うしろを見るな

 翻訳ミステリに解説はつきものですが、いわゆる「ネタバレ解説」について文句を言う人がいます。犯人やトリックはもちろん、作品の内容について解説で明かすなんて怪しからん、というのですが、当編集室の考えでは「怒る貴様がおかしいぞ」で、これは文句を言うほうが間違っています。

解説を巻末に配しているのは、作品を読み終わった後に読んでほしいからで、本来「解説」や「あとがき」とは、すでに作品を読んだ人のために書かれるものです。買うかどうかの判断材料として解説を立ち読みする人が(それも少なからず)いる現状をふまえて、解説者の役割は読者にその本を手に取らせること、と仰る方もいますが、それには首をかしげざるをえません。現実にそうした役割を担わされていることは否定しませんが、それが第一の仕事だとは思えないのです。先に読んでほしい文章ならば巻頭に置くでしょう(欧米の本ではintroductionとして前に置くほうが多いですね)。その場合にはもちろんしかるべき配慮が必要ですが、それは「解説」ではなく「前説」です。

 最後に読むべきものを先に読んでしまうのは、ルール違反とまでは言いませんが、ちょっとしたズルには違いありません。あげく「こんなこと知りたくなかった」と後悔するはめになったとしても、文句を言うのは筋違いというもの。最後の頁を読んだら結末が書いてあった、と言うようなものじゃありませんか。(他の作品の犯人をばらしてしまうような行為は、もちろん別の話です。念のため)

 実際、解説を先に覗いてしまう人は少なくありませんし、自分だって時々やってしまうのですが、それが単なる悪癖、ケストナーの言葉を借りれば、「クリスマスの二週間も前に、どんな贈り物がもらえるかを知ろうとして、おかあさんの戸棚をかきまわして見るようなもの」であることは意識しておいたほうがいいでしょう。「本文を未読の方はここから先は読まないでください」という言わずもがなの断り書きは、執筆者や編集部の老婆心であって、本当ならそんな警告は必要ないはずなのです。

 最後の頁は最後に読むものである、という面白くもない正論をぶってしまったのは、「解説」という場が、その作品を読者がすでに読んでいるという前提で論じることができる、貴重な機会だと思うからです。新聞や雑誌の書評、単行本の評論などではこうはいきません。読者が対象となる作品を読んでいるとは限りませんし、手元にあってすぐ読める状態にあるとも限りません。「解説」の場合は、あわてて書店や図書館に走らなくても、ちゃんと作品が付いている。もちろん解説の方が作品に付いているのであって、その逆ではないのですが、とにかく書き手としては、読者がその作品を読んでいるものとして話を進めることができます。

 もちろん、そういう解説が望ましいとか、そうあるべきだと言うつもりはありません。解説者によっていろいろなスタンスがあってよいと思いますし、作品の内容には踏みこむべきではない、というのもひとつの考え方でしょう。たいして言うべきこともないのに、むやみに犯人やトリックを明かされても困りものですし。ただ、「解説」と銘打つからには、「ネタバレ」という本来筋違いな非難を恐れて、作品についてより踏み込んだ議論ができる可能性を手放してしまうのは勿体ないと思うのです。

 しかし、充実した作家論、作品論を読みたい、優れた解説は読書の愉しみをより深いものにする、と思う一方で、それとは矛盾するようですが、「解説」ってほんとうに必要なのかな、カバーや帯の内容紹介と作者紹介程度のものがあれば十分なんじゃないの、という危険な(?)囁きが時に胸をよぎることがあります。

作品については、読者がそれぞれ考え、感じればよいのでは——という思いをあらためてしたのは、今年の話題作、フェルディナント・フォン・シーラッハ『犯罪』(東京創元社)を手にしたときです。お読みになった方は御存じのように、この本には「解説」も「訳者あとがき」もありません。

 きわめて抑制されたスタイルで書かれたこの作品には、読み終えると誰かに猛烈に話したくなるところがあり(私はそうでした)、訳者の方にも語りたいことが沢山あるはずなのですが、あえてそれを封印してすべては作品に語らせ、その先は読者にゆだねる。小説の最後の一文とともに本を閉じる潔さ、その余韻にはどんな名解説もかないません。こういうストイックな造りの本を前にすると、本篇が終了したあとに解説者が登場して作品を論じるのが、なんだか野暮な行為にさえ思えてきます(それはそれで楽しいんですけどね)。この魅力的な、さまざまな読み方が可能な短篇集に、「あえて」解説をつけなかった編集者の決断に拍手を贈りたいと思います。

藤原編集室(ふじわらへんしゅうしつ) 1997年開室、フリーランス編集者。《世界探偵小説全集》《翔泳社ミステリー》《晶文社ミステリ》《KAWADE MYSTERY》と翻訳ミステリ企画をもって各社を渡り歩く。たまに「解説」を書くことも(「怪説」になっていないとよいのだけれど)。現在、J・D・カー『蝋人形館の殺人』(創元推理文庫)を校正中。ツイッターアカウントは@fujiwara_ed

本棚の中の骸骨:藤原編集室通信

●すごいよ! シーラッハさん——『犯罪』をめぐる冒険(6月28日)

●ドイツミステリへの招待状3(12月19日)