語で「天使」という意味です。ダン・ブラウンは登場人物の名前に含意をこめたりアナグラムを使ったりするのが好きで、たとえば『ダ・ヴィンチ・コード』では、ソフィーの祖父ソニエールの名前にも、ラングドンに協力する学者リー・ティービングの名前にもちょっとした意味がこめられています(興味のある人は検索して調べてください)。今回はドクター・アバドンという名前の人物が登場しますが、アバドン(Abaddon)というのは聖書などに登場する地獄の魔王や悪霊の名前です。無理やり日本語にすると「閻魔医師」でしょうか。作者もすごい名前をつけたものです。

 原書ではカバーに暗号が組みこまれていたり、あれこれ仕掛けがあったようですが、日本語版では残念ながらそういうものは紹介できませんでした。ただひとつ、あえて何ページかは書きませんが、ピーター・ソロモンの電話番号が出てくる個所があります。まったく伏せ字などは使われていないので、訳稿の編集作業中に、出版社側から「このまま載せてはまずいのではないか」という指摘があったのですが、わたしは問題ないとお答えしました。理由は——ええ、載せてもかまわないからです。度胸のある人は、国際電話のルールに則って、アメリカ国内のこの電話番号にかけてみてください。何かおもしろいことがあるかもしれませんよ。ただし、くれぐれも番号をおまちがえなく。

 そのほかでは、英語ですが、ダン・ブラウン本人のサイト内に”Symbol Quest” というクイズがあります。下のほうに出る説明文に該当するシンボルを選んで中央の枠へ運ぶというもので、33問連続で正解するとゴールにたどり着きます。グーグルの画像検索などを使って答えていくのですが、かなりの難問もあります。『ロスト・シンボル』を未読のかたでもじゅうぶんに楽しめます。

 http://www.thelostsymbol.com/symbolquest/index.php

『天使と悪魔』『ダ・ヴィンチ・コード』『ロスト・シンボル』と、精神世界への傾倒を深めてきたダン・ブラウンは、つぎはどこへ向かうのでしょうか。訳者として、読者として、少々心配であり、大いに楽しみであります。

 最後に、『ロスト・シンボル』のあとがきや〈王様のブランチ〉を見てこのサイトを訪れてくださったみなさん、そしてもちろん、以前からアクセスしてくださっているみなさん、この連載を最後まで読んでくださってありがとうございます。翻訳ミステリーの世界には、ダン・ブラウンの作品以外にもおもしろいものが数かぎりなくあります。日本のミステリーにも傑作は多くありますが、異国の地で繰りひろげられる、異文化を土台とした物語には、また格別のものがあり、そこから数えきれぬほどの発見があるはずです。ダン・ブラウンをきっかけとして、たとえば歴史ミステリーや、秘密結社ものや、どんでん返し満載のノン・ストップスリラーなどなど、気に入ったジャンルの作品をどうぞ見つけてください。このサイトは、翻訳ミステリーを愛するおおぜいの翻訳者・書評家・編集者が、ひとりでも多くのかたに読んでもらいたいという情熱から自主的に運営し、ほぼ日替わりで記事を更新しています。トップページの目次を見て、興味のありそうな記事を探していただければ、きっとご自分に合った翻訳ミステリーに出会うことができるでしょう。翻訳者として、それ以上の喜びはありません。

 越前敏弥