ミステリ試写室 film 6 裏切りのサーカス

ミステリ好きでも、誰もが一度は途中で挫折した経験があるに違いない作家。そう、スパイ小説の巨匠、ジョン・ル・カレである。かくいうわたしにも苦〜い記憶が。しかも一度ならず二度までも…。

「パナマの仕立屋」や「ナイロビの蜂」など、九十年代以降の作品しか知らない読者は想像がつきにくいかもしれないが、かつてル・カレは読者にとって手ごわい作家の最右翼だった。その極めつけのひとつが、『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(1974)である。この映画『裏切りのサーカス』は、それを原作としている。

では、予告編からどうぞ。

ブダベストでの作戦の失敗から、上司とともに組織から追放の憂き目にあっていた元情報部員のスマイリー(ゲイリー・オールドマン)に、思いがけず名誉回復の機会が訪れた。突然の呼び出しで、政府の次官から深刻なスパイ疑惑の解明を依頼される。?もぐら?と呼ばれる二重スパイを狩り出すことが彼の仕事となった。

容疑者は4名。いずれも〈サーカス〉こと英国情報部の上層部に身をおく重要人物で、マザーグースの歌に見立てて、彼らはティンカー(トビー・ジョーンズ)、テイラー(コリン・ファース)、ソルジャー(キアラン・ハインズ)、プアマン(デヴィッド・デンシック)と呼ばれた。やり手の情報部員ギラム(ベネディクト・カンバーバッチ)のサポートを得て、スマイリーは裏切り者のあぶり出しにかかるが、その影には宿敵であるソ連情報部のカーラの姿がちらついて。

デビュー作の『死者にかかってきた電話』(1961)から『影の巡礼者』(1990)まで、ジョージ・スマイリーの登場する長編はこれまでに8作が書かれているが、そのうち七十年代に発表された?スマイリー3部作?は、スパイスリラー史上の最高峰に位置づけられている。その一角を占める本作は、英国情報部内の情報がクレムリンに筒抜けになっていたとして世間を騒がせた有名なキム・フィルビー事件に材をとっていることから、グレアム・グリーンの『ヒューマン・ファクター』と並び称されてきた作品だ。

七十年代末期に一度BBCがテレビドラマ化していて(ちなみにスマイリー役はアレック・ギネス)、その時は6時間を超える全7話構成だった。それに較べて今回の『裏切りのサーカス』のほぼ2時間というコンパクトな長さに、あの複雑な原作のどこをどう端折ればそこまで短く出来るのかという素朴な疑問がまず浮かんだ。

しかし、本年アカデミー賞の脚色賞にもノミネートされたブリジット・オコナー(すでに故人)とピーター・ストローハンのコンビによる脚本は見事というほかなく、原作の雰囲気を大切にしながらも、とりちらかしたようなエピソードがまるでジグソーパズルのように精緻な絵柄を刻々と浮かび上がらせるつくりに唸らされる。とりわけそれがつるべ打ちのようにたたみ掛けてくる後半は、ミステリ映画のカタルシスにあふれている。

一方、ベテランから曲者まで、新旧とりまぜて揃えも揃えたりという役者陣に負うところ大とはいえ、原典の滋味と香気を損なうことなく英国流のスリラー映画に仕立て上げたトーマス・アルフレッドソン監督(『ぼくのエリ 200歳の少女』)のセンスも抜群のものがある。これで出身がスウェーデン、おまけに英語圏での初仕事というのだから恐れ入るしかない。

ところで原作に話をもどすと、現在と過去をシャッフルしたかのような複雑な構成、敵か味方かも定かではない人間関係、背景の複雑な世界情勢、もってまわった表現が横溢する古き良き英国調など、読者にやさしくない点を数えあげるとハンパない原作だが、今回リニューアルされた新訳版をうん十年ぶりに再読してみたところ、これが意外にもすんなりと読み通すことができた。原作と村上博基訳の相性のよさもあるだろうし、観たばかりの映画の余韻があったかもしれない。しかし、原作の新訳登場と映画の公開が重なった今こそ、まさに再読の時節到来であることは間違いない。

初めての読者はもちろん、挫折の過去ある向きにもこの古典的名作にぜひ再度のチャレンジをお奨めしたい所以である。

※2012年4月21日(土)公開予定。

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三橋 曉(mitsuhashi akira)

書評等のほかに、「日本推理作家協会報」にミステリ映画の月評(日々是映画日和)を連載中。

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