何年ものあいだひとつの場面がくっきりと脳裏に焼きついて、折々に思い出される本というのがあります。わたしにとっては、ロバート・ウェストールの『海辺の王国』がそんな1冊。でもなぜかその場面だけが印象に残りすぎて、前後があやふやだったので、久しぶりに読みかえしてみました。
ロバート・ウェストール(1929-1993)は、『かかし』、『“機関銃要塞”の少年たち』など数々の名作で知られるイギリスの児童文学作家。2006年に刊行された『ブラッカムの爆撃機』(※)は、ウェストールを敬愛する宮崎駿の短編絵物語が添えられていることでも話題になりました。
(※『ブラッカム〜』の日本での出版は1990年福武書店版が最初。岩波書店版には、宮崎駿の絵物語のほか、新たな短編もひとつ加えられている。)
ウェストールの作品は、『かかし』に代表されるような、思春期の少年の不安定な心理をホラー風味を交えて描いたものと、『ブラッカム〜』のような、第二次大戦時のイギリスを舞台にしたリアルなものが主流。『海辺の王国』は、後者に属します。
1942年、イギリス北東部のボークウェルに住む12歳の少年ハリーは、空襲で家も家族も失ってしまいます。自分はいつものように防空壕に逃れたのに、両親と妹が逃げおくれ、空襲がおさまってからかけつけた自宅は、がれきの山と化していたのです。自警団の大人たちが避難所へ行くよう声をかけてくれますが、孤児として保護されたら、大きらいなおばさんにひきとられてしまう。おばさんは「ぼくの頭をひっつかんで、でかい胸におしつけ、べえべえ泣いては、ぼくのことを『かわいそうな子』なんて言う」にちがいないのです。そんなのはごめんだ、というわけで、ハリーは「だれも、ぼくを知らないところへ」逃れようと決意します。
町は知った顔だらけなので自然と海辺に足が向き、そこでハリーは一頭のドイツシェパードと出会います。犬のつけていた札には「ドン」という名前と、近くの高級住宅地の住所が書いてありました。そこは何週間か前に、空襲で全滅した町。どうやらこの犬は戦火を生きのびた同士らしい。ハリーは「相棒」としてドンといっしょにくらすようになります。浜にふせてあるボートの下で夜露をしのいだり、ポケットの小銭でフィシュ・アンド・チップスを買って、店の親父にうさんくさそうな目で見られたり……。戦時下に12歳の少年と犬が自分たちだけで生きていくのは容易じゃありません。しかも大人にすがったら、ドンはまちがいなく迷い犬として収容され、安楽死させられてしまう。いまやハリーは、自分ばかりかドンの命もひきうけることになったのです。
隠れ家から隠れ家へと歩きつづけることを余儀なくされるなか、ある日ハリーたちははげしい雨にふられ、絶望に打ちひしがれながら古い電車の車両を改造した小屋にたどりつきます。なかは無人で、ベッドと暖炉が備えつけてあり、缶詰がたくわえられて、「なんでも食べてください」というメモまでありました。ここでひと息ついたハリーが、部屋に置かれていた『天路歴程』を読む。これがわたしの頭のなかにずっとこびりついていた場面です。
ちょっと書きぬきます。
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『天路歴程』はわかりにくい。だが、ちょっと興味をひかれた。
「わたしはぼろを着た男を見た……自分の家から外を見ている……手に本を持ち背には重荷をしょっていた。見ていると、かれは本をひらき、読みはじめた。読みつづけるうちに、かれは涙を流し、ふるえだした……そして、嘆きにみちた声をあげた。『わたくしはどうすればいいのだ?』」
これは、まさにぼくのことじゃないのか? むかしも、おなじような目にあった人間がいたということ、こういう状態はちゃんと言いあらわすことができるのだということは、かすかな慰めになった。(坂崎麻子 訳)
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前に読んだときと同様、今回もやっぱりぐっときました。本を読むことの大きな意味のひとつがここにある、と思いました。ネットが発達して若者たちの生(なま)のつぶやきを目にする機会が多くなったせいか、ああ、みんなこんなにおおぜいの人たちとつながっているのに、すごく個別に悩みを抱えて、ひとりひとりで苦しんでいるんだな、と感じることがちょくちょくあります。そのたびにこの場面を思い出すのです。本を読んだからといって必ずしもどんぴしゃの効きめがあるわけじゃないし、症状に合わせて薬のように本を読むわけでもないけれど、好きで読むうちに、結果としてハリーの感じたような慰めを得ることは多々あるでしょう。ネットで、同時進行のフラットなつながりを作るのもすごく実りになるけれど、読書は、それとはまた趣のちがう、時空を越えた深いつながりを築いてくれます。魂と魂を直接むすびつけるようなつなぎ方で。
ちなみに『天路歴程』は、17世紀終盤にイギリスのジョン・バニヤンが著した寓意物語。原典は読んだことがないのですが、子ども向けの短縮版である『天の都をさして』を手にとったことがあります。これがなかなか秀逸。挿絵をお見せできないのが残念ですが、「残酷なクルエルティー氏」とか「高慢ちきなハイマインド氏」といった「そのまんまやん!」とつっこみたくなるような名前を持つ人たちの肖像が、これまた「そのまんまやん」といいたくなるほど絶妙ないやらしさで描かれているのです。文章もほどよい長さ。『天路歴程』の全容を把握するにはもってこいの1冊です。
それからもうひとつ。じつはわたくし、『天路歴程』より先に、それを元ネタにした『魔界歴程』に出会っていました。映画『ドラえもん のび太の魔界大冒険』(1984年)に出てくるんですよ。やりますね、ドラえもん。そしてこの『魔界大冒険』の登場人物のひとりである「満月博士」の名が、瀬名秀明氏の『八月の博物館』に登場する博士に冠されており、その瀬名秀明氏は翻訳ミステリー大賞授賞式に登場予定、と。うん、つながった。むりやりだけど。
ええと、『海辺の王国』に戻りましょう。
そんなわけでずっと印象の強かった場面を再確認したわけですが、驚いたのはそのあと。その古い車両を改造した小屋の来歴と、小屋の持ち主にまつわるドラマを読んだとき、「なぜこの話を忘れていたんだろう」とびっくりしました。『天路歴程』の場面にこの本全体のすばらしさを集約させていたのでしょうか、わたしの脳みそは。読みかえしてみると、たしかにこの物語全体が『天路歴程』の構造をなぞっていることに気づくので、まったく故なしとは言わないまでも……。
そのあとも驚きの再発見は続きます。ハリーは、なにかにつけてパパやママの言葉を思い出しながら知恵をしぼって毎日を生きぬきますが、同時に、放浪するなかで出会った人たちからもさまざまなことを学んでいきます。そしてだんだん、両親によって育てられたままではない、自分なりの人間として成長を始めるのです。このあたり、電車のなかで読みかえしていたので、ぐっとくる場面の連続でたいへんでした。そして最後、意外な、そしてビターな、でも納得のいくオープンエンディング。これも完ぺきに忘れていました。なぜこんなサプライズを忘れるかな。いやはや。
あとがきに「これは戦争についての本ではない」という作者の言葉が紹介されています。まさにそのとおりだと思います。どんな状況にも通じる作品、今だからこそ読みかえしたい作品です。「かわいい子には旅をさせろ」といいますが、ハリーの旅はみずから選びとった旅です。もちろんきっかけは空襲ですが、大人の手に身をゆだねるのではなく、自分の足で道なき道を歩いてゆく物語なのですから。最後にそんな彼の心情を表す一節をご紹介して結びにしましょう。
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夕焼けが続くかぎり、歩きつづけられる。苦しみをとびこして行けそうだった。けれど、ハリーにはわかっていた。暗くなれば、ぼくはまたなやみに沈みこんで、浮きあがれなくなる。歩きつづけるんだ。歩いて、苦しみからはなれてゆけ。
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◇ないとうふみこ(内藤文子)。東京都府中市出身。上智大学卒業。訳書に、ボーム『完訳 オズのオズマ姫』、ステッド『きみに出会うとき』、フレイマン=ウェア『涙のタトゥー』など。やまねこ翻訳クラブ会員。ツイッターアカウントは@bumblebun。 |