ロンドンの教会で和歌を詠むという風変わりな使命を果たし、今年もフランクフルトへ向かった。

 フランクフルト・ブックフェアは世界最大の書籍見本市である。“見本市”と書くと、業界外の方には誤解を招くかも知れない。世界の各出版社・エージェントがディスプレイしている完本に、われわれが目を向けることはあまりない。すでにそのほとんどは、“勝負あった”あるいは“日本では見放された”、もはや過去の商品なのだ。昨年、本邦でもご好評をいただいた『チャイルド44』の著者紹介に「(本国での)刊行1年前から世界的注目を浴びた」と記したところ、「んなこと、あるわけねえだろ」と書かれたブログを見かけた。あるわけあるのです——話題作は原稿が完成した段階で、あるいは未完成の段階ですら、世界中の出版社が先を争って翻訳権をかっさらってゆく。かつては日本でも、A4で2ページとか、たった6行の内容紹介だけで、その場で数万、数十万ドルという前払いを決めた版元があったものだ。

 今回は私にとって17回めのフランクフルトとなったのだが、実を言えば、英語の読解力と会話力しだいでは、少なくとも新作情報の取捨選択については二、三度も経験を積めば勘所が署ルめる。むしろ、インターネットが発達した今となっては、こんなところにはるばる出向くことになんの意味があるのか、という論調も根強い。

 その意味は“気と目”にある、と思う。2年前——残念ながらこれはロンドン・ブックフェアだったのだが——『チャイルド44』をめぐる“気”を会場で確かに感じた。その“気”をはらんだままホテルに戻り、すぐさま権利者にメールを送ったりもした。あのフェアに参加していなければ、自分が最後までこの作品の争奪戦に踏みとどまっていたかどうか、確信は持てない。

 では、“目”はどういうことか。鑑識眼を指しているわけではない。身体のパーツとしての目そのもののことだ。人気作家の相場はもちろん高い。だが、こちらのマーケットはご承知の通りの惨状だ。“思いやり予算”など計上できるわけがない。それでも熱心な読者のためにはなんとかつなぎとめたい。こうして、前作よりも条件を下げざるを得ない場合、権利者と日本の出版社を仲介する国内のサブ・エージェント各社も努力してくださるものだが、土俵際まで追い込まれれば最終兵器は自分のこの細い目だと思っている。当事者として経緯と現状と意欲を、持てるかぎりのヴォキャブラリーを駆使しつつ説明し(これはメールでも用足りるわけだけれど)、さらには相手を「目で殺す」しかないのだ。そんな機会がままあったればこそ、しつこくこの地に足を運びつづけてきたと言っていいかもしれない。

 各社の編集者やエージェントと飲み明かす夜もあった。「二度と俺の前に現れるな」と権利者にほざかれたこともあった。日本の版元同士が殴り合い寸前まで行ったこともあった。帰国便の離陸7時間前に現地で応急の手術を受けたこともあったな。

そして、胸躍らせる邂逅があれば、心痛む告別もあった。

 和歌を詠んだのも、急逝した英国屈指の文芸エージェントのメモリアル・サーヴィスに際してのことだ。ポール・マーシュ、あなたのことは忘れない。

 そして、17回めで初めてそのポールがいなかったフランクフルトも幕を閉じた。

新潮社出版部(わ)