あたりまえだが、編集者駆け出しの頃にはいまのようなメールは存在しなかった。つまり原稿は直接の受け渡しか、お願いして(ヤマトも佐川もなかったので)郵送してもらうしかなかった。遅筆の翻訳者の原稿をただ待っているだけでは埒が明かないので、自然、何度も足を運んで少しずつでももらってこなければならない。
遅筆の翻訳者は数多あれど、なんといっても印象深いのは稲葉明雄さんだろう。レイモンド・チャンドラーやレン・デイトンなどの翻訳の質の高さには定評があるが、とにかく時間がかかる。といっても別に遠いところにお住まいだったわけではなく、駅は久米川だったか東村山だったかなのだが、長いものをお願いしたときなど、それこそお百度を踏むことになる。担当者も忙しいから、今度はおまえが行ってこいと新米が使いに出される。
ご自宅のことも何度かあったが、だいたいは駅そばの喫茶店で待ち合わせる。たとえば2時にお会いすると、喫茶店を出るのは夕暮れ迫る頃、ペラ(200字詰め原稿用紙)10枚ほどをバッグに入れ、豆腐屋のラッパに送られるように帰社することもたびたびだった。 なにしろ話し好きな方だった。やさしげな声で淡々と語られるお話の中身は、翻訳の良し悪しや小説の評価から翻訳業界の内幕話まで、実に面白いし、ためになる。業界の人間関係など微妙な話も多く、ずいぶん学ばせてもらった。とはいえ2時間もすると、だんだん腰が落ち着かなくなる。仕事とはいえ、あんまり遅く帰社すれば油を売っていたと誤解されかねない。話題の切れ目を狙って「それではそろそろ」と口を開きかけるが、絶妙のタイミングで次の話題に移られてしまい、またまた話に引きこまれる。
長時間だから、一度や二度はトイレに立たれることがある。戻ってきたらそれをきっかけに席を立とうと固く決意し、帰りを待つ。姿が見えたので、バッグに手を伸ばし腰を浮かしかける。ところが敵もさるもの、席までまだ2、3メートルあるというのに、稲葉さんは歩きながら「ところで……」ともう話し始めている。こちらは胸で小さくため息をついて、もう一度腰をおろすしかない。要するに、訳者ならぬ「役者が違う」ということだろう。そして再び「まったりとした」時間が続くことになる。
あの頃、何の原稿をもらっていたのかまったく記憶にないので、稲葉さんの訳書リストを調べてみたが、該当する作品がどうしても見当たらない。雑誌の原稿だったのだろうか。それでも、あれだけの時間を費やしていったい何を、という空しさを覚えることはない。いま思えば自分にとっては掛けがえのない貴重な時間だった。話の内容は断片しか記憶になくても、意識下かどうか知らないが頭のどこかに残っていて、発想や考え方の基盤を作ってくれたものと信じている。
稲葉さんと最後にお目にかかったのは、1980年代末か90年代の初め、翻訳専業の頃に下訳をやらせてもらったときだった。例によって文庫のお仕事の進行が遅れに遅れ、途中から下訳の助っ人を頼まれた。恐れ多いとは思ったが、せっかくの機会なのでお引き受けして締切りになんとか間に合わせた。そのあと、S社の「カンヅメ用」施設に担当編集者と一緒に慰問に行った。S社から1分ほどのしもたやで、管理人の女性が作る食事がうまいという評判だった。さすがにカンヅメ中なので、そのときはわずかな時間おしゃべりをしただけだった。悔やまれるのは、お仕事を終わられたあとにこちらから訪ねそびれたことだ。その夜は「助かりました」とは言っていただいたが、本当に役に立ったのやらどうやら。あとでじっくりお目にかかれば、翻訳の実務面でのアドバイスを得られたかもしれない。帰る時間を気にしなくていい立場になって、そういうまたとない機会を逃すとは、なんともちぐはぐというしかない。
メールのやりとりだけでおおかた仕事が済んでしまういまなら、長々とおしゃべりするのは時間の無駄遣いということになるのだろうか。けれども、「謦咳に接する」という言葉があるが、年齢も経験も見識もはるかに上の方々と一対一でお話しできる機会は若い人間にとって何ものにも換えがたいものだと思う。長身、白皙の二枚目で、いわゆる「文士」のオーラを漂わせた稲葉さんだったが、ときおりぽろりと口を出る威圧感のある言葉は熱い思いの現れだったのだろう。いま生きていらして、編集者から「ちょっと忙しいので原稿をメールで送ってください」などと言われたら、自慢の日本刀の鞘をはらって「無礼者!」と凄んでみせたかもしれない。
*誠に曖昧な記憶で書いていますので、間違いは多々あると思います。お気づきになられた方がいらしたら、ぜひご教示ください。次回以降で訂正させて頂きます。
◇染田屋茂(そめたやしげる)編集者・翻訳者。早川書房(1974〜86)、翻訳専業(1986〜96)、朝日新聞社出版本部(1996〜2007)、武田ランダムハウスジャパン(2007〜)。訳書はスティーヴン・ハンター『極大射程』(新潮文庫、佐藤和彦名義)など30冊ほどあるが、ほぼすべて絶版。 |