映画『裏切りのサーカス』公開(これは傑作。くわしくは三橋曉さんのミステリ試写室flim6を)に加えて、第3回名古屋読書会は課題図書を『寒い国から帰ってきたスパイ』にして速攻満席。これは時ならぬル・カレ・ブームか?

 というわけで、ジョン・ル・カレ入門です。

 やはり本命から。しばらくスマホやソーシャル・ネットワークから離れ、可処分時間のすべてを費やして没頭していただきたいのが、『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』、『スクールボーイ閣下』、『スマイリーと仲間たち』のスマイリー三部作。「スパイ小説の金字塔」と呼ばれる。

 たしかに題材は冷戦期の諜報戦で、スマイリーは引退したイギリス諜報部(別称「サーカス」)上級職員だけれど、007などにつきもののガジェットや派手なアクションは出てこない。『ティンカー、テイラー』の終盤、スマイリーがサーカス内にいるソ連のスパイ(「もぐら」)をあぶり出して、隠れ家で待ち伏せしているときでさえ、「幕があがる前に近づくアンチクライマックス——立派なことが衰えて、小さくしみったれた終幕を迎える感覚」にとらわれるのだ。「これまでに知るような勝利感はどこにもなかった」と。

 しかし、ファンにはこれがたまらない。小説の冒頭、謎の男が田舎の私立小学校に赴任してくるこんな描写がある。

 ジム・プリドーは金曜日、激しい吹き降りのさなかに着任した。雨はクオントクの褐色の峡谷を砲煙のようにわき起こって下ると、無人のクリケット場を疾駆して、校舎正面のもろくなった褐色砂岩を横なぐりにたたいた。昼食時間がおわってすぐ、真っ赤な古いアルヴィスが、中古の、元の車体色はブルーだったトレーラーを牽引してやってきた。

 もう条件反射でわくわくする。そのじつ重要な役まわりのプリドーの正体はなかなか明らかにされず、手紙泥棒と思われた彼の不可解な行動の意味がわかるのも数百ページあと。万事そんな調子だから、読者に対する愛想も配慮もあったものではないが、慣れるとむしろ心地よい。いまの時代、まえに戻って確かめながら読まなければならない小説は不親切ととられかねないけれど、つるつると喉ごしのよい作品を読むことばかりが読書の愉悦ではありません。

 三作全体をつうじて、宿敵であるソ連諜報部の指揮官カーラを追いつめていくスマイリーの足はのろい。勝手なたとえを持ち出すと、北アルプスの燕岳から槍ヶ岳に向かう山行のようなもので、ときどき霧が晴れて槍の穂先(カーラ)は見えても、なかなか目的地にはたどり着けない。だが、スマイリーは膨大な記録を丹念に読みこみ、人々の記憶をたぐり寄せ、登山者のように一歩ずつ前進していく。読むほうもそのペースにつき合って油断していると、突然こんなやりとりが……

「それもきみは報告したのか」

「もちろん」

「そしたら?」

「コニーはお払い箱、ラパンは帰国」彼女は言って、くすくす笑った。「二、三週間して、ジム・プリドーが背中を撃たれ、ジョージ・スマイリーは職を追われ、コントロールは……」そこであくびをして、「ああもう」と嘆息した。「いまはのどかなものね。ねえ、ジョージ、あの地すべりは、あたしが起こしたのかしら」

「もぐら」の核心情報に近づきすぎたためにサーカスから追放されたソ連調査の専門家、コニー・サックスのことばだが、ここでいきなり読者は登山者から神の視点に引き上げられ、「アルプス」を一望に見おろして、「そう、コニー、そのとおり」とつぶやいている。背筋がぞくっとする瞬間。ル・カレを読んでいると、こういうことが何度も起きる。『スマイリーと仲間たち』にもあるスマイリーとコニーの長い会話は、シリーズ屈指の名場面だ。

 最終的にスマイリーは槍に到達したのかどうか。それはご自身で確かめてください。

 今回、映画に合わせて出た新訳の『ティンカー、テイラー』を読んだが(上の引用もすべて新訳)、意外な発見もあり、これからもくり返し読むことになりそうだ。

 とはいえ、無人島にル・カレの作品をひとつだけ持っていけと言われたら、『パーフェクト・スパイ』を選ぶと思う。ル・カレの父君は詐欺師まがいの人だったらしく、主人公の諜報部員マグナス・ピムと父親とのかかわりが描かれるこの小説には、自伝的要素も盛りこまれて格段の深みがある。

 三島由紀夫の筆が「男が死ぬ」小説で冴えわたるように、ル・カレの筆がいちばん偉力を現すのは「主人公がどこかにこもって過去を振り返る」ときだ。三部作しかり、『ナイロビの蜂』のエルバ島しかり。この点、『パーフェクト・スパイ』では、ピムがほとんど最初から最後までこもりきりなので、私にとっては最高である。

 初めてル・カレを読むかたには、『リトル・ドラマー・ガール』がいいかもしれない。それとも、彼を一躍ベストセラー作家にした『寒い国から帰ってきたスパイ』か。

『リトル・ドラマー・ガール』のほうは、イギリスの女優がイスラエルのスパイに仕立てられてパレスチナに潜入する話。幕開けの爆破テロの衝撃と、あまりにおもしろくて永遠に終わらないでほしいと思ったことは、いまだにはっきりと憶えている。『完全版 池澤夏樹の世界文学リミックス』から引かせてもらうと、

「スマイリー三部作」では敵はソ連の諜報部だった。ジョン・ル・カレはイギリスの作家だからもちろんイギリス側から書いているけれど、情報戦の空しさという点では両サイドを同じように扱っていた。そこに人間的な淡い悲しみがあって、それがこの作家のいちばん大事な味だった。

 冷戦の後、もうそういう敵はいない。武器商人や製薬会社を敵に仕立てても、人間の心の闇は書けない。勧善懲悪の類型に落ちこんでしまう。

 テロリストが相手だと事態はまた違ってくる。テロは人間的だから。この作家なら『リトル・ドラマー・ガール』というパレスティナの話はとてもいい。テロリストとそれを追求する側の両方の悲しみが伝わる。

 あまりに小説巧者であるために、その陰で話題になりにくいが、ル・カレはジャーナリストとしても一流である。とにかく行動力、取材力がすごい。たとえば、ベルリンの壁ができて2年後に『寒い国から帰ってきたスパイ』、イラク戦争勃発と同じ年に『サラマンダーは炎のなかに』、コンゴの大統領選挙と議会選挙の年には『ミッション・ソング』というふうに、時代を象徴する事件を見きわめ、現地にも赴いて、いち早く小説にする。タイムズ紙にイラク戦争糾弾の論文を寄せたことも記憶に新しい。

 最新の時事問題を、イギリス伝統の小説形式(古くはディケンズやサッカレーから、キップリング、イーヴリン・ウォー、グレアム・グリーン……)にのせて、しかもそれを抜群のエンターテインメントに仕上げてしまう「超人」作家なのだ。

 作品紹介というより『ティンカー、テイラー』中心の雑感になってしまったが、少しでも読書のきっかけになればうれしい。来月の読書会に向けて、『寒い国から帰ってきたスパイ』の再読も楽しみ。

 作者の経歴と各作品の内容、位置づけについては、『サラマンダーは炎のなかに』の古山裕樹さんの解説にくわしいので、ぜひ参考にしてください(最初からそう言えよ?)。

John le Carr�: The author’s official websitehttp://www.johnlecarre.com/

加賀山卓朗(かがやま たくろう)

愛媛県生まれ、東京在住。訳書にロバート・B・パーカー『春嵐』、ジョン・ル・カレ『ナイロビの蜂』『ミッション・ソング』、デニス・ルヘイン『運命の日』、グレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』など。

●AmazonJPでジョン・ル・カレの本をさがす●

初心者のための作家入門 バックナンバー