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 警察官はしばしば、アホウドリの教えにしたがわなくてはならない——この愚かな鳥は、浜辺の人間たちの手や棍棒による破滅が待ち受けているのを知りながら、屈辱の死を迎える危険も辞さず、砂浜へ卵を産みにいく……。その点は警察官も同じである。すべての日本人は、警察官が卵を完全にかえすまで、けっして邪魔をすべきではない。

 これはエラリー・クイーンの国名シリーズ第1作『ローマ帽子の秘密(謎)』の冒頭にある引用文です。これを書いたとされる日本人の名前は、タマカ・ヒエロ(原文は Tamaka Hiero)。どちらが苗字でどちらが名前なのかはわかりません。アホウドリの教えを説く謎の日本人タマカ・ヒエロ氏の著書『千の葉』からの引用文は、つぎの『フランス白粉の秘密』にも載っています。

 その後、国名シリーズを読み進めていくと、第8作『チャイナ橙〜』では、さらにパワーアップしたマツォユマ・タユキ(原文は Matsuoyuma Tahuki。タフキ?)なる日本人の著書が紹介されます。

 純文学も負けていません。イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』に登場する日本人作家の名前は、タカクミ・イコカ。読んでいて思わず、わたしの姉弟子にあたる翻訳者の高橋恭美子さんを関西あたりへ誘ってあげたくなったものです。

 100年ほど前にアメリカで活躍した謎の日系人コラムニスト、ハシムラ東郷は、「出っ歯で眼鏡で目が吊りあがった顔」「卑屈ながら考えを曲げない」という日本人像の原型を作ったとされています。当時はかなりの人気を博し、早川雪洲主演の映画まで作られましたが、実際には白人作家がそのコラムを書いていて、架空の人物だったそうです。ハシムラ東郷については、こんな研究書まで出ています。

 そのハシムラ東郷も、日本人から見れば苗字がふたつで、おかしな名前なのですが、西洋人にとっては、かなりの日本通の人でも苗字と名前がごちゃごちゃになることが多いようです。

 この点は、われらがダン・ブラウンも同様です。第1作『パズル・パレス』で敵役をつとめる天才日本人科学者の名前は、エンセイ・タンカド。ほかに、トクゲン・ヌマタカという日本人も登場します。全文の記述から考えて、タンカド、ヌマタカのほうが苗字なのは明らかなのですが、どういう漢字をあてたらよいか、想像もつきません。

 訳出の際には、編集者と相談し、もっと日本人っぽい名前にさりげなく変えたらどうかという話が出たのですが、実はこのタンカド(Tankado)という名前が別の語のアナグラムだという趣向があったため、手を加えることができず、結局そのまま訳すことになりました。

 月日が流れ、長らく待たされたラングドン・シリーズ第3作『ロスト・シンボル』の英文原稿がわたしのもとに届いたのは2009年の9月13日。本国での発売より2日前のことでした。いつもと同じく、のっけから読者の心をつかむ展開にわくわくしていたとき、冒頭から数十ページ進んだあたりで、目を疑うものが見えました。そこで颯爽と登場したCIAの女性局長の名前はこうだったのです。

   Inoue Sato

 ダ、ダン先生、日本のことをいろいろ勉強したって、この前のインタビューで語っていらっしゃったのでは?

 通常、ある程度の売れ筋の本の場合、翻訳者のもとへは本国での刊行より半年前に英文原稿が届けられるもので、その場合は、こちらから訂正を促すことも可能です。でも、このときは極秘で作業が進められていて、本国刊行とほぼ同時でしたから、どうにもなりませんでした。

 さあ、どうする?

 さすがにイノウエ・サトウのまま訳すわけにはいきません。ちなみに、井上佐藤さんというBLコミックの作家のかたがいらっしゃるようですが、おそらく偶然だと思います。また、そのころは角川書店の社長が井上さん、角川ホールディングスの社長が佐藤さんでしたが、まさかおふたりに敬意を表したわけでもないでしょう。

 当時の翻訳学校のクラスで、この『ロスト・シンボル』を教材に扱っていたので、どう処理すべきかを生徒に尋ねたところ、圧倒的多数が「井上サト」にしたらどうか、と答えました。すでに原書でこれを読んでいた人たちのネットへの書きこみも、それが主流でした。

 しかし、残念ながら、全体を読めば、サトウのほうがまちがいなく苗字なのです。それでも強引に変えてしまうという手も、普通の翻訳書の仕事ではありうるのですが、『ロスト・シンボル』は映画化がほぼ確定していたので、音声でサトウと呼ばれることを考えると、入れ替えるわけにもいきません。

 こういう場合、もうひとつの手立てとして、苗字しか訳さずに名前をすべて省略するという方法があります。でも、運の悪いことに、1か所、パソコンのログイン画面でユーザー名としてこの人の姓名が表示される場面があり、そこはどうしてもフルネームを示さなくてはなりません。

 あれこれ考えていたとき、かつて同業者から聞いたある話を思い出しました。作品名は忘れてしまいましたが、Toshibaさんという日本人が登場する小説を訳すことになり、さすがに東芝さんではまずいので、トシバさんにしたとかなんとか(そう言えば〈バック・トゥ・ザ・フューチャー2〉にはフジツウさんが出てきます)。

 そうか、トシバさんの手で行こう、それしかない——そう腹をくくったわたしは、最後の手段として、日本語版では「イノエ・サトウ」という女性にこの役割をつとめてもらうことにしました。ただし、あまり目立たないように、原文で11か所あったフルネームのうち、最初の1回と、さっき書いたログイン場面、合わせて2回だけそのまま訳し、あとは苗字だけにしてあります。

 え、漢字はどう書くかって? 自分では「伊之江」というちょっと古風な字をあてて訳しましたが、この人のキャラクターからすると「猪栄」などのほうが合うかもしれません。読む人が自由に脳内で補完してください。

 ダン・ブラウンは徹底的なリサーチをして情報満載の作品を書くタイプの作家ですが、それでもたまにこういうことをやらかしてくれます。ただ、それを言うなら、どの作家の作品を手がけるときも、小説の翻訳には、大なり小なり、そういった尻ぬ……いや、連係プレーが付き物。なんと言っても、血湧き肉躍るノンストップスリラーですから、細かいところで読者が集中できなくなるようなことを避けるのは、こちらの仕事のうちです。それに、こういうスリルがあるから、この仕事をやめられない、というのも、半分本音だったりします。

 でも、ダン先生、今後の小説で日本人を登場させるときは、ぜひ事前にご相談くださいね。

 次回は、11月28日にいよいよ刊行される『インフェルノ』の読みどころや関連書などを紹介します。先週末に『インフェルノ』公式サイトが更新されました。この作品の魅力についてわたしが話している動画もあります。6分と長めですが、よかったらこちらをご覧ください。

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越前敏弥

(えちぜんとしや)。1961年生。おもな訳書に『解錠師』『夜の真義を』『Yの悲劇』『ダ・ヴィンチ・コード』など。趣味は映画館めぐり、ラーメン屋めぐり、マッサージ屋めぐり、スカートめくり。ツイッターアカウント@t_echizen。公式ブログ「翻訳百景

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