益体もない話

 翻訳ミステリの編集にたずさわるようになって、今年2010年で六年目になりますが、一冊の本が店頭に並ぶまでには、どこかの過程で必ず何かしらの問題が持ちあがって、頭を悩ますことになるものです。紅茶片手に鼻歌まじりで編集してたら、はい一丁あがり、という経験をいっぺんくらいはしてみたいですが、そんな事例はオカルトの範疇に属するできごとでしょう。当然、そんなオカルトありえません。

 書籍編集にまつわる悩みあれこれの中でも、同業者の皆さまの共感を得られるんじゃないかと思うのが、訳題をつける際の苦労です。題名は表紙とともに、いわば書籍の顔となる部分。充分なインパクトがあり、なおかつ内容に即した題名にしようと、毎度必死に知恵を絞っています。

 話ついでに「翻訳ものの訳題は誰が考えるのか?」という疑問に答えておきますと、わが東京創元社の場合、これはもうケースバイケースで、いちばん多い「担当編集者が考える」以外にも、翻訳家のかたがつけてくださった仮題をそのまま採用したこともあれば、社内の人間に相談して複数の候補から決めたこともあります。以下は、私がいかに苦労してタイトルをつけているかという、その一例のお話。

 ジル・チャーチルというコージー・ミステリの作家がいます。『ゴミと罰』に始まる、三人の子供を持つ専業主婦ジェーン・ジェフリイのシリーズが有名ですが、去年、そのシリーズ第10作The Merchant of Menaceを出すことになりました。このシリーズの題名には特徴があって、原題はすべて有名な書籍のもじりなのです。それにあわせ、既刊の訳題も基本的にはその元ネタを踏まえた題名をつけています。

 例)『ゴミと罰』Grime and Punishment→元ネタ:『罪と罰』Crime and Punishment

 第9作『飛ぶのがフライ』までは翻訳を担当された故・浅羽莢子先生が見事な訳題をすらすらひねり出していたので、歴代担当編集者(私はたぶん三人目)はこのことに関して苦労知らずだったのですが、今回はそうもいきません。

 仕方がないので、頭をダジャレ脳にして臨むことにしました。ふだんなら思いついても決して口に出さないレベルのダジャレを率先して披露するなどの厳しい鍛錬を経て(付帯効果として職場の気温が下がります。夏場はおすすめ)、〈AERA〉の吊り広告を考えている人とのあいだに一方的な仲間意識が芽生えた頃合を見はからい、いざとりかかります。

 さて、The Merchant of Menace。もちろん元ネタはThe Merchant of Venice……シェイクスピアの戯曲『ベニスの商人』ですね。「ベニス」か「商人」かのどっちかを変えれば、恰好がつきそうです。本書の舞台はアメリカ、シカゴ郊外の町なので「ベニス」のほうを変えるのが順当かな。ベニス、ベニス……紙に書いたり、声に出してみたり、辞書類を引いたりして似た単語を探していきます。

 ベニス、ベニス……そうだ、『紅椅子(べにいす)の商人』というのはどうだろう。作中に赤い椅子が出てくればいけるぞ。原稿を読み返します。……出てきませんでした。そもそも椅子への言及がないので(ソファはちょっとだけ出番がありました)、この案はボツ。

 ベニス、ベニス……あ、ベニズワイガニ! 作中にベニズワイガニが出てくれば(以下略)……出てきませんでした。この案もボツ。

 じゃあ、「商人」のほうをいじってはどうだろう。証人、上人、承認、小人、昇任、使用人……「証人」「使用人」あたりはミステリとの親和性が高そうですが、あいにくとこの作品は裁判ともメイドともいっさい縁がない、クリスマス休暇のお話なのでした。

 その後も没我の境地でボツが重ねられます。いいかげん煮つまっている自覚はありますが、ここであきらめたら終わり。気持ちをリセットして、内容面から考えていくことにしました。

 原題「悪意の商人」とは(悪意まじりの)強引な取材方法で名高い、嫌われ者のニュースレポーターのことで、もうお察しのとおりこの人が被害者です。そのろくでもなさたるや筋金入りで、主人公がクリスマスの準備やらご近所さんを招いたパーティーの仕込みでてんやわんや、大混乱のまっ最中にアポなしでずかずか押しかけてくること一点だけでも、ドメスティック・エネミーNo.1の称号を与えるに充分すぎるくらいでしょう。

 ん? 大混乱? 混乱……混沌……カオス(ひらめいた)! 混乱を倍加させる人物という意味で、『カオスの商人』というのはどうだろう。これならいけるんじゃないか。

 ……とまあ、一部省略した部分もありますが、かように苛酷な試行錯誤を経て、訳題というものは決まるわけです。以上、「益体もない話」というか「訳題のある話」でした。楽しんでいただけたらコージーです。じゃなかった、幸甚です。