●お詫び(および今回の内容について)
本欄は“連載”のはずでしたが、純粋に個人的な出来事のせいで1年以上も途切れてしまいました。精神的な打撃に加え、事務的な処理に時間をとられたことが大きな理由ですが、それにより本業もすっかり滞ってしまいました。本欄をお読みくださっていた方々からの催促はもちろん、「ヴァン・ダインの次はまだか」などというお叱りの言葉も再三いただき、申しわけなく思うばかりの1年でした。本欄の(あまり多くはないであろう)読者の皆さんと、拙訳書の(コアな)読者の方々、それにすっかりご迷惑をおかけしてしまった担当編集の方々(特にTS社の方々)に、この場を借りてお詫び申し上げます。
本欄の執筆再開がなかなかできなかった理由には——形式や目的や内容のレベルは違うにせよ——このコラムと似たようなコンセプトの正典総合ガイドブックを2冊、続けて手がけてしまったということもあります。内容がバッティング云々ということではなく、このコラムの書き方、方向性をもう少し変えるべきかもしれないと思いはじめたからです。ただ、あまりこねくり返したり、途中からおかしな方向転換をするのもマイナスだと思うにいたり、このまま再開することにしました。
が、1年以上のブランクがあると、やはり一種のリハビリが必要のようです。今回は失礼ついでにもう少し時間をいただき、番外編とさせていただきます。前回(第13回「技師の親指」)のラストで「今月の余談」に、「次回は最近刊行されたホームズ/ドイル関係の大型ビジュアル本を紹介するつもりだ」と書きました。その数冊の中に前述の「正典総合ガイド本」2冊が含まれているわけですが、今回はその「余談」がメインになります。
●新しい時代のホームズ総合ガイドブック
2009年に起きたホームズ映像化作品の“新しい波”は、多くの新たなホームズファンを生んだと言われる。ワーナー映画の『シャーロック・ホームズ』、英BBCテレビの『SHERLOCK/シャーロック』、米CBSテレビの『エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY』の3つのシリーズは2017年にも続く予定であるし、ワトスン役が亡くなったため1シーズンで終わったロシアのテレビ版『名探偵シャーロック・ホームズ』や、単発の『Mr.ホームズ 名探偵最後の事件』も、大きな注目を集めた。
そうした映画・TV作品のヒットのせいで、あるいはホームズ役者の人気のせいで、活字や電子の出版界でもホームズもの小説(パスティーシュやパロディ)が急増した。素人臭い自費出版作品がかなりの数を占めるが、中には光るものもあり、英語圏では10年前の2倍、いや3倍の点数があふれ、まさに玉石混淆の極みといったところだ。
その一方、著者コナン・ドイル自身のプロフィールから、正典全体やその翻案作品(映像とパスティーシュ)、およびファン活動までを総合的に解説するガイドブックの出版も、この2年ほどで増えている。
正典全体のガイドブック、あるいは60編の正典全部に解説(注釈)を与えるレファレンスブックという意味なら、ずいぶん前からつくられていた。古くはD・マーティン・デイキンの Sherlock Holmes Commentary(1972年)や、マイケル・ハードウィックのThe Complete Guide to Sherlock Holmes(1987年)、クリストファー・レドモンドのSherlock Holmes Handbook(1993年。2009年に改訂版)、マーティン・ファイドーの The World of Sherlock Holmes: The Great Detective and His Era(邦訳『シャーロック・ホームズの世界』)などがあったし、その後もライリー&マカリスターの The Bedside Companion to Sherlock Holmes(2005年。邦訳『ミステリ・ハンドブック シャーロック・ホームズ』)や、マーク・キャンベルのSherlock Holmes(2007年。Pocket Essentialsシリーズの1冊)がある。個々の作品解説はないが、スティーヴン・ドイル&デイヴィッド・クラウダーによる Sherlock Holmes for Dummies(2010年)などは、一種の“シャーロッキアン入門書”だ。
だが、資料的写真が豊富に入った大型ヴィジュアル本の総合ガイドは、数えるほどしかなかった。それが2014〜2015年の2年間に英米だけで(改訂版も含むとはいえ)6冊刊行されているのだから、ある種の傾向と考えてもいいのではないだろうか。それぞれの切り口は違うものの、いずれも2009年からの新しいホームズ映画の波を意識した本であることは共通している。
“新しい波”である映像化作品に特化した研究書も出版されているが、ここでは総合ガイド本に絞ってそれぞれを簡単に紹介しておきたい。
2014年10月刊 Sherlock Holmes: The Man Who Never Lived and Will Never Die(アレックス・ワーナー編、邦訳『写真で見るヴィクトリア朝ロンドンとシャーロック・ホームズ』)
2014年10月から2015年4月にかけてロンドン博物館で行われた同名の展示に合わせて刊行された、大型ビジュアル本。直訳すれば「シャーロック・ホームズ——(現実に)存在しなかったゆえに決して死ぬことのない男」とでもなろうか。つまり、「ホームズとその世界の魅力がいつまでも失われずにいるのは、なぜなのか。その点を探り、明らかにする」ことが、展示と本書に共通するコンセプトである。
1951年の英国祭のおりにセント・マリルボーン区がホームズ展を開催してホームズの居間を再現し、それが現在もシャーロック・ホームズ・パブの2階に残っているのは有名な話だが、英国ではそれ以来60年以上、本格的なホームズ展は開かれていなかった。今回はドイルの原稿やパジェットのオリジナルといったものを展示するだけでなく、当時のロンドンの町並み(事件のあった場所)と現在を比較する展示といった、いかにもロンドン博物館らしいものが見られた。また、映像化作品のコーナーも充実し、ホームズが不滅の人気をもつ理由を多角的にとらえようとしていた。
その展示自体のカタログ本は、展示が終わったあとの2015年5月に発行されたが、本書自体は会場にも置かれていたし、展示作品の写真も豊富に含んでいたので、むしろこちらがオフィシャルなカタログのような印象を受けたものだ。とはいえ、長い総論的な序章と5つの章——ボヘミアン・ホームズの分析、パジェットのイラストと《ストランド》誌について、当時のロンドンを描いた絵画について、ドイルがホームズを何度も切り捨てようとしたことの分析、サイレント映画時代のホームズについて——から成る本書は、展示自体と同様、多角的な見かたで正典とホームズをとらえようとしている、一種の総合ガイドでもある。
2014年11月刊 The Sherlock Holmes Companion: An Elementary Guide(デニス・スミス著、邦訳『シャーロック・ホームズ完全ナビ』)
この本は正統的な正典ガイドブックであり、わかりやすい構造になっている。カラー図版も豊富でレアな写真もある、大型ビジュアル本だ。正典60編すべての作品に関するあらすじやコメント、出版データを書いたページの合間に、コナン・ドイルや正典中のキャラクター、時代背景についてのコラムと、ホームズ俳優や作家へのインタビューがはさみこまれている。
初版は2009年で、今回第2版として大幅改訂。巻頭に年表を付け、ホームズ自身に関するコラムを増やしたほか、映像化作品に関するコラムも大幅加筆した。BBC『SHERLOCK/シャーロック』の生みの親マーク・ゲイティスへのインタビューが加えられたのも、やはり“新しい波”を意識してのことだろう。正典60編のあらすじは、ネタバレおよび結末を書かない、オーソドックスな形式。
著者デニス・スミスは正典をよく理解している研究者なので、安心して読んでいられる。だが、もちろんどんな本にも間違いはあるもので、細かな事実誤認や誤植は訳書で訂正してある。
2014年12月刊 The Mysterious World of Sherlock Holmes(ブルース・ウェクスラー著)
その“事実誤認や誤植”をたくさん指摘されたのが、この本であった。ほかの大型本よりさらに少し大きなビジュアル本で、図版を見ているだけでも楽しめるのだが、あまりにもミスが多いということで、複数の読者から辛口批評をもらっている。
本自体の構成は、ドイル自身のことや正典の発表履歴のほか、当時のロンドン、法医学(犯罪科学)、警察、女性の立場について正典を通じてビジュアル資料とともに紹介し、映像作品や現在のホームズ関係資料(博物館や)、はてはホームズグッズまで、浅いながらも網羅している。正典のストーリー紹介も分析も、ホームズ研究家的視点もないが、総カラー図版なので、とにかく眺めて楽しむにはいいだろう。
その反面、数多い間違いは、著者の未熟さと編集・校正の粗さをさらしてしまうことにもなった。単純ミスでは、目次のノンブルが半分以上間違っていること、ジョルジュ・シムノンのスペルミス(複数回)、ドイルの娘Maryを“May”と書いていること、ワトスンの名前を“James”と書いていること(わざとか?)、1800年代を18世紀と何度も書いていること、1885年をエドワード朝時代と書いていること、〈緋色の研究〉のイラストを〈ノーウッドの建築業者〉のものとしていることなどが指摘されている。こうしたミスがほぼ全ページにあるというのは大げさだろうが、間違い探しの本として使うのも一興かもしれない。
もちろん、単純な誤植だけならまだ我慢もできる(多いとできない?)だろうが、著者の知識不足も指摘されている、特に映像化作品の章ではかなりの間違いがあり、「インターネットでちょっと調べればわかること」という指摘もあった。本書に限らず、ほかの分野の入門・紹介書をさまざまに書いてきた人がホームズ/ドイル関係に手を出したときに、よくある失敗と言えよう。
実はこの本、2007年末に刊行された本の新版なのだが、2007年版の AmazonUK を見ると別の版元の出版で、しかも版元名に The Sherlock Holmes Museum の名が併記されていた。あのベイカー街にあるホームズ博物館である。2014年版でも Amazon の解説には This is the official book of the Sherlock Holmes Museum at 221B Baker Street, London と書かれてある。ホームズ博物館が宣伝用を兼ねて出版させたのだろうか。だとすると、掲載されているホームズの居間の写真のほぼすべてがホームズ博物館のものであり、ロンドンのホームズ・パブとスイスのローザンヌにある正統的な居間の写真がまったくないことも、うなずける。
2015年5月刊 Sherlock: The Fact and Fiction Behind the World’s Greatest Detective(マーティン・ファイドー著)
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タイトルは違うが、前出の本 The World of Sherlock Holmes: The Great Detective and His Era(邦訳『シャーロック・ホームズの世界』)の改訂版。デニス・スミスの本と同様、最近の“波”に合わせて図版と文章を変えたのだが、図版差し換えは全体にわたっており、がらりと違う本になった印象を受ける。レン・デイトンの写真が歳をとっていて笑えたりするが(笑っちゃいかんか)、内容もしっかりしている。
著者はオックスフォード大出身のディケンズおよび切り裂きジャック研究家だが、若干もってまわった書き方をするので、内容とのバランスを考えると、もうちょっと読みやすくしてほしいところだ。ホームズとドイルの年表から始まり、ホームズの生涯、ドイルの生涯、正典の概略(60編全部でなく単行本単位)、当時の犯罪事情、推理小説の歴史、ファン活動など、ひととおりのガイドになっている。
2015年10月刊 Sherlock Holmes’s London: Explore the city in the footsteps of the great detective(ローズ・シェパード著)
これはほかの本と毛色が違い、各章がロンドンのそれぞれの地域、および郊外に当てられ、図版を豊富に使いながら当時のようすを解説したものだが、当然ながらそのつど正典(および映像化作品)との関係が記述されるので、ベイカー街をはじめスコットランド・ヤードもアヘン窟もテムズ川もすべて出てくる総合ガイドとなっている。当時のロンドンを知るというコンセプトでは前述したアレックス・ワーナーの本に近いが、ヴィクトリア時代の事物からBBC『SHERLOCK/シャーロック』の画像まで、ビジュアル的にも楽しむことができる。
日本版はまだないと思うが、台湾版が出ていることを、先日台北最大の書店で確認した。ちなみに、この本を含め、今回紹介する本のほとんどが、Co-production(国際共同出版)という形式で刊行されたもので、印刷・製本は中国でされている。
2015年10月刊 The Sherlock Holmes Book(デイヴィッド・スチュアート・デイヴィースほか著、邦訳『シャーロック・ホームズ大図鑑』)
その国際共同出版で非常に有名な出版社、Dorling Kindersley による、Big Ideas Simply Explained というヒット・シリーズの1冊。編著者は英米で有名なシャーロッキアンであり、ホームズ戯曲やパスティーシュの作家であり、ミステリ作家。私も年に1回は会う人物だが、特にそのユーモアのセンスが秀でた、かなりの才人だ。そのせいもあって、非常にバランスのとれたビジュアルガイドに仕上がっている。もともとこのシリーズは素晴らしいデザイナーによるオリジナル図版と、ユニークでわかりやすい年表形式が売りなので、その両方が融合してできた作品と言えよう。ただ、これまで書いたように、間違いをゼロにすることは難しい。ここでも事実誤認や単純誤植をかなり直すことになった。日本の編集・校正者なら見逃すはずがないというようなケースが多いのだが……。
本書の最大の特徴(?)は、正典60編について結末(ネタバレ)まで書いてしまったという点にあるだろう。おそらく、ホームズ物語はすでに古典であり、なおかつ、その分析や面白さ、重要さの指摘をするには結末まで書かねばならないという理由によるのだろう(訳書では冒頭にネタバレ注意の警告をしている)。シャーロッキアン向けの研究書では当然許されることとはいえ、訳者としてはまだビクビクものである……。
2016年9月刊 名偵探與柯南:?爾斯藝文事件簿(蔡秉叡/Sai Hei Ei著)
What’s Visionというシリーズの1冊らしい。「らしい」というのは、私が台湾語を読めないため推察になっているからだが、台湾の中国語は日本の漢字に近いものを使っているので、推察がしやすい。しかも豊富な図版を通じて、本書が台湾オリジナルであることがわかる。正典60編のプロット紹介のほか、著者がその手の学者らしく、ヴィクトリア時代のカルチャーや事物その他についてのエッセイも豊富に入っている。
なお、帯および序文に「ホームズ誕生130周年」、帯に“Sherlock and Conan”とあり、カバーにはホームズと名探偵コナンのシルエットがある。う〜む。
2016年9月刊 About Sixty: Why Every Sherlock Holmes Story is the Best(クリストファー・レドモンド編)
最後に、前出Sherlock Holmes Handbookの著者が編集した異色作を。なんと、「正典は60編すべてが魅力的なのであり、ひとつひとつがベスト・ストーリーなのだ」というコンセプトのもとに、60人のシャーロッキアンおよび作家がそれぞれひとつの正典作品を選び、「私はなぜこの作品がベストだと考えるか」を書いたものだ。ビジュアル大型ガイド本ではないし、入門書という位置づけもできないが、60編すべてに言及するという意味では、注目作である。
日暮 雅通(ひぐらし まさみち) |
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1954年千葉市で生まれ、千葉大のそばで育つ。翻訳家(主に英→日)、時々ライター。ミステリ関係の仕事からスタートしたが、現在はエンターテインメント小説全般のほか、サイエンス&テクノロジー、超常現象、歴史、飲食、ビジネスのNFと、児童書まで幅広く翻訳。2017年は数年越しの訳書がいくつか出る予定。とはいえ、海外イベント参加が3つあるので、今から気を引き締め中。 個人サイト(いわゆるホームページまたはブログ)は、まだ構築中。家訓により(笑)SNS(Facebook、Twitter、LINEその他)はしない。 |