3人目の子どもを出産後、フルタイムで働きながらの子育てに一区切りをつけました。核家族で毎日をてんやわんやの大忙しの日々を過ごしていたので、子どもの笑顔を楽しむ時間もままならなくなっていたからです。自分で時間をコントロールできる仕事にシフトし、子どもとの時間をもちたいと思っての行動でした。

 そうはいっても、すぐに考えていた通りの仕事が得られるわけもなく、自由につかえる時間の方がたっぷりありました。そこで、長い間行きたいと願っていた子どもの本のセミナーに通うことにしたのです。

 始発の電車に乗り、会津から東京へ。リュックに道中読む本をいっぱい詰め込み、月に一度上京しての勉強です。

 セミナーは本だらけの小さい部屋で行われます。ドアを開けて部屋につづく狭い通路にも本が壁のように積み上げられており、本にぐるりと囲まれた空間でY先生のセミナーがはじまります。

 初級セミナーでは、絵本を読み、詩を読み、昔話を読み、わらべうたを読んでいきます。ひととおり勉強した後は、ゼミのような少人数形式の講座に参加できるようになります。このゼミに通うことも長年の夢でした。いくつもある講座のほとんどは、何年も通う方々で満席なため空席のあるところしか入ることはできず、少ない選択肢の中から昔話を読む講座を選びました。

 3人の子どもたちに、わらべうたを歌い、絵本を読んで育ててきた中で、昔話の魅力についてわたし自身がとても興味をもっていました。どの年齢の子どもをもひきつけるジャンルが昔話だと感じていたからです。

 講座では、毎回『アイルランドの民話』(ヘンリー・グラッシー編著 大沢正佳・大沢薫訳 青土社)の中からひとつの話をY先生が朗読します。内容によっては、英訳された “Irish Folk Tales” も読みます。その感想を皆でいいあってから、マックス・リュティの本に入っていきます。 リュティはチューリッヒ大学教授を長くつとめ、昔話研究を深めた方です。そのリュティの”European Folk Tale”(英訳)をテキストにじっくり読み進めていくのが昔話の講座でした。

 同じところをこれほどくりかえし読んだことは、後にも先にもわたしにはこの時だけです。時には1パラグラフを半年かけて読み解きます。同じところを半年も読んでいるのですから、そらでいえるまでにもなりました。朝9時からはじまり、いっさいの休憩なしで午後1時すぎまで行われる毎週月曜日のセミナーの中でも、この半年はいまも強く印象に残っています。

 くりかえし読んだパラグラフに書かれていたことは、民話の主人公は孤独になることで、人とつながりやすくなるということでした。——徹底的な孤立は徹底的な連結を生む——。孤独にならないと人とつながらないということが、最初はピンときませんでした。字面では理解していても、腑に落ちるところまでいっていなかったのです。

 ふだんの読書なら——わたしは読むのが遅くないので、どんどん読んでいきます——読んだ瞬間に立ち止まらないのであれば、そのままスルーしていたことが、学びの場でくりかえし読むことで、ひとつひとつの文章を深く理解するようになったのです。孤独だからこそ、だれかの手がさしのべられたときにつかむことができる、そう理解できた瞬間に味わった喜びをわたしは忘れません。

 先生はこのパラグラフを理解するために一冊の絵本『空とぶ船と世界一のばか』(アーサー・ランサム文 ユリー・シュルヴィッツ絵 神宮輝夫訳 岩波書店)を紹介してくださいました。

 ランサムは冒険物語『ツバメ号とアマゾン号』にはじまる、岩波少年文庫でランサム・サーガとして刊行されているものが有名ですが、ロシアの民話を再話している仕事もすばらしいものがあります。

 この絵本はロシア民話の再話です。

 3人息子の末っ子はばかものとして家族から疎まれていました。ある日、王様が空とぶ船をもってきた者には娘と結婚させるというおふれを出します。3人息子も上から順々に志願していきます。両親はできるかぎりのことをして送り出しますが、ばか息子が行くといいだしたときは、できっこないよと支度もほとんどさせずに送り出しました。そのばか息子はどうなったか——。

 ばかものとして疎んじられ、支度もないまま外に放り出されたが故に、この息子はどの世界とも通じない孤独な立場におかれます。

 先生は両親からも心をくばってもらえないこの息子こそが、昔話の主人公たりえるものだというのです。だからこそ新しい出会いがあり、おおきな冒険を成し遂げられたと。

 もともとのつながりがない故に、これからのつながりが生まれてくる——、確かにそうです。

 それまでにも読んでいたこの絵本がより深いところに響きました。

 何度もくりかえし読むということは、本好きの小さな子どもたちがよくしていることです。我が家の子どもたちにもそうしてわたしは読んできました。そらでいえるほど読んだ絵本から、子どもたちは深い喜びをもらっていたにちがいありません。

 大人になってからのわたしが、やわらかい気持ちで子どもの本を読むことができるようになったのは、先生が時間をかけて読んでくれたリュティの本があったからこそです。

 そして、わたし自身がその喜びを共有できたことで、くりかえし読むことが心から楽しいものになっていったのです。

 それにしてもいま思うと、先生にとっては毎回が新鮮で大事な文章であり、ご自身がいちばん読む楽しさを味わっていたのかもしれません。

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林さかな(はやし さかな)。本の周辺仕事をしています。現在はオズ・シリーズ(復刊ドットコム)の編集協力進行中。北海道出身、福島県在住。やまねこ翻訳クラブ会員。ツイッターアカウントは @rumblefish 。