注意!

 この連載は完全ネタバレですので、ホームズ・シリーズ(正典)を未読の方はご注意ください。

 このコラムでは、映像作品やパスティーシュ、およびコナン・ドイルによる正典以外の作品を除き、全60篇のトリックやストーリーに言及します。(筆者)

■資料の部の原則(このコラム全体で使う略称)

 SH:シャーロック・ホームズ

 JW:ジョン・H・ワトスン

 SY:スコットランド・ヤード

 B=G:ウィリアム・ベアリング=グールド(研究者)

 ACD:アーサー・コナン・ドイル

 BSI:ベイカー・ストリート・イレギュラーズ(団体)

 SHSL:ロンドン・シャーロック・ホームズ協会

 正典:ACDの書いたホームズ・シリーズ(全60篇)

■第4回『四つの署名』その2■

【前回(資料の部)の加筆訂正】

  • 初出……Lippincott’s Monthly Magazine(『リピンコッツ・マンスリー・マガジン』:米・フィラデルフィアの雑誌)1890年2月(米英とも)
  • 単行本初版…… The Sign of Four(英Spencer Blackett社)1890年10月、The Sign of Four(米P. F. Collier社)1891年3月
  • 初出時の挿絵……ハーバート・デンマン(『リピンコッツ』誌)、チャールズ・カー(英単行本)
  • 事件発生年月……1888年9月[B=G]

【2】コラムの部

  • 作品の注目点、正典における位置づけ、書誌的なことなど

 資料篇で書いたように、『四つの署名』『緋色の研究』に続くシャーロック・ホームズ・シリーズ第2作である。4つの長篇の中では、ホラー小説としても読まれる一番人気の『バスカヴィル家の犬』や、ハードボイルド・ミステリ風味で暗号ものの『恐怖の谷』、“第1作”として常に注目される『緋色の研究』などに比べ、いまひとつ注目度が低い気がするのではないだろうか。だが、内容的にも正典の歴史の上でも、非常に重要な作品だと言って間違いはない。

 ドイルの執筆背景については後述するが、彼自身、脱稿直後に出した編集者宛ての手紙の中で、「物語の構成が『緋色』よりも複雑になり」、優れた作品になったと主張している。確かに、『緋色』は前半と後半ではっきり分かれ、前半の(ワトスンの)回想録から後半ではいきなり三人称になって過去の話にさかのぼるという形式だが、『署名』の場合は逮捕された犯人による告白というかたちで過去が語られるので、よりスムーズな、“ミステリ小説”になっていると言えよう。

 この作品を初めて読んだ現代の読者が最も衝撃を受けるのは、やはり冒頭のコカインのシーンではなかろうか。当時はコカインをはじめアヘンやモルヒネまでが合法だったとはいえ、探偵が“ヤク中”である設定はかなり刺激的であり、ホームズという人物像をできるだけエキセントリックなものにしようとしたドイルの意図が、うかがえる。冷血な思考機械、女性嫌い、超ヘビー・スモーカー、偏った知識……その反面、推理力だけでなく強靱な体力をもち、格闘技に優れ、ヴァイオリンの腕もよく芸術を解する……。風変わりな探偵というのはこの百年で飽きるほど登場してきたが、その先駆けであったというわけだ。ホームズをできるだけエキセントリックなキャラクターにすることは、パロディ/パスティーシュで盛んにやられてきたが、近年登場した二つの“現代版”映像化ホームズ(イギリスの『シャーロック』とアメリカの『エレメンタリー』)では、それぞれが別のかたちで奇矯なキャラクターづくりをしている点が、おもしろい。

「コカイン7パーセント溶液」は、資料篇に書いたようにその後非常に有名となり、パスティーシュをはじめ、映画や舞台でさまざまに使われてきた。“ホームズ”を表現するイコンとしてはディア・ストーカー(鹿撃ち帽)やインヴァネス・コートやパイプ、虫眼鏡がメディアでよく使われるが、シャーロッキアンなら、この「セヴン・パーセント・ソリューション」を忘れてはならないである。

 この冒頭のシーンは、物語の最後——つまり「ぼくは妻を、ジョーンズ(刑事)は名誉を得た」というワトスンに対して、ホームズが「ぼくにはまだコカインの瓶があるさ」と言うシーンに呼応するわけだが、事件がなくて退屈するとよからぬ方向へ行ってしまうというホームズの傾向は、その後のさまざまな作品で彼の特徴として書かれることとなる。

 とはいえ、ドイルは読者を驚かせておくだけでなく、ホームズ物語の醍醐味である“日常の品を観察する見事な推理と、それに驚くワトスン”というシーンをちゃんと用意している。ワトスンの懐中時計に関する推理のシーンだ。これは、その後のホームズ・シリーズで発揮される魅力をすでに第2作で確立していることを示しているし、ワトスンの兄の過去をあばいてしまうことで双方が苦々しい思いをする点も、二人の関係のうまい描き方だと思う。

 ちなみに、この依頼者メアリが登場するまでの第1章は「推理の科学」(The Science of Deduction)で、『緋色』の第2章とまったく同じタイトルだが、その一方、『緋色』の第1章タイトル「シャーロック・ホームズ君」(Mr. Sherlock Holmes)は『バスカヴィル家の犬』の第1章とまったく同じ。だから何だというわけでもないが、現代だったら編集者から何か言われたかもしれない……と、つい思ってしまう。

『署名』でもうひとつの大きな注目点といえば、やはりラストでワトスンが結婚してしまうことだろう。これまで書かれた内外のミステリで、探偵の相棒役が依頼人と結婚してしまう作品がどのくらいあるのか。私には見当もつかないが、普通、『緋色』を読んだあとにこの『署名』の結末を読んだら、「ああ、これで二人の同居も終わり、ワトスンは奥さんと一緒に医院を開業して、物語も終わりかぁ……」と思ってしまうのではないだろうか。少なくとも、ベイカー街221bにいるコンビの探偵物語は終わりか、と。

 だが、ドイルはそう思わなかった……というより、そんなことは意に介さなかった。まあ、確かに言われてみれば、ワトスンがホームズとの付き合いの中で同行した事件を記述するのなら、過去にさかのぼることはあるし、クロノロジカルに書く必要などないわけだ。……もともと日付に無頓着な(手紙にも書かないことが多かった)ドイルならではの行き当たりばったりが功を奏したのか、それはわからないが、『署名』のあとに短篇を連載しはじめたとき、“ホームズとワトスンのコンビ”とか“ベイカー街221b”とかいう要素がどのくらい(のちのロングセラー化にとって)必要なのか、おそらく考えてはいなかったろう。

  • 邦題の問題

 本作が初めて世に出たとき、つまり月刊誌『リピンコッツ』に掲載されたときの原題は、資料篇にあるようにThe Sign of the Four; or, The Problem of the Sholtos(四つの署名、あるいはショルトー一家の問題)であった。その後イギリスで初めて単行本になった際は後半がカットされ、さらに The Sign of Four と、途中の“the”がないかたちになった。その後はさまざまな版でどちらも使われているが、英・米ではっきり分かれているわけではない。邦題で雑誌掲載時のフルタイトルを使っているものはないと思う。

 さて、『緋色』のときと同様、ここでも“タイトルの正しい意味”と“書籍の題名に向くか向かないか”という問題のせめぎあいがある。つまり、四人の署名と言っても、物語の第3章にもあるように、図面に書かれてあったのは「四つの十字を横一列につなげたような奇妙な絵文字」であった。ちくま文庫の全集第5巻『四つの署名/バスカヴィル家の犬』の訳注で監訳者の小池滋氏が書いているように、「かつて自分の名前も書けない人が多かった頃は、署名を必要とするような重要な書類(たとえば結婚登記簿とか証文とか)に、名前のかわりにこの十字の記号を記せば署名と同じ効力が生じた。だからジョナサン・スモールは英語の不自由な他の三人のことを考えて、署名のかわりに十字の記号を四つ付して、重要な連判状であることの証明とした」のである。

 となると、この作品の邦題は『四人の記号』とか『四人組のしるし』などにせねばならないのだろうか。

 前述の小池氏は、同じ訳注で「この作品はわが国でこれまで『四つの署名』という題で親しまれて来たから、ここでもその標題に従うこととする」としたあと、最後に「……したがって本文の中では『四つの署名』ではなく『四人の記号』と訳すことにした」と書いている。私も光文社文庫の訳では同様のかたちをとらせていただいた。一方、資料篇にあるように、河出文庫(今月刊)の小林・東山両氏は、文庫化前に単行本から、『四つのサイン』という邦題を採用している。

 ただ、これまでそういう邦題がなかったかというと、そうでもない。戦前の訳を見ると、『四つの印』(永瀬春風訳、大正6年)や『四つの暗号』(加藤朝鳥訳、大正7年)といった邦題が見られるからだ。もちろん、児童向けには『古城の怪宝』などという素敵な題名も見られるが。

  • シャーロッキアーナ的側面

 ある程度のファンであれば、現在世界中で親しまれているホームズのイメージをつくったのがシドニー・パジェットの挿絵であることは、ご存じだろう。初めての“正典に忠実な”映像作品と言われるグラナダTVのホームズ・シリーズ(ジェレミー・ブレットの、と言ったほうがわかりやすいだろうか)が、このパジェットのイラストをそのまま再現しているのも、あるいは名優ウィリアム・ジレットの舞台劇がパジェットのイラストを思わせると言われたのも、ともに有名な話だ。

 ただ、パジェットは正典60篇すべての挿絵を描いたわけではなかった。彼が担当したのは『ストランド・マガジン』の連載が始まってからだから、この『署名』と前回の『緋色』のイラストは描いていないのである。

 そのあたりの話はまた別途、どこかの回の余談で書くことにして、ここではその『署名』の挿絵について、触れておきたい。

 前述したように、世間一般におけるホームズのイメージはディア・ストーカーとインヴァネス・コートとパイプと虫眼鏡でできていると言っても、過言ではない。どこかの不動産屋のマスコット・イラストにしても、テレビ番組の探訪レポをする女の子タレントにしても、とにかくディア・ストーカーとインヴァネス(もどき)を着れば“名探偵”になってしまうわけである。パジェットはそのディア・ストーカーをホームズにかぶらせた画家として知られ、そのことは Wikipedia はじめ、さまざまなウェブサイトにも載っている。

 ただし、彼が“初めて”ホームズにディア・ストーカーをかぶらせたわけでは、なかった。今回の『署名』を『リピンコッツ』のあとに掲載したイギリスの雑誌のひとつ、The Bristol Observerが、8回連載のうち2回、1890年6月7日と6月14日の号で載せた挿絵に、そのディア・ストーカーをかぶる(ただし口ひげのある)ホームズが登場しているのだ。

 このことは2000年刊の A Bibliography of A. Conan Doyle, revised edition(リチャード・ランスリン・グリーン&ジョン・マイケル・ギブスン編)で「ホームズがディア・ストーカーをかぶっている最も早い作品」と書かれているのだが、先日、現物のイラストをネット上で初めて見ることができた。フランス・シャーロック・ホームズ協会とジョン・ワトスン協会の二つのサイトで、いずれもフランスSH協会の共同創立者 Alexis Barquin 氏が去年の暮れに提供したものだが、転載の打診はまだしていないため、ここに画像を貼り付けることはやめて、ワトスン協会のURLだけ載せておこう。

http://www.johnhwatsonsociety.com/1/post/2013/12/new-data-from-alexis-barquin-jhws-olivier.html

 犬のトービーを連れて追跡するシーンと、モーディケアイ・スミスの息子ジャックを相手にしているシーンが、わかると思う。ただ、ディア・ストーカーをかぶっているのがホームズだとすると、インヴァネスはホームズでなくワトスンが着ているわけだ。

 ちなみに、Alexis Barquin氏は“new Sherlockian discoveries”と言っているが、そうでないことは、上記の資料でわかると思う。

20130209103305.jpg

 ところで、シャーロッキアンといえば、世界最初にシャーロッキアンの団体をつくったBSIが頭に浮かぶが、そのBSIはもちろん、この『署名』(および『緋色』)に登場する街の浮浪児たちのグループ、ベイカー街不正規隊(ベイカー・ストリート・イレギュラーズ)から名前をとっている。資料篇にも書いておいた、「あの子たちならどこへでも行けるし、何でも見られるし、だれの話だって立ち聞きできる」というホームズのせりふでも有名だ。今回はディア・ストーカー姿のホームズのかわりに、BSIのレターヘッドに使われているロゴマーク(イラスト)を紹介しておく。絵の下にある“it is the unofficial force”というのは、221bに闖入してきた浮浪児たちにワトスンが驚いたとき、ホームズが言ったせりふの一部である。

  • ドイリアーナ的データ

 前述したように、この『署名』は正典の歴史の上でも重要な作品であり、ホームズものがのちのちまで読みつがれる超ロングセラーになるための、重要な布石でもあった。

 現在の私たち、いや1930年代以降の読者すべては、正典60編が完結したあとから振り返って全体を見ているわけだが、『署名』の執筆当時、1889年頃は、ホームズを主人公とした作品がこの先続くかどうかなど、誰にも(コナン・ドイル自身にも)わかっていなかったはずだ。

 その意味で、『緋色』発表のあと歴史小説の執筆に力を入れはじめていたドイルを夕食に誘い、『リピンコッツ』誌への執筆を依頼したJ・B・ストッダートは、重要な役割を果たしたと言える。そのあたりを、ドイルの当時の状況をふまえて考えてみよう。

『緋色』が『ビートン年刊誌』に掲載されたのが、1887年の暮れ(11月)。ドイルはその5年前にポーツマス市サウスシーで医院を開業したが患者があまり来ず、短篇小説を雑誌に書き散らしていた。

 それでも1885年に結婚したドイルは、『緋色』の売り込みをしつつ大冊の歴史冒険小説『マイカ・クラーク』を執筆し、『緋色』の出た1887年暮れに脱稿、これもなんとかして1889年初めに刊行にこぎつけた。幸いなことにその評判は上々であり、ほぼ同時期に初めての子供(長女メアリ・ルイーズ)が生まれるという幸福な状況の中、1889年8月にはさらに本格的な歴史長篇、『白衣の騎士団』を書きはじめたのだった。

 そのままでいけば、ドイルは次々に歴史小説を書き、ホームズものは二度と陽の目を見なかったかもしれない。だが、彼が『白衣の騎士団』を書きはじめた直後、イギリス版をスタートさせるアメリカの月刊誌『リピンコッツ』が『緋色』の続篇を書くことを勧めたせいで、ホームズものは生き残ったわけだ。同じ会食に招かれていたオスカー・ワイルドの書いたのが『ドリアン・グレイの肖像』だったというのは、今ではかなり有名な話である。

 1889年8月30日の会食(ちなみに、グリニッジにある店で魚料理だったらしい)で執筆契約をしたドイルは、なんと9月30日にこの『署名』を書き上げている。中篇程度の分量とはいえ、ミステリなのだから、構想の時間も含めたら驚くべき執筆速度としか言いようがない(のちの『ストランド』に載る短篇でもそうだ)。あるいは、早く『白衣の騎士団』の執筆に戻りたいがため、とんでもない集中力を発揮したということなのか。

 その『署名』が載った『リピンコッツ』誌は1890年2月に発売され、『白衣の騎士団』は1890年7月に脱稿、1891年1月に雑誌連載が開始されている。その後、ホームズものの短篇掲載が1891年7月に『ストランド』で始まり、大ブレイクするまでのことは、次回以降にゆずろう。

 最後にひとつ。『緋色』刊行のとき印税契約でなく買い取り契約にされ、しかも25ポンドしかもらえずに悔しい思いをしたドイルは、今回、出版社側に多少の譲歩をさせている。アメリカでの出版権はリピンコット社に買いとられたものの、イギリスでは刊行から3カ月たったら自分でほかの雑誌に売り込めるような契約にしたのである。そのおかげで『リピンコッツ』発売のあと、1890年の5月から、イギリスでは5つの雑誌が『署名』を掲載した。そのうちのひとつが、前述のThe Bristol Observerなのである。

★今月の余談に代えて★

 今月は力尽きたので、ほんのちょっと。ああ、月刊誌の原稿が落ちる……。

 ドイルが1882年にサウスシーで開業してから短篇を書き散らしていたことは書いたが、その翌年、小説家として名を挙げるには長篇を書かなくてはいけないと早くも悟った彼は、The Narrative of John Smith という私小説っぽい長篇を書いた。ところが、出版社への郵送途中で紛失されてしまい、がっくりきてしまう。

 それでも記憶に頼って同じ小説を書き直しはじめたのはすばらしい精神力と言いたくなるが、かなりの部分を再現したところで、ほかの作品に割く時間の問題もあり、未完のままあきらめてしまった。その原稿が120年ぶりに発見されて2011年にブリティッシュ・ライブライから刊行されたことは、マニアならご存じだろう。今年はいよいよ、その邦訳がお目見えするとかしないとか……。

日暮 雅通(ひぐらし まさみち)

 1954年千葉市生まれ。翻訳家(主に英→日)、時々ライター。ミステリ関係の仕事からスタートしたが、現在はエンターテインメント小説全般のほか、サイエンス&テクノロジー、超常現象、歴史、飲食、ビジネス、児童書までを翻訳。2014年も十冊ほど訳書が出る予定。

 個人サイト(いわゆるホームページ)を構築中だが、家訓により(笑)SNSとFacebook、Twitterはしない方針。

日本人読者のためのホームズ読本:シリーズ全作品解題(日暮雅通)バックナンバー