ジル・チャーチルは、現役の書き手の中でもっとも信頼できるコージー・ミステリー作家である。彼女の長所は、箱庭のように小さな舞台の中に世界を丸ごと入れこむ、デフォルメの力にある。コージー・ミステリーは変わらない日常を描くものだ、としか思っていない読者は、こんなにも豊かな世界があったのか、と驚かされるはずだ。お茶とケーキで世間話をしているだけの物語じゃないんですよ、コージーって。

作家ジル・チャーチルの代名詞といえば主婦探偵ジェーン・シリーズだが、今回はもう一つの看板である〈グレース&フェイヴァー〉のほうを取り上げたい。一九九九年に発表された『風の向くまま』で幕を開けたこの連作は、アメリカがもっとも揺れ動いた、大恐慌の時代を舞台にした歴史ミステリーなのである。

 一九三一年、金融恐慌の波に呑まれて全財産を失ったロバートとリリーのブルースター兄妹は、ニューヨークの安アパートでジリ貧の生活を送っていた。そこに遺産相続の話がふって湧く。大伯父のホレイショ・ブルースターが、彼らに巨額の財産を遺して亡くなったのだ。ただしその相続には限定条件が就いていた。ホレイショが愛したニューヨーク州ヴォールブルック・オン・ハドソンの田舎屋敷で十年間暮らし続けること。彼らが屋敷を離れれば、自動的に権利を失ってしまうというのだ。それまで続けていたニューヨークでの仕事を続けることもままならない。なぜならば、屋敷からニューヨークまでは列車で片道二時間の距離になるからだ。すべてを捨てて田舎で隠棲しろということかと割り切り、二人は移住を決意する。

『風の向くまま』はこんな出だしの小説である。元はスイカズラ・コテージという名前だった屋敷をグレイス&フェイヴァー・コテージと改名するところから兄妹の生活は始まる(グレイス&フェイヴァーとは王室終身貸与権のことで、遺言によって土地に縛りつけられた自らの立場を、王室との契約に喩えて洒落のめしたのだ)。無人だった期間に建物は荒廃しているし、なにより田舎町では収入を得る術があるかどうかもわからないし、気分は暗澹たるものだ。巨額の財産が入るのは十年後、それまではとにかく自活していかなければならないのである。そんな中、二人には大伯父殺しの嫌疑までがかけられてしまう。

 周囲の人々からは大金持ちと思われているのに収入は皆無、という厳しい状況が本書の肝である。上流階級の作法が身についたロバートとリリーは、図らずも町の名士として扱われてしまうことになる。また二人も、幼いころから身に染みついたプライドがあるために、自分たちが一文無しに近い境遇であるということをなかなか言い出せない。そうした虚飾がいつ明らかになるか、心ならずついてしまった嘘がいつばれてしまうか、ということが物語序盤では大きな関心事となる。町の人々の温かい情に触れた二人が、ありのままの自分をさらけだそうと決意する場面はなかなかに感動的だ(これから読む人のために、どの巻でそれが出てくるのかは明かさないことにします)。

 ジル・チャーチルが物語の舞台を大恐慌時代に設定した狙いは明白で、こうした兄妹の境遇と社会の状況とが対比されているのだ。経済環境の悪化が人心を荒ませ、それまで美風とされていた慣習があっという間に廃れていった時代だった。その変化のただなかで、自分たちにとっていちばん大事なものは何か、正しく生きるために選ばなければならない道はどれかということを、ブルースター兄妹が自覚していく物語なのである。第四作『愛は売るもの』では第三十二代の合衆国大統領選挙戦が背景で描かれるが、それによって選ばれた大統領、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトがニュー・ディール政策によってアメリカという国を建て直していった時代は、兄妹がグレイス&フェイヴァー・コテージで暮らす十年と重なっていくはずである。旧き良きアメリカが今のアメリカ、(アメリカ国民にとっての)〈私たちのアメリカ〉に変わっていく過程を、主人公の成長に重ねて描く意図があるのだろう。大袈裟な言い方をすれば、ブルースター兄妹は国民的ヒーロー&ヒロインになることを想定して描かれたキャラクターなのだ。

 第二作『夜の静寂に』は、生活に窮した兄妹が屋敷にニューヨークの有名人士を招いて会費制のパーティーを開くことを思いつくが、その席上で飛び入り参加をした客が殺害される、というお話。第三作『闇を見つめて』では、屋敷の古い氷室を解体中にミイラ化した死体が見つかるという衝撃的な出来事があり、並行して町の婦人会のメンバーが殺害されるという事件が描かれる。一見無関係に見える二つの事件が、どう結びつくのかがミステリーとしての関心事になるのである。第一作は古典的な遺産相続殺人、第二作は不愉快なメンバーが入りこんだ集まりで起きた殺人、第三作は過去の因縁がアクロバティックな形で現代の事件と結びつく構成、というように毎回の筋立てにも工夫が見られる。第四作は醜聞を噂されていたラジオ伝道師が被害者となる物語で、殺人者の動機が変わっている。この時代ならではの動機というべきで、その歪んだ論理に特色があるのだ。謎解きを楽しみにミステリーを読む方には、どの一冊をとっても外れはないとお薦めします。

 コンビ探偵のキャラクターも本シリーズの魅力の一つで、しっかりものの妹リリーが探偵役としては主、どちらかといえばのんきな兄のロバートが従である。なにしろニューヨーク時代も、リリーは銀行で小切手を数える事務の仕事に就いていたのに対し、ロバートは有閑婦人相手のエスコートというなにやら怪しげなことで日銭を稼いでいたぐらいだ。現実派の妹が事件の鍵を見つけるために奮闘し、普段は軽口ばかりでふわふわとした性格のロバートが、要所要所で頼りになるところを見せる(ときに見せられずに終って、妹に愚痴をこぼすときもある)。この凸凹コンビぶりはマーサ・グライムズのリチャード・ジュリー警視と元貴族のメルローズ・ブラントの関係にも通じるものがありますね。これは訳者の戸田早紀さんの手柄だと思うのだけど、兄妹がかわしあう、冗談やからかいの混じった会話がまたいいのである。本当に仲の良い二人、という感じだ。ためしに二冊から、幕切れの台詞をとってみる。

「ロバート、あなたに理にかなったことを言われるのって、ほんと我慢ならない」(『闇を見つめて』)

「リリー」ロバートは言った。「きみもおめでたいねえ」(『夜の静寂に』)

 ね、仲良さそうでしょ。

 さて、ミシュラン方式の★は以下の通り。

 ストーリー ★★★★★

 サプライズ ★★★★

 キャラクター★★★★★

 ロマンス  ★★

 杉江松恋